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 終わってみると御桜先輩との会談に、わたしは予測の二倍近く時間を費やしたことになる。

 午後から授業が無く部活にも所属していないとはいえ、わたしにだって放課後の用というものはある。例えばそれは準備室の名目で学び舎の空き部屋を占領している変人教師に会いに行くとか、その程度のことだけれど。つまり、何が言いたいかというと。

 わたしにだって、タイムテーブルというものはあるのだ。

 予想よりも遅れた分の時間は、どうしたって取り戻すことは出来ない。時間とは永劫じゃないんだから。とはいえ、ここ、屋上前踊り場から国語科準備室まで走って行くのも気が引ける。そんなのが大した時間短縮になるというわけでもないし、逸る気持ちを抑えきれない子供みたいに思われるのも嫌だ。

 けれど、確かに。

 確かにわたしは、この後の邂逅を楽しみにしてはいるんだけど。

「はあ――今日も寒いな」

 屋外から校舎内に入ったところで、冷えた体は直ぐには温まらない。

 そもそもこんな所、外とほとんど気温差なんて無いんだから、わたしの体温は奪われるばかりだ。だから――だから、とっとと暖房の設備されている場所へ行こう。どうせなら少しでも早く体温を取り戻せるように。

 ……走って、行くことにしようかな。

 そんな訳でわたしは結局駆け足を選択し、階段を下りていく。廊下を走っていて教師に見付かるのも上手くない。人目のありそうな場所ではペースを落として。もっとも、今時そんなことを厳格に取り締まっている高校でもないのだが。

 色々あるのだ、わたしにだって。優等生としての体裁とか、そんなのが。

 そうして目的地に到着する頃にはわたしの思惑通り、体はすっかり温まっていた。

 ……少し、熱すぎるくらい。

 気づけば息が上がっていた。肩が小さく上下しているのが解る。

 胸に手を当てて深呼吸し、心臓の鼓動が緩やかになるのを待つ。

 よし、これでオッケー。

 こんこん、と形式だけみたいなノックを済ませる。いつものことながら、返事は無い。

「失礼します」

 平静を装う声色で告げて、わたしは扉を開いた。

「…………」

 一番、朔夜さんの姿が目に入る。部屋の中央に設置されたデスクに、いつもみたいに煙草を銜えて座す彼女の表情は――なんだか、とっても不機嫌だった。

 不機嫌。そう、不機嫌だ。

 機嫌が良くないとか、表情に起伏が無いとかじゃない。明らかに機嫌が悪い。世界全てが忌々しいと呪うかのような、仏頂面とかそんなのを超越した表情。

 よく言う例えを持ち出すなら、今の朔夜さんの視線はそれだけで人を殺せるみたいだ。中空を睨め付ける視線が……怖い。氷点下二百八十度くらいに冷えた視線に、わたしの暖かくなった体も瞬時に冷めてしまった。

 なんだろう、朔夜さん。どうしてこんな、不快を前面に押し出しているんだろう……? 

 心当たりが在るとするならば今朝のこと。

 昨日鍵を預けられた手前、教室に行くよりもまず準備室へやってきたわたしはそこで膝を抱えてしゃがみ込む朔夜さんを発見したのだ。職員室に行けばいいのに、と思いながらこれぞというほど非日常的な彼女の姿に声を掛けあぐねていると、

「迂闊だった……」

「…………何がですか?」

「お前に準備室の鍵を預けるということは、即ち、お前が来るまでこの扉が開かないということだ」

 朔夜さんは閉ざされた準備室の扉を指差す。

 傍らには鞄が無造作に置かれている。鼻は赤く、コートをモーフみたいに羽織っている姿はなんというか、とにかく慈悲を刺激して遠慮が無い。うわあ……朔夜さん、もしかして涙目になってるんじゃないか……? 

 何が彼女をそこまで貶めているのか、甚だしく疑問だ。

「その……なんていうか、すいません。なんだかもう、ごめんなさい」

 普段は威厳高く気丈な麗人である朔夜さんも、こうなってしまうとマッチ売りの少女みたいで見るに耐えない。わたしは急いで駆け寄ると何故だか謝ってしまい、急いで鞄の中から施錠開錠を司る鉄片を取り出した。

「ああ……いや、お前に責任は無い。私が愚かだったまでだ」

 息が……息が白い。どれだけの間ここで座り込んでいたのか。

 ほんとうに、どうして職員室に行かないんだろう。この人は。

 いつまでも朔夜さんは鍵を受け取ろうとしないので、準備室の開錠を行ったのはわたしだった。それと同時に始業の鐘が鳴り、場を後にする口実を得たわたしは、

「それじゃあ、失礼します……朔夜さん」

「ああ……すまないな」

 何がすまないというのか、朔夜さんの言語回路は間違いなくいつもと別の形で機能している。始業の鐘から、担任が教室に入ってくるまで十分。わたしはその間に教室へと入らなければならなくなり、この日はランニングから始まったのでしたとさ。

「………………」

 なんてことが、あった。今朝、あった。

 もしかしたら朔夜さん、今になってそのことで気分を害したというのだろうか。今になって、わたしに因縁を覚えたとでも言うのだろうか。いや、でもそれは、お門違いというもので、朔夜さん自身も自分の責任だと今朝方言っていたし――

「なにしてる? さっさと閉めろ、暖房が逃げるだろ。私は寒いのは嫌いなんだ」

「あ、はい。入ります。ていうか、なんかもう申し訳ありません」

 謝ってしまう。

 今の朔夜さんを前にしては、条件反射みたいに謝ってしまう。

 部屋の空気は異常なまでに重たかった。原因は問うまでも無く朔夜さんその人であって間違いないだろう。

「それにしても遅かったな、空。遙瀬は一時間も前にやってきたというのに」

「ええ、少し私用がありまして。すいません、先に言っておくべきでした」

「ふん。まあいい。別に私はここに来ることを強制はしていないからな」

 暦じゃないけれど、今日のわたしは自分でも謝罪の数が多すぎる。しかも朱空朔夜さん個人に対しての回数が一日のほぼ百パーセントを占めていると思うと、余計に気が滅入った。

 朔夜さんの存在が強烈過ぎて気づかなかったけれど、橙弥は既に登場済みだったらしい。扉を開放して初めに視界が捉えたのが朔夜さんでなければ気が付いていたのだろうけど。一度あの冷酷な眼に魅入られては他に気を回す余裕など皆無だというもの。

 室内の空気に行き詰っているのか、橙弥もまたかなり沈んでいた。

 存在が、かなり希薄に感じる。

 わたしはそんな橙弥の隣に腰を下ろし――

「それで、だ。こんな所に、お前は何をしに来たんだ」

 同時に出た朔夜さんの言葉は、おそらくわたしに向けられたものじゃない。

 侮蔑、軽蔑、忌諱――憚りなく呪詛を撒き散らすように発せられた一言は、

「いやあ、こんな所とはあんまりだと思いますよ? ここは貴女の所有する空間であり、貴女が一日の大部分を過ごしている場所ではないですか。卑下する理由はどこにもありません。客人たる私にしてみれば、ここは邸宅として非常に身を小さくしていたのですけどね」

 軽薄な微笑を満面に浮かべた、棺木鏡介がそこにいた。

「……お前は。……私は何も、この部屋を非難したわけじゃない。それとも、そうか。お前からしてみればここは犬小屋も同然の薄汚い廃部屋でしかないというのだな? なら無理は言わない、そんな所に客人を招きいれたとなると私も気が引ける。迅速にお引取り願おう」

 朔夜さんは、何もそこまでは言ってないだろう、と突っ込みを入れたくなるようなことを言った。さっきからの不機嫌は、確実に棺木さんが原因ということだろう。昨日の会話からも窺えた通り、やはり朔夜さんは彼を心底嫌っているみたいだ。

 悪辣極まりない朔夜さんの発言に対して、けれど棺木さんは笑顔のままで応える。

「いえいえ。客人としてこれだけの待遇を受けているのです。私には何の不満もありませんよ」

「私は、一度たりともお前を客人として扱ったつもりは無い」

 いや、でもさっき確かに自分で『客人を招き入れる』とか言っていたのでは……。

「そうですか? ですが、ご覧の通り私はコーヒーまで振舞われています。これに勝る対人礼儀としての客人の扱いは無いのではないでしょうか? ウェルカムドリンク、という言葉もあります」

「それは、そこの少年が勝手にしたことだ」

「…………」

 朔夜さんの殺人的冷視線が橙弥を射抜く。

 ただでさえ希薄だった橙弥の存在感が、さらに弱くなって気がする。

 少しずつではあるけれど、わたしも状況を理解しつつあった。つまりは、朔夜さんがいつものように食堂へ昼食を取りに行っていた間に棺木さんが訪れ、入れ違いになってしまったところに橙弥がやってきたと。

 コーヒー一つ出しただけで、こんなに人間は責められてしまうのか。

「あ、コーヒーおかわりをお願いします、朱空さんのお知り合いの方」

「……え、あ、はい、解りました」

 …………。

 橙弥は、棺木さんの笑顔と朔夜さんの静かなる激情に挟まれながらコーヒーを淹れに行く。立ち上がる一瞬、彼の瞳がわたしに助けを求めていたけれど、この状況わたしにはどうしようもない。うん、ドンマイ、橙弥。

 朱空さんのお知り合いの方、と橙弥は呼称されたけれど、その呼び名はどういう経緯で決定されたのだろうか。……まあ、橙弥の性格から考えると、

「朱空さんの知り合いの者です。貴方は?」

「じゃあ俺も、そんなところですよ」

 てなやり取りがあったのだろう。それで、その呼称。

 棺木さんは、割と適当な人らしい。

 ことん、とマグカップが置かれる。

「……で、だ。初めの質問に答えろ棺木」

「おや? 空さん、いらしていたのですか」

「…………」

 ……わたしは、一瞬どう対応するべきか思案して結局適当に挨拶をした。

 無視を喰らった朔夜さんは不機嫌を二乗している。臨界点は、すぐそこかもしれない。

 もしかしたらこの空気を意図的に作り出しているのではないかと、わたしは棺木さんを疑い始めてしまうほどだ。もし本当にそうだとしたら、彼は心の底から意地が悪い。何がしたいのだろう。

「ご心配なく。私の目的は既に果たしましたよ。旧友との楽しい会話は充分に楽しみましたし。ええ、はい。これ以上私がここにいる理由はありません。名残惜しくはありますが、そろそろ退散させていただきますよ」

 新たに注がれたコーヒーを優雅に啜りながら、まるでそんな風でないようなことを棺木さんは言う。口では退散すると言ったけれどこの人、間違いなく帰る気など無い。少なくともカップが空になるまでは。

「……なあ、空」

 地の底から這い出てきたみたいな声が聞こえた。

 わたしの隣で必死に我関せずとばかり存在を殺していた橙弥である。場を憚り、というよりも単に他の二人に聞かれたくないだけか、かなり潜めた声は図らずとも彼の現状を悲痛に演出していた。

「何ですか、兄さん? ああ、よかったらわたしの分もお願いします。出来ればコーヒーでなく日本茶を」

「自分で淹れろよ……! ……じゃなくて、あのさ」

 後半は思い出したみたいに声のトーンが落ちていた。けれど、一声の音量的に十分朔夜さんと棺木さんに会話は気付かれているので今更感は否めない。それ以前にこの二人を相手に密談なんて出来ないだろうけど。

「朱空さん、申し訳ありませんが煙草は控えていただけませんか? 私はどうも紫煙が苦手でね。凄惨な過去を思い出すようで」

 と、カップ片手に棺木さんが意見する。不可解なのは最後、凄惨な過去がどうという部分だけれど。煙草に何か嫌な思い出でもあるのだろうか。

「知らん。ここは私の私室だ」

 その懇願を、朔夜さんは一蹴する。遂にここは準備室ではなく正式に朱空朔夜個人の私室となってしまった。オフィシャル決定を下した朔夜さんは紫煙を吹き出すついでのように、

「紫煙と私怨か。解りづらい上にくだらないな」

 棺木さんの言葉を説明してくれた。紫煙と私怨。確かに解りにくい。

 と、もしかしたら朔夜さんは反撃のつもりで言葉遊びに乗じたのだろうか。『上に』『下らない』……漢字にしなければ解らないのだから、難解度は棺木さん同じくらい。

 仮にわたしの推測が正しかったとして、果たして、そこに指摘を入れる者は無かった。

 それよりも帰るんじゃなかったのかお前は、と朔夜さんはさらに続ける。本当に棺木さんのことを嫌っている。

 てっきりわたしは――暦を預けたり、橙弥の話だと六月の事件にも協力を仰いだりしたらしいから――口では散々言っても実際はそれほど嫌っていないんじゃないかと思ってたんだけど。

「ええ、先程も申し上げましたが、私の用は既に済んでいますから。そちらのお話が済めば直ぐに退散致します」

 流し目がわたし達に向けられる。やはり、密談など出来ようものではなかった。それとも、単純に先の橙弥の声が大きすぎたのだろうか。

「どうぞ続けてください。ああ、私のことでしたらお気遣い無く。兄妹水入らずをお楽しみください」

 両掌をこちらに向けて微笑む。橙弥には彼の笑顔が畏怖の対象となっているのか、小さく表情が引き攣ったのが窺えた。何だか面白い。

「……いや、やっぱいいよ。忘れてくれ」

 心底疲れた風に橙弥は前言を撤回、というより元から無かったことにした。

 確かに、橙弥の判断は正しい。きっと橙弥はわたしに、この人は何者だ、と棺木さんを指す質問をしようとしたのだろう。小声とはいえ、本人の前でそんな質問をするのは気が引けるだろうし今の状況では尚更。兄妹水入らずも何もない。

「そうですか」

 室内で喜色満面なのは棺木さんだけだった。

 橙弥は病人か、吸血鬼にでも襲われて血を全部抜かれたみたいに顔色が悪い。朔夜さんは相変わらずの不快感押し出しのしかめ面。わたしはというと、鏡が無いから解らないけれどきっと中立的無表情をしているだろう。

 立ち上がった棺木さんはそのまま大人しく帰っていくのかと思えば、

「では、行きましょうか、空さん」

「はい?」

 思わず肯定してしまいそうになったところを、寸でのところで疑問系に発音した。

 ……この人は、なにを言ったのか。

 今から考えれば棺木さんの言動には可笑しな点があった。朔夜さんに出て行けと言われた時、そちらの話が済めば、と彼は言ったのだ。それはつまり、元よりわたしを連れ出そうと考えていたということにならないか。

「おや? どうしました、空さん」

「あの、えっと、わたし……は、ですね」

 挙動不審。それは鏡が無くても解る。

 あたふたしながら横目に朔夜さんを見て色々と訴えてみるけれど、彼女は漂う紫煙の向こうで、

「なんだ、お前の目当ては空か。本人の了承があるのなら構わん。ただし、それは私の生徒だからな、妙な真似は許さんぞ」

 なんてことをあっさりと言ってしまった。

 ちょっと待てよ。

 もしかするとわたし、厄介払いに利用されているのかもしれない。

「ちょうど私も遙瀬に話があったところだ。空には席を外してもらった方がいいと思っていたところでね。無論、お前には早く消えてもらいたいと願っていたがね、棺木」

 悪意しかない朔夜さんの暴言にもしかし、棺木さんは笑顔で応える。

「そういうことですから、行きましょうか、空さん」

「わたしはまだ何も……」

 言いつつ朔夜さんを窺うけれど、彼女は何の反応も見せない。いや、何の反応もというのは間違いだ。彼女の目はわたしに、さっさと行ってしまえ、と告げていた。

「……解りました」

 状況に流されてしまうのも、構わない。どうにでもなれだ。

 そもそもわたしは、今日、この人と話をすることを楽しみにしていたじゃないか。

 自分に言い聞かせるみたいに心中呟いて、わたしも立ち上がる。座っていた時間がほんの数分程度の椅子を引いて、既に扉を開けて待っている棺木さんの元へ向かった。

「空」

 再度、橙弥が呼びかけてくる。

「なんですか?」

「ん……いや、気を付けてな」

「はい。兄さんは家で夕飯でも作って待っていてください。今日は塩と砂糖を間違えるような真似は、しないでくださいね。後、シナモンシュガーはどう扱ってもお味噌汁にだけは入れないでください」

「…………気を付けます」

 そんな会話を最後にして、わたしは準備室を後にした。



 ◇



 その後のことを簡略的に説明する前に現在の状況を端的に述べるのなら、喫茶店である。

 かなり普通の、別にこだわりがあるわけでもなく目に付いたから入った喫茶店。当然のようにわたしは初の来店である。喫茶店というとわたし個人の見解では二種類のイメージがあって、一方は木造建築の小高い緑の丘にでもありそうな店と、石造りの何だか渋い雰囲気のどちらかというとバーみたいな店。わたし達が落ち着いたのは前者だった。

 今に至るまでの経緯は語るまでもなく、棺木さんと朔夜さんによる呉越同舟が解除されて穏やかな空気の散歩が展開されただけだ。会話というほどの会話はなく、棺木さんなりに気を遣ったのか道中見つけた喫茶店に入店し今に至る。気を遣うというなら、寒さよりもさっきまでいた部屋の空気の重さをどうにかして欲しかったけれど。

 コーヒー(当然ホット)を二人分注文し、二つのカップがテーブルに置かれてるまで会話は無かった。

 やがて何の前振りも無く唐突に、

「いいお兄さんですね、朱空さんのお知り合いの方は」

「え……ええ、はい。ありがとうございます」

 この期に及んでまだその呼称をし続けるのは、彼なりの意地なのだろうか。

 先にカップに口を付けた棺木さんが言ったのはそんなことだった。取り立てて、話題があるというわけではないらしい。

「て、いや、そんなことは、ないですよ。兄は、いろいろと面倒な人ですから。わたしとしてはもう少ししっかりしてもらいたいと思っています」

 脈絡の無い唐突な言葉だったために肯定してしまったけれど。

 どちらかと言うならこっちが本音で、事実、わたしは橙弥には少し自重して欲しいと思っている。

 彼は六月の事件にも能動的に関わっていて、本人はそんなこと一切口にはしていないけれど、朔夜さん曰く死んでいても可笑しくない状況だったらしい。朔夜さんの言うことだったし、勿論鵜呑みにはしないけれど。しかしわたし自身夏のことがあって、橙弥が妙なことに首を突っ込みやすいことは理解している。多少の誇張はあったにせよ、朔夜さんの言っていることは丸々笑い飛ばせるようなことではない。

 だからといって、わたしはそんなことなど一切橙弥には言っていないのだが。兄妹故に彼の強情さは知っているので、わたしがなんと言おうと無意味なのだ。

 それこそ泣きながら懇願でもしない限りは――

 ふと思った。

 橙弥は、わたしが泣けばその理由を問うだろうか。

 わたしが泣けば、言うことを聞いてくれるだろうか。

 わたしが泣けば――心配、してくれるのかな。

「いえいえ、彼はなかなかどうして立派な兄ですよ。貴女を放任しているわけでもなければ、異常なまでに固執してもいない。私のような者に妹が連れ出されるとしても、一言で送り出す。過保護でもなければ、無関心でもない。理想的な信頼関係ではないですか」

「いえ、そこまでは……」

 さすがに過大評価というものだろう。棺木さんには橙弥が理想の兄像となっているようだが、それなら名前くらい覚えていればいいのに。いや、そもそも名乗ってすらいないのか。

「謙遜ですよ。貴女達は羨ましいくらい、素晴らしい関係ですよ、兄妹として」

「…………」

 一体何を評価基準としてそのようなことを言っているのかが、わたしにはまるで解らない。

 とは言え、棺木さんは妹を目の前にして兄の存在を散々なまでに否定するような人ではない。というか、普通の神経をした人間ならばまずそんなことはしないだろう。ならば軽口程度の誉め言葉として受けとるのが常識的な対応か。

「棺木さんにも、妹がいらっしゃるんですか……?」

 発言の内からそんなニュアンスを感じ取り、わたしは自制を掛けることなく疑問を口にした。

 別段、興味があった訳ではなかったので、訊いておきながらわたしの中では返答に期待などしていなかった。失礼ながら。社交辞令的反射といって差し支えない。

「はい」

 と、棺木さんはあっさり肯定し、

「目に入れても痛くない妹でした。ええ、断言しましょう。私は自らの妹のためならば、全人類を一人残さず消し去ることさえいとわないと」

 表情一つ変えずに言い放ち、カップを傾ける。

 顔色に変化がないから本気としか受け取れないのですが……

 喫茶店。

 遙瀬空というわたしの前には――とんでもないシスコンがいた。

「…………」

 なんと言っていいか、解らない。少しだけ、怖かったりもする。改めてわたしは目の前のソレが理解不能な存在だと悟った。

「しかし、私は失敗作でした。大切な妹でさえ助けることができなかったどころか、私の行動がさらに妹を絶望させる結果になったのですから。結局、私が救いたかったのも、結果として救ったのも自分でしかない。そして自己の救済さえも半端な――穴だらけの欠陥製品でした」

「……、棺木さん…………?」

「いえ、ちょっとした余談です。聞き流してください」

 本人はそういうけれど。

 わたしには、彼の表情が忘れられそうになかった。

 初めて、ほんの少しだけだったけれど、確かに変化した彼の悲しげな(カオ)を。

「それでは、本題に移りましょうか」

 積極的にカップを傾けているかと思ったら、さっきまで一杯だった褐色の液体が消失している。準備室でも最低二杯は飲み干していたというのに、この人は相当なコーヒー好きかなにかなのだろうか。

 本題、と棺木さんは言ったけれど、やはりその本題というのは、

「貴女の悩みを、解決致しましょう」

 インチキ宗教団体の勧誘みたいに、棺木さんは言った。

 大仰な動作でお辞儀をしてくる。本当にどこかの新興宗教団体みたいだ。

 当然、何かの神を信仰しろだとか入会金を支払えだとか、そんなことは言ってこない。あくまで形容でしかないのだ。彼は宣教師なんかではない。

 不思議とわたしは、この底が知れない男を信用していた。

 初めに会ったその時から――常識で計り知れないなにかを感じていて。それこそ宗教染みてると笑ってしまいたくなるくらいに。

 棺木鏡介。

 彼は少なくともわたしにとっては、在る意味で信仰してしまっても構わない気がしていた。

「わたしの……悩み」

 なんだろう。

 なんだろう。

 確かにわたしは、ずっともやもやとしてはっきりしない何かを抱えていた。

 心の中にいつも濃厚な霧が立ち込めているような、自分のことが自分で理解できない。

 だというのに。

 だというのに、他人のこと――世界のことで知らないことは無い。わたしが否定しても、否応に知れてしまう世界の理。気が付けばいつからか身に付いていた、読心術。常識から外れてしまった、破綻。

 でもそんなことはどうでも良かったはずだ。

 わたしはわたしのことを受け入れている。

 受け入れて、受け止めてきたつもりだ。

 少なくとも現状に嫌気が差しているというわけではない。読心術も、異常なまでに膨れ上がった叡智も、何もかも。それが遙瀬空だと受け入れていた。

 だとしたら、何が。

 何が、わたしの心を隠しているのか。

 深い深い霧の向こうにずっと見えない遙か遠くに。幼い頃から触れることが出来なかった場所。帰り道も、行き先も。全てがぼやけて。霧は、道を隠して。ずっと遠くに。わたしという存在の起源が在って。破綻する以前の。或いは破綻した後の。

 唯、一つだけ、確かな本物の想いが――

“――どうして――”

 思い出す。ずっと昔の自分の言葉を。

 大切な、始まりの一言を。

“――どうしてセカイは――”

 ちっぽけだけど、確かにそこに在って輝いていた。

 遙瀬空が、大切にしてきた想いを。

 その輝きを、永遠にしたいから――


“――どうしてセカイは汚いのかな――”


 遙瀬空は言った。

「わたしは……わたしは、自分が解りません。世界のことは何でも知っているのに。自分のことだけはどうしても解らない。昔、止まってしまったわたしを、いつか遠い本当のわたしを思い出せないんです」

 始まりのあの日。いつかの記憶。

 それはもう思い出せないくらいに色褪せて、僅かな輪郭だけをぼんやりと残した想い出。

「わたしは――わたしは、兄のことが好きなんです。だけど、それもどうしてか解らない。解らないんじゃなくて、そのことが信じられない……わたしは偽物だらけだから、借り物の知識しか無いから――その気持ちだって、偽物かもしれない」

 遙瀬橙弥と遙瀬空。

 兄と妹。

 いけないことだから。禁忌だったから。いけないことは、穢いから。

 だからわたしは――その想いを心の深いところに隠した。

 忘れてしまえば楽だったのに。忘れることなんて出来なくて。

 遙瀬空に残ったのは、曖昧な、忘却の果ての微かな記憶の輪郭。

「だから――」

 取り戻したい。

 いつか自分で沈めてしまった、遠い想いを。

「――わたしは、知りたいんです。自分のことを」

「解りました」

 果たして、棺木さんは頷いた。

 わたしのことなど、初めから知っていたように。否、知っていたんだろう。

 彼には最初から、全てが視えていた。

 自らを欠陥製品と、失敗作と言ったソレ。朔夜さんが異端と、哀しい存在と言ったソレ。

 常軌を逸し、破綻となった――――遙瀬空と同じ存在定義を持つ、ソレは。

 あの時、あの瞬間からずっと、棺木鏡介には遙瀬空の全てが視えていた。

「そうですね……それでしたら明日、場所を改めましょう」

 言うが早いか、スーツの内ポケットからメモ帳を取り出しペンを走らせる。

 綴られたのは文字と地図。棺木さんはそのページを切り取って、

「ではまた。ああ、勿論ここは私がお支払いします」

 伝票を手に取り、引き換えにメモを置く。

 人畜無害な笑顔を最後に、後は振り返らずに出口へ向かっていく黒い背中を、わたしは晴れない心境で見送る。硝子の向こう側。見上げた空模様は朝と変わらぬ灰色。それが今は、何故か今朝に増して陰鬱に見えた。

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