第三章:Fate preface/1
――……最愛なる、わたしの絶望。
/Fate preface
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……
月明かりだけが明るい夜。
季節を象徴する、桃色の花弁を湛えた一本の桜。
短い命を儚く散らす姿をわたしは見上げていた。
この場所に縁の想い出があるわけでもなければ、こうしているのにたいした感慨も浮かばない。哀しいことが在ったからこうしてそれを紛らわせているわけでもないし、その逆でもない。
こんなことは昔から時々在った。
それがいつのことだったのか、その時のわたしが何を思ってそうしたのか。重要であるはずの情報は全て記憶の彼方へ忘却してしまっていて思い出せない。だっていうのにわたしは懲りずに昔の自分を、この意味の無い行為によって再生しているのだ。
目的は無い。発端も無い。
どこから始まってどこで終わるのか、それさえも解らない。……もしかすると邂逅も終焉も初めから用意されてなどいないのかもしれない。当事者であるわたし自身が解らないのだから、答えは結局全てが『かもしれない』という曖昧な結末に至ってしまう。
別に哀しくはなかった。だって、目的や発端がなくて今こうしているわたしは、確かにここにあるから。――それだけで、わたしはこの行為に目的を見出すことが出来た。
早足な風が花弁を散らす。
「こんばんは」
どういうことだか、わたしは知らずそう呟いていた。
風が止み、揺れる桃色が静寂を取り戻すとわたしは半身で振り返った。丁度自分が声を掛けた誰かと、桜の木が視界に納まるように。
そこに誰かがいることは解っていたから、わたしは時頃の挨拶として言葉を発していたのだろう。
直に、わたしが見ていた春の象徴は全ての花弁を散らしてしまう。そうなってしまえば、再開はまた来年――この木にとっては来世となってしまうのだ。
わたしには、何だかそれがとても哀しいことに思えて、それで突然の来訪者に声を掛けていた。
声を掛けた相手は同い年くらいの少年だった。見知った顔ではない。わたしに面識が無いということは当然相手もそうであるがために、少年もどう返答してよいのやら戸惑って狼狽している。
風は無い。それでも散っていく桃色の花弁。その一片をずっと見送る。
「あなたは、この木が好きですか?」
問いかけると少年は頷いた。
その動作が何だか可笑しくて、わたしは不意に微笑んでしまう。
桜。
短い間でしか自身を誇れない儚い、季節の象徴。
一心不乱に散り行き、やがてその命の灯火が消えてしまっても、また時季が来れば同じ場所で咲き誇る。まるで輪廻のように。廻る季節のように。同じ因果の螺旋を永遠に繰り返していく。――――その在り方に、わたしは憧れていた。
もしかするとそれがわたしがこうしている理由なのかもしれない。
或いは――
「え……?」
少年の言葉に、短く呟いたのはわたしだった。
――或いは。
わたしはただ待っていただけなのかもしれない。
ここで誰かに声を掛けてもらうのを。その誰かを、ずっと。
この御桜の下で。
……
/1
季節は冬。
空気は過ぎ去っていく冬の名残のように少しだけ冷たい、三月上旬のことだった。
来年のこの時期には高校受験でばたばたしているのだろうかと思いつつ、俺は残り少ない今の学年での生活をこれといって特別な思いも無く過ごしていた。
学年末テストも終わったこの時期のこと。教室の中はただカレンダーの日を捲って行くだけの倦怠ムードに包まれている。まあこの先に何があるというわけでもないので、誰かが喧騒を撒き散らしながら場を盛り上げるということが無いというのも、今の時期の特色なのだと俺は思う。三年になれば受験、卒業云々で慌しくもなるだろう。だから今はこの平穏で少し退屈過ぎる毎日も悪くは無い。それどころか、俺はむしろ好ましいとさえ思っていた。
だというのに。
平凡にして平穏なスローライフは唐突に終わりを告げてしまった。
というのも、今年度ももう一ヶ月を切ったこんな時期に転校生なんてものが我がクラスにやってきたことが原因だ。正直、意味が解らない。どうせならば進級してからにすればいいのに。何でわざわざこんな微妙な時期に転校してくるのか、その意図が俺には解らなかった。
……それはまあ、正直なところを言えば俺も少しは心情的に盛り上がりもした。
小学生の頃から俺のいたクラスには転校生なんてもんは一人もやってきた例がないし、その転校生が女子で、それもかなりの美少女だったりするのだから、俺のテンションゲージもワンランクからツーランクほど上昇したことは認めざるを得ない。
だからこそ、俺はその少女を何ら抵抗無く日常に受け入れることが出来たのだろう。
◇
ある日のこと。卒業式も済んで、いよいよ校内での自分が最上級生に昇格した三月の下旬。
始業の鐘が耳に入ると同時に教室に入ってきた転校生少女――御桜流深は学生鞄を机に引っ掛けて俺に言った。
「おはよう」
その何気ない挨拶に、俺も同様のセリフで応答する。
流深が転校してきた日に行われた席替えは、盛り上がりに欠ける教室を少しでも活気付けようとした担任による発案で、俺はその催しによって流深の隣の席に座ることとなった。
イカサマは一切無い。純粋なクジによる決定である。
隣の席というアドバンテージの所為か、俺は他の生徒よりも流深と話す機会が多い。転校後と転校前の違いを修正する質問に答えたりしている間に、気がつけばこんな風に挨拶を交わすことなどは日常的習慣として定着していた。
「今日も遅刻ぎりぎりか。なかなか慣れないもんだね」
「外国から転校してきたわけでも無いんだから、登校時間に慣れるも慣れないも無いだろ」
頭をかきながら流深はそんなことを呟いていて、俺はその可笑しな言葉に意見する。
最近ではそんなやり取りから一日の始まりを実感していたりするのは、どういうことだろうか。
「そうでもないよ」
黒板の前で担任が特に話題も無いのに無理やり捻り出したみたいな雑談を終了させて、冷ややかな視線と無関心の沈黙に見送られて退室していくのを意味無く待ってから、
「住んでる環境が変わると、人間のバイオリズムは結構変化するんだよ。生活習慣に少しくらい乱れが出てきても、それは特に不思議なことじゃないと思うな」
「バイオ…………悪い、何だそれ? テレビゲームか何かか」
と、こんな風な会話は三日に一回くらいのペースで展開される。
流深の話す事柄に俺がついていけないという、そんなパターン。
時々流深はこのように意味の解らないことを何気なく口にすることがあるが、それについて俺が問うと、
「ん? 別に気にしなくてもいいよ」
とか流されてしまうから始末が悪い。結局のところ俺は話の意図がつかめず、後になってそれはもっともな事を言った俺に対しての誤魔化しだったのではないかと疑ってしまったりもする。つまり流深の話に深い意味は無く、少し変わった形でお茶を濁しているだけなのだ。
そんな仮定を立てたのが最近のことで、今日までは深く取っ付く必要もないかと思っていたが、この機会に一度反撃してみるのも悪くない気がする。などと考えて俺はそれを口にした。
「それじゃあ、前の学校では今みたいに遅刻してなかったのか」
今日でこそ遅刻まではしていないものの、トータルで見てみればその実流深は遅刻の常習犯だったりする。俺自身朝は弱い方で比較的遅刻が多い方なのだが、彼女はその俺を凌駕する遅刻魔なのだ。
本人はその話題は既に終わったものだと思っていたらしく、予想外の俺の質問に僅かな間で思案顔を見せてから答えた。
「ううん。前の学校でも週四くらいのペースで遅刻はしてたかな」
「だったらバイオリズム関係ないじゃねえか……」
仮想はこの瞬間より現実となった。それにしても週四ペースって……。
転校以前の流深が公立の中学に通っていたのか、それとも私立の中学に通っていたのかは知らないが、それでも週四回は多すぎる。
よもやその汚点が内申に影響するから、とかいう理由で転校したのではないだろうか。
俺は色々な意味で流深の天然発言に呆れかえっていた。
「お前さ、そんなで大丈夫なのか……?」
「え、なんのこと?」
「……いや、もういい」
どうも流深にとって俺の心配は必要の無いものらしい。当の本人がそれを気にしていないというのに、他人の俺が気にすることではないだろう。このことにはこれ以上触れないことにしておく。
そもそも隣の席というだけで、俺が流深の将来を面倒見てやる義理は無い。そうでなくても自分のことだけで手一杯なのだ。
それに隣の席、という関係もこの先そう長くは続かない。
こうして今日も他愛も無い会話が終わる。
ホームルームから一限目の開始までにある時間に組み込まれたこの日常も、後少しすれば変わってしまうことだろう。俺の学年は一組から五組まである。直に進級と共にやってくるクラス替えのシャッフルイベントの結果次第では、それもありえることなのだ。確立にしてみればそう低くない。
三月の終わり。
旧暦では春とされているが、現代ではまだ冬に分類される今の時季。
風は少し肌寒いものの、気温は緩やかに上昇している。
廻っていく季節の中。
もうじき消えてしまうこの日常を俺は無感動なまま過ごして行く。
この先に在る――――日常とは歪んだ日々の螺旋を予期せぬままに。
長らくお待たせしました。第三章開始です!