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幼い頃。世界はずっとどこまでも続いていて、幸せな時間は永遠だと思っていた。
世界は綺麗で。果てしない。空は澄んでいて。その向こうには理想郷があると信じた。
御伽噺みたいな楽園がどこかにあって、神さまはみんなを平等に愛しているのだと。そう思っていた。純真な理。努力は報われるし、救われない者はいない。いつでも世界は協力的で、困ったときには正義の味方が助けに来てくれる。
そんなの、夢だって解ってた。誰もが思い浮かべて、そう在って欲しいと願う――けれどどこまでも現実と矛盾して、愚かな絶対に在り得ない酔狂。或いは理想。
どこにもないものを探し続けることが夢。在り得ないことを信じ続ける純真。
きっと子供の頃は唯一それが赦される時期。夢を見ることは罪ではないし、どんな理想を掲げたって断罪されない。でもそれは永遠じゃない。夢は須らく消えていって、いつか本当に手の届かない嘲笑の『幻想』に成り果てる。
大人になるということはそういうことで、綺麗な夢を汚い現実で汚していくということ。
だから、わたしに間違いが在ったとすれば幼少期。
まだずっと、大人になってしまうには早過ぎた。
でもどうすることも出来ない。知ってしまったら、気づいてしまったら。後戻りは出来ない。汚いモノを無抵抗に受け入れられるのは、それが汚いモノだと認識していないから。それを穢れと知ってしまったわたしには、手を伸ばすことが出来なかった。
遠くから見た借り物の知識。ずっと汚れることの無い、わたしの理想。
そうしてわたしは、少しずつ壊れていった。
時の流れで体は大きくなるのに、心はいつまでも子供のまま。
矛盾した在り方。憧憬も理想も空想も童心も。何もかもが穢れを知らぬまま、ただ知識だけが増えていった。
幼い頃に知ってしまったから。世界の全てを心に刻んでしまったから。
或いは、わたしは怖かっただけなのかもしれない。
全てを見透かすことが出来る故に――わたしは、何もかも跳ね除ける道しか選べなかった。
……
「どした、ぼーっとして」
「…………」
呼びかける声に意識が覚醒する。勿論、覚醒といっても今まで眠っていたわけではない。少しだけ考え事をしていたら、周りが見えなくなっていた。そういうのが正しいと思う。……まあ、考え事っていうのも違うんだけど。
「なんでもないですよ。昨日兄さんが作ってくれた夕飯が、あんまり美味しかったので。味を思い出していたんです」
「……そうかい。そいつは光栄だよ。誇っていいんだな?」
「ええ。ただしわたし意外に振舞っちゃいけませんよ。裁判になりかねません」
「…………」
沈黙する橙弥。さくっ、と話題を転回して終了させることに成功した。うん、これで解決。
からかうつもりで言ってみたけれど、兄は少なからず心に傷を負ってしまったらしく「味付けが不味かったかな……」なんて呟いている。今後の為に今更になって昨晩の反省をしているらしい。
昨日色々あって帰宅が遅れたわたしを待っていたのは、無秩序に配列された和洋中の混沌的食卓と自信満々な表情の橙弥だった。状況こそカオスではあったけれど、普段とは違う兄の粋な計らいに、わたしも少し目頭が熱くなったことは否定できない。
…………一口、それを食べてしまうまでは。
どうも兄、遙瀬橙弥には料理の才能が欠如しているらしかった。これはもう、平均とか関係ナシに欠点モノ。まさか本当に、この世に塩と砂糖を間違える人がいたなんて。わたしだって知らなかった新事実だった。
気持ちだけ受け取って、今度からはちゃんとわたしが炊事は担当することを誓ったわたしだったとさ。と、思考を切り上げる。
最近どうも放心していることが多い。それは周囲から見て取れるほどらしく、今だって橙弥に指摘されてしまったというわけだ。
あまり気を遣われるのもいい気がしないので、この度を以って少し意識してみることにしよう。そうしたところで意味が無いということは、解っているけれど。
「ところで兄さん、昨日はすぐ家に戻っていたんですか?」
何気なく尋ねてみる。
本当はそんなことどうでも良かったけど、何も考えないで歩いているとまた同じ轍を踏みかねない。こうして会話をしている分にはそちらに意識がいって、途方も無い無意識の旅行に旅立つことも無い。
「ん? いや、昨日は屋上に行ってたかな。まあ、寒かったし、行ってたとか言っても一時間くらいだったと思うけど」
「……屋上は立ち入り禁止区域だと、半年も前に言ったはずだと思うんですけけどね」
「そうだっけ?」
橙弥は悪びれる風も無く白い気を吐き出して、
「そういえばそんなことも言われたかな。気にすんなよ、お前に迷惑は掛けないし」
「気をつけてくださいよ。ただでさえ成績が芳しくないのですから、何か面倒事まで起こしてしまえば一巻の終わりです。……まあ、成績は少しずつ改善されてきていますけど」
今度はわたしが白い息を吐く。
「屋上なんかに行って、そもそも何をしているんですか?」
「別に何も。あるだろ、一人になりたいときって」
ダウト。あからさまに嘘を吐いていることがバレバレだ。とは看破していたけれど、口に出すことはしなかった。それを敢えてお咎め無しにしておくのは……なんていうか、橙弥にも言いたくないことがあるのだろうと思ったから。
人間誰しも言いたくないことはある。
例え血を分けた兄妹であっても。
血を分けた兄妹であるからこそ。
わたし自身が、そうであるように。
◇
短縮授業であることに加えて、さらに授業自体がすかすかになっているためか、遙瀬空的g午前における時間の経過は普段よりも三段階くらい早かった。四限目が終了して、既に形式だけみたいなショートホームルームも終了。
帰り支度――といっても帰宅するわけではないので、鞄に荷物を詰め込んでいるだけだ――をしていると、暦がぱたぱたやってきてはこんなことを言った。
「そ、空! さ……はっ!? あああ、えっと、空ひゃん、一緒に帰りませんか!?」
「暦、落ち着いて」
「ふぁい! です!」
「だから落ち着いて」
どうしてこの娘は、こう、同級生と会話するだけで神経をすり減らし続けるのだろう。
御巫暦。家は代々神社の神主をしているらしい。そんな彼女はわたしの友人の一人で、入学してから確実に一番会話の累計時間が長い人物である。だというのに、暦は未だにわたしのことを敬称付けで呼称してくるのだ。一時期矯正しようとしてみたけれど、結果がついさっきの言動なのだから元の木阿弥もいいところ。
「……それも違うかな」
状態は一時的にもプラス方向に傾斜していないし、その後はさらに酷くなっている。同級生なのに敬語を使われる、というのは本来気にしなくていいようなことなのに。結果として突付いた藪から蛇が出てきたわけだ。
たまに暴走なしで呼び捨ててくれるけど、その後の口調は改善(というべきかはイマイチ不明だけど)されていないものだから違和感がある。ちなみに今のは悪いときの症状だったりする。
ため息一つ。見ると、暦はまだばたばたしている。何がそんなに彼女を責め立てているのか、甚だ疑問だ。
「暦」
自分でも意図しない内に声が慈愛染みていた。改める気も無く、そのままの口調でわたしは、
「貴女は部活でしょ」
「はわわ!」
「それに、このやり取りは昨日もしたじゃない」
「はわ! はわわわわ、わわわ!!」
「…………」
「ごめんなさい、わたし、バカで、なんていうか、その、一回で覚えられない性格で……! ええと、えっと、だからその、ごめんなさいです! 本当に全知全能誠心誠意全身全霊のごめんなさい!」
「……もう、意味わからなくなってるし」
全知全能誠心誠意全身全霊のごめんなさい。ちなみにこの言葉、入学した四月以来どんどん進化を遂げていった言葉である。初めは『全身全霊のごめんなさい』だったけれど夏以降――あの事件が終わってから数週間後――に『誠心誠意』が加えられた。そして現在。暦的最上級の謝罪文句は『全知全能(以下略)』と落ち着いている。……まだ長くなるかもしれないけど。
暴走した、見方によっては発狂した暦を宥めて正常な会話が可能なレベルまで精神を安定させるのに数分。わたしも手馴れたものだ、と自分の順応能力に感心してみる。あるいは調教か。……それは、嫌だな。
「それじゃあ、空さんは弓道部に見学に来てくれるんですね」
「……わたし、そんなこと一言も言ってないけど」
こほん、と咳払いを一つ。御巫暦という少女はこれが地なんだ。彼女に悪気は皆無だし、わたしだって気を悪くしたりはしない。現代で類稀なる天然性――と過去に橙弥が称したことがあるけど、それが実に正しいことを日々わたしは実感している。
「まあ、わたしも直ぐには帰らないから、お昼はいっしょに食べられるわよ。って言ったつもりだったんだけどね」
「そうでしたね。はい」
暦は納得したように頷く。晴れやかで、理性的な目。こんな状態が長持ちすればいいのに。
一日一回程度の暴走なら、わたしも耐えられる。というより最近ではその一回の暴走で定期的に溜め込んでいるものを吐き出してもらわないと逆に不安になるくらいだった。御巫暦が本当の意味で発狂するとどうなるか、わたしは一度体験しているのだ。
昼食の場所はどちらが言い出すでもなく教室となった。
一つの机で食べる分には一向に構わないけれど、椅子は二つないと困る。なので暦には先に主が帰宅して空いていた後ろの席に座るよう促したんだけど、暦はそれを頑として否定した。曰く、
「人様の物を無断で使用するなんて、仏の道に反します」
だそうだ。
変なところで頑固なので、こうなってしまったら聞かない。立ち食いさせるわけにもいかないので、わたしが後ろの席に移動して椅子を明け渡した。そんなことから食事はわたしが後ろの空席、暦がわたしの席に座って食べるという奇妙な形になる。
扱いにくいといえば、扱いにくい。
何でもないことだけれど、暦のお弁当の中にはしっかりと肉料理が入っていた。
ぱくぱく。むしゃむしゃ。とかいう擬音が似合いそうな暦の食姿を何の気なしに見ながら、わたしは一人夏のことを回想していた。八月の暑い日。その日に橙弥と喧嘩になったとか、そんなことはすっぱり忘れたことにして。どうしても忘却しきれないある事件の記憶。
果たしてそれを事件などと称するのは間違っているのではないかと思うような、誰も知らないところで進み終わっていた――正しく夢のような話。その中心人物が御巫暦だった。詳細は再び一から吟味する必要がない。
わたしが現在思考の主題としているのはその後日談だ。といっても今こうしている事さえ理屈の上では後日談だけど。わたしが思い出すのはそんな屁理屈抜きの直後日談。
件の中心にいたのは暦で、その後遺症というかなんというか――つまり精神上に残るだろう異常の処理を、わたし達(わたしと橙弥)は朔夜さんに任せることにした。橙弥曰く、六月にも似たようなことを朔夜さんはしていたらしいので一応信用はしていたけれど、不安だって当然あった。
結果からいうと。
――わたしの不安は杞憂以外の何物でもなく、純度百パーセント間違うことなきそれだと思い知ることになる。
後遺症どころか、それ以後に初めて暦と顔を会わした時既に暦は今の調子だったのだ。わたしでさえ気負いしたというのに、あの暦が笑顔で『おはようございます、空さん!!』なんて場違いにも近しいテンションで時頃の挨拶をしてくるなんて……どう考えても不自然極まりない。
そう。まるで全部忘れているみたいに――。
事件の話は暦としていないし、これからするつもりもない。故に真相は永遠に闇の中だ。ヒントがあるとするなら昨夜さんに事後処理の方法を伺った際の会話で、
「事後処理? 知らないよそんなの。あのな、私は傍観専門なんだよ。異常を持て余すなんて出来やしないよ。精々傍観者を決め込んで遠すぎず近すぎない距離で笑ってるさ、私は」
「……酷い話ですね。だったら、暦はどうしたんですか? 確実になにかしたとしか思えないほど正常化してましたけど」
「お、巧いことを言うな」
「……はい?」
「正常と清浄だろ?」
「……知りませんよ、そんなこと。たまたま偶然です。それで、実際のところことの真相はどうなんですか。いい加減話してください」
「……なんだ随分狭量だな今日は。また遙瀬と喧嘩したのか? ……いや、すまん、冗談だよ」
悪びれる様子などなく、関心の色がまるで絶えた瞳を窓の外に向け、
「私は知らないよ。何度も言うけどね。事後処理は知り合いに任せたからな」
――というものがある。どんな風に暦の精神を洗浄し、朔夜さんじゃないけど、浄化したのか。それら一切の方法についてはまるで解らないけど、それを行った人物には想像がつく。
朔夜さんが言うところの『知り合い』。そして興味を亡くした遠い視線。異常の処理。異端。破綻。
脳裏を過る黒い立ち姿。
棺木境介の存在が、確かな結論としてそこに在る。
「実はですね、わたし、空さんと食事中の会話をしながら弓道部へお誘いを掛けようと思ってました」
思考返還。わたしは虚ろだった焦点を暦に定める。彼女は……鮭の切り身をばらすのに悪戦苦闘していた。
「で、どうですか空さん! 弓道部に来ませんか!?」
「……急よね。普通さ、もっとこう、それの面白さを具体的かつ魅力的に説明してから勧誘ってするもんじゃないのかな」
突然の告白に淡々と応える。ところで食事中の会話は仏の教えに背くことはないのだろうか。それも今更だけれど。
あくまで一般論を述べたわたしに、暦は鳩が豆鉄砲を喰らったみたいな顔をして、
「え? そうなんですか!?」
「うん、普通はさ」
ていうか基本でしょ。
暦はどうしてもわたしを弓道部に入れたいらしい。それが弓道部全体の意思であると以前橙弥に聞いたけれど、ちょっとしつこい。
まあ、わたしだってこんな時期は時間が余っているし、仲のいい友達がそこまで言うならと考えて行動するところだけど――という前置きをして、
「――でも今日はダメかな。ちょっと外せない用があってね。ごめんね、暦」
自分でも驚くことがあるとするならば、この時遙瀬空の口調は例えようもなく嬉々として弾んでいた。
◇
適当な会話を交えながらの昼食は時計を確認すると思いの外長い時間を経過させていた。もっとも、合計時間の内三分の一ほどは先に食べ終わったわたしが暦を待っていた時間になるけれど。妙に人に気を遣う性格をしている割には、暦は自分が待たせているわたしに対して箸よりも頻繁に口を動かしていた。その勢いはさながら積もる話も沢山な、十年来の友人――或いは夏休み明けに再会した中学生のようで……。無邪気といえば、聞こえはいいと思う。
そんなこんなをしてやっと暦のランチボックスが空になり、わたし達は各々の目指す場所へと足を向かわせたのだった。
暦は部活動の為に弓道場に。
わたしは朔夜さんの待つ準備室――ではなく、二棟の屋上へと向かい、無言のまま足を急がせていた。
自分でも何がしたいのかよく解らない。きっと朝の登校時、橙弥が言ったことが関係している気がするんだけど……それも違う。それだってやっぱり理由の一部なんだろうけど、決定打というには足りない気がしてなら無い。
衝動。或いは激情。
予感。或いは予知。
目的。或いは破綻。
希望。或いは絶望。
何かに背中を押されていると錯覚するほど無感動にして無感情のまま感情に流されていく。階段を一段ずつ昇っていく足に迷いは微塵もなく、その先に求めた答えがあると確信しているみたいに次の一歩を急ぐ。
答え。そんなもの、どこにもないというのに。
そんなもの、どこにでもあるというのに。
程なくして十二段の階段を昇りきる。数えてはなかったけど、増えたりはしてないだろうから恐らく十二段で間違いない。
踊り場で鉄扉の前に立ち、わたしは一度盛大にため息を吐いた。
この後の展開を予想する。
一、遙瀬橙弥に遭遇する。
二、そこには誰も居ない。
三――
「…………やっぱり、そうなる、か」
――他の第三者と遭遇する。
開かれた扉。穿たれた世界。
わたしの視界は先の答えが明確に三つ目であることを示していた。
「こんにちは、空ちゃん」
今日もまた不機嫌な空模様。
厚い雲が覆い隠す空の下。
蒼天穿たれることなき灰色の平面の下で。
御桜流深という先輩は、にっこりと無感動に無表情に――そして絶望的に微笑んだ。