第一章:日常旋律/1
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私生活がやけに忙しかった初春、新学期の幕開けは思い起こせば暦上の数字を一つ遡った過去のものとなっていた。というのも特にこれといった感慨も無く高校生活の星霜を一つ見送り、恐らくは今年も去年同様の平穏な日々が繰り返されるであろうと思っていた矢先のこと。そんな俺の予想を一瞬で机上の空論と足らしめる事が起きてしまった。
まあ言ってしまえばたいした事ではないのかもしれないが、四年ほど顔を合わせていなかった妹が突然実家に戻ってきたのだ。
妹といってもアレやコレやの事情で血が繋がっていない、俗に言う義妹という奴ではない。正真正銘同じ血を分けた二親等血族の妹だ。ではその妹と何故四年も会っていなかったのかと言うと、それは諸々の事情があり話せば長くなるので割愛する。
…………いや、考えてみればそれほど長くはならない。
諸事情を説明するに俺に用意できる言葉は只一つだけだ。
実のところ俺も詳しいことを知らない。
七文節から成る実に短い説明文章。
仮に我が兄妹関係に興味を示した人物が居たとして、その人物をを納得させるには如何せん言葉が足りなさ過ぎるという事は承知の上なのだが、事実に基づき率直に告白してしまえばつまりそういう事なのだ。
閑話休題。
話が深まりすぎて延々とそれを語ってしまうのは実に不毛であるので、この話題はこの辺りで終了しようと思う。
「――今朝もお勤めご苦労様、空」
頭に血が上る。
俺は逆転した視界をゆっくりと元に戻し、視線を床と並行の状態に移行した。
「まったくですね。兄さん、わたしがいない間毎日きちんと朝を迎えられていましたか?」
憎々しく言い放ちながら俺を睥睨しているのは、四年の月日がすっかりと纏う空気を変化させてしまった妹。
艶やかなストレートの黒髪を背中に流し、凛とした立ち姿と強い意志を宿した鋭い眼光。非の打ち所の無い整った容姿を持つ彼女――我が妹はその名を遙瀬空という。
空の長いストレート髪が僅かに揺れる。
「どういう意味だよ」
「起床時間が常日頃正午を回っていたのでは? ――という意味です」
……そりゃあ言い過ぎだ。
時というのは無情にも人を変えてしまうらしい。
俺の知っている妹はこんな毒舌ではない。
空が家を離れてまで通っていた学校は結構有名な私立校で、小中高等部の全てが一貫して全寮制であるらしい。という事はそれなりに金が掛かるのだがその点で問題が発生しなかった。
どうしても家を離れなければならない。そう言った彼女の意思に両親は遭えなく首を縦に振る事となった。おまけに自身も成績優秀と来ていたために、学費の殆どが公立校と変わらぬなどの優遇を受けられる、学園に一つだけ用意された特待生枠を我が物とする事で金銭的な問題を解決。
晴れて空は目的の学園へと編入する事が出来たのだった。
……というのが四年前の出来事である。
彼女が家を離れる前。最後に会話をしたのがまだ世の中の理を知らなさ過ぎる無垢な年頃であったから、この急変化にはなかなか慣れない。
学園は女子高だと聞いていたのだが……その為に男に対して厳しい性格になってしまったのだろうか。
「……いつも思うが、もう少しまともな起こし方は出来ないのか?」
痛む後頭部に手を置きながら苦情を投げ掛ける。
「部屋のドアをノックして、『兄さん、朝ですよ、起きてください』の三語を掛けても起きないのですから、この処置は妥当だと思うのですが?」
敬語。その中でも丁寧語と呼ばれる話し言葉を空は使う。
確かに丁寧ではあるが欠片も敬意を感じ取る事の出来ない空の言葉は、しかし邪気を感じないのだから不思議だ。
と、それとこれとでは無関係だ。
「あのな……今の時代、人を起こす為にベッドから叩き落すなんて方法は異常だと思わないか?」
そう。
今年の四月に実家へと帰ってきた空は遅刻時間をぎりぎりで回避出来る時間まで寝床を出ようとしない俺を起こすのが日課となっていた。
確かにその提案を飲んだのは俺である。誰かに朝起こしてもらえるのなら遅刻の可能性というのも格段に低下するだろうというのが肯定の理由だ。
だったのだが、まさか心地よく睡眠に堕ちている兄を頭から床に突き落とす。などと狂気的な起こし方をするとは、それこそ夢想だにしていなかった。
律儀なのかそうでないのか、空は俺諸共ベッドから引き摺り下ろした布団を整えていた。
優雅に右目に掛かる前髪を払って、空が対応する。
「異常でも何でも、結果として兄さんの遅刻はなくなりました。感謝されこそすれど、そのように苦情を投げられる筋合いは無いと思いますよ」
「……お前。もしも頭の打ち所が悪くて、俺がそのまま眼を覚まさなかったらどうするつもりだ?」
「その時はその時で、新しい強制覚醒の方法を考案しましょう」
死者を蘇生させる覚醒方法……というよりも、もはやそれは魔法の儀式だ。
少し沈黙が流れて空は大きな瞳を瞬かせると、どういう心境からか大きな溜息を落とす。
どうも、この妹は俺の前で溜息を吐く事が多い。その意味を俺は一度だって理解した事が無いわけだが。とりわけ気になるわけでもないので、深く追求しようとは思わない。
何かを非難するかのような瞳で空が呟くように言う。
「さあ兄さん、早く着替えてください。朝食は既に用意してあります」
そうして部屋を出て行く背中を俺は見送る。
さあ、今日もここから日常が始まる。
代わり映えしない時の流れはそれこそ悠久を感じさせて、それは日常の中に生きる俺たちに安心と確信を与えるのだ。これは変わることのない不動の世界なのだ、と。
悪意も善意もなく、ただ、世界と時間は誤認を刷り込んでしまうのだ。