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青い空は天気予報通りの快晴。五月下旬の朝。季節はじきに夏へと移り変わり、カレンダーの数字は五から六へと変化する。梅雨前線の到来を間近に控えた今日、雲一つ無い青空はまるで陰鬱な雨日を前に最後の悪足掻きをしているかのようだった。
順調に上昇していく気温もさる事ながら、俺はそろそろ訪れる期末テストの心配をしながら、内心とは裏腹に欠伸をしていた。
「ぎりぎりまで眠っておいて、よくわたしの隣でそんな行動を取れますね」
空の隣で。
「はあ……。いつも言っていますが、起床と就寝の悪循環は生活に悪影響を及ぼします。最近は特に風邪が流行っているようですから、兄さんもこれを期に生活を改めてみる期はありませんか?」
つーん、と斜め上を向いて、同じ制服を着ているというのに他の女子とは違ったお嬢様然とした雰囲気を遠慮なく振りまき、本心からかそうでないのか、空は一見兄を心配するような事を口にする。
それが毎朝目覚ましで覚醒する事の出来ない兄への遠回しな苦情なのかどうかは不明だが。
そんな事なんかよりも気になる言葉があったという事もあり、深く追求するのはむしろそっちにしておくことにした。
「風邪? 流行ってんのか、最近?」
「ええ。わたしのクラスの欠席者は二人だけですが、学園全体では結構な数の欠席者がいるようです。全員が全員、同じ症状なのかどうかは解らないけど」
つい昨日の教室を思い出す。どの角度から見ても教室内に空席は無い。他のクラスの事情は知らないが、どうやら今学園内で流行している風邪ウイルスは二年B組にはまだ侵食していないらしい。
「兄さんも気をつけてくださいね。兄さんが感染してしまえば、同じ家にいるわたしまで風邪に犯されてしまいます」
「まあ、大丈夫だろうよ。俺のクラスではまだ誰も休んでないからさ」
「そうですか、それは何よりです。もっとも兄さんに風邪の心配をする事自体がお門違いなんですけど。よく言いますから、バカは風邪引かないって」
悪戯な笑みが憎らしい。
「…………」
反論出来ない自分はもっと憎らしい。どうしたもんだろうね。
「お前さ、俺にも人並みの感情はあるんだよ」
「それで?」
「そういう事は出来るだけ控えてくれたら嬉しいな、と」
「だったらそれなりの努力をする事ですね」
……世の中の兄貴とはみんなこのような兄妹環境にあるのだろうか。
晴天の下。
まだ梅雨は始まっていないというのに、天が恵んでくれたこの快晴の日を俺は朝から沈鬱とした面持ちで歩く事となった。
◇
校門で空と別れ、その後登校してきた生徒達が作り出す流れに乗って教室に到達する頃には、成績云々から訪れる陰鬱な気分は霧散していた。深く考えすぎないのがポイントだ。一日を楽しく過ごす為には。
教室はやはり普段通り平穏を保っていた。
談笑に花を咲かせる彼ら彼女らを横目に見て、話題を探ろうかと考えるがその行動の無意味さに気付いて、大人しく窓際の席へと歩みを再開。
「おっはよー。今日はあたしの方が先だね」
先に席に着いていた流深が、空に輝く太陽に対抗するような笑顔を向けてくる。
「おはよ。まあ、珍しい事もあるんだな」
冗談を言いながら腰を下ろして、ちらりと視界に入れたのは流深の表情。その表情に何故かあの日の事を思い出してしまい、夕日の色に染まった教室の中で、終始それとは照的過ぎる哀しい表情を湛えた少女を思い出していた。
「どうかした?」
「いいや何でも。お前はいっつも笑ってるな、と思ってただけだよ」
或いは。
その笑顔もまた偽りなのではないか、と。考えすぎが。
「あったりまえだよ。暗い顔しててもしょうがないでしょ」
さも当然のように、流深は答えた。
喜怒哀楽。人間の感情はそれら四つのどれかに割り当てられる。ならば心境を無意識かで相手に代弁してしまう表情もまた、それらが司っているのだろうか。
だとするのなら。
俺は、あの日以来流深の怒りと哀しみを見たことが無い事になる。
恐らくは、流深にある感情は喜びと楽しみの二つのみ。残りの二つは――
「どうしたの? さっきからぼーっとして」
独白モードに入ってしまった俺の意識を、流深の言葉は強制的に引き戻した。
きょとんとした表情。大きな瞳が俺の顔を覗き込んでいた。
「あっ、そうだ。アレ知ってる? 最近流行の噂」
埃を被る前のまだ新鮮な記憶が引き出される。思い出したのはついさっき。登校中の空の言葉。
「風邪が流行ってるとかいうやつか? なんでも結構な数の生徒が休んでるそうだな」
「え、なにそれ、なんのこと?」
自信を持って書いた解答がテスト返却後に赤ペンで撥ねられていた時の気分を味わう。的外れだったらしい俺の返答に、流深は何それ美味しいの? という感じの顔をしていた。
「風邪、流行ってるの? このクラスではまだ誰も休んでないみたいだけど」
話の喰い違いで生じた沈黙を、流深は自分が一歩引くことによって消滅させた。どうやら気遣いというものを知っているらしい。これは新事実発覚だ。
「そうらしい、空が言うにはな」
「へえ、お兄さんのことを心配して忠告してくれたんだ、きっと。だから風邪に気をつけてくださいね、
って意味なんだよ」
「……だったらいいな」
喜色満面として言う流深はそうだと信じて疑わぬらしい。まるで他人を疑う事を知らない子供のような、とても純粋で無垢な笑顔。いつか世界中の全てが自分を愛しているのだと思っていた、誰もが失ってしまうあの頃の心を、流深は無くさずにいる。
残念ながらそんな綺麗な物など既に俺の中には無く、あったとしても「バカは風邪を引きませんからね」とか言われた矢先では、そんな考えなど浮かんでこないだろうが。子供は変な所で幻想的で、その一方他人の言葉に強く影響されてしまうのだ。
閑話休題。
風邪の話題はすっぱりと忘れる事にして、続いて流深の話を聞く事にしよう。
「ところでお前の話は何なんだ。噂って?」
「通り魔の話」
いささか物騒な単語に、俺は不意にリピートを要求していた。
「だからさ、連続通り魔の話だよ」
聞き返して後悔した。余計に悪化してやがる。なによりも、微笑み混じりの明るい表情でそんな事を言いやがる流深の神経はどうなっているのだろうか。連続、通り魔。
怖気がした。
「そんな噂があったのか、この平和な学園には」
「そんな噂があったんだよ。本当に知らなかったの?」
まったく知らなかった。日々平穏を保っていたこの学園の空気は、いつからそんな生暖かくどろどろとした噂に汚されていたのか……。
「ふうん。意外だな、この噂を知らない人がいるなんて」
知らないも何も、通り魔なんてのは十九世紀末のイギリスか、ミステリ小説の中にしか存在しない空想の産物でしかないと思っていた。この平穏な街はいつから殺人鬼に怯えて暮らさなければならない、危険な街に成り代わってしまったのか。
「何人殺されたんだ……?」
一応。話の流れ上恐る恐る訊いてみると、
「誰も」
流深の返事はあっさりと、予想をさらっと裏切る言葉だった。
「誰も殺されてないよ。だからニュースにもなってない。この辺の高校生とか中学生の間でだけ流行ってる噂なんだ」
情報の整理が付かない内に、流深は矢継ぎ早に言葉を繋げる。
「ちょっと待った。何で誰も殺されてないのに、通り魔なんて騒がれるんだ?」
当たり前の矛盾点に疑問を持ち、尋ねる。被害者がいない通り魔事件。そんなものは絶対にありえない。被害者がいないということは、犯人もいないということで、けれど通り魔事件というからにはそれには『通り魔』という『犯人』がいるわけだ。加えて。通り魔事件なんて銘打たれるほどに物騒な事件には、望まなくとも死を与えられた『被害者』が存在する。両者は光と影のようなもの。どちらが存在する限り、必ずどちらかが存在する――
「……あたしもよくは知らないけど、その事件の被害者の人は殺されて無いけど、死んでるんだって」
混乱する思考に介入してきた新事実。果たしてそれは事の矛盾点を増やすだけだった。
「いや、訳解らん……」
というしかない。殺されていないのに、死んでいる。それは即ち、被害者がいるということになる――
「――あ、そうか」
急激に纏まった思考。安堵なのか俺は短く呟いていた。
被害者はいない。それは誰も死んでいないという事柄から俺が付け加えた、確証の無い推測。それを無意識かで過程として肯定していたから、次の一言に矛盾を感じてしまったのだ。今この場に置いて絶対的な真実は流深の言葉の中にのみある。そして流深は一言も被害者の存在には触れていなかった。つまり――被害者はいる。……それでも残される矛盾は、その被害者は殺されていない、けれど死んでいるという点。疑問として残るのは、はたして被害者は犯人にどんな被害を受けたのかという点だった。
少しの間。
俺は考える事を放棄した。
「……降参。どういう意味か教えてくれ」
「知らないよ。噂だもん」
誰にか白旗を上げて解答を求めると流深はそれを一蹴した。
「あたしは聞いた事をそのまま言っただけ。だからあたしもこれ以上の事は知らない。ごめんね」
苦笑の前で合掌されては、罪の無い相手を恨む気にはなれない。
これ以上の情報はいくら流深に訊いても得られる事は無いだろう。結果として、俺は頭のモヤモヤを消し去る事が出来ないまま、この噂を記憶の片隅にしまいこむ事を決意した。放課後に空にでも訊いてみればすっきりするかもしれん。余計に矛盾した話を持ち込まれて、夜も眠れなくなる危険性を孕んだ、一種の賭けにもなるが。
まったく。折角の快晴も朝からアレよコレよで台無しだ。それとも空が晴れている分、反比例して俺の気分は晴れてくれないのだろうか。
一足早い梅雨の訪れを心から憎らしく思う。
「まあ、薄暗い通り魔の話なんて朝から話題にする事じゃないな」
「うん。そうだよねっ」
俺の言葉に流深は澱み無い笑顔で賛同した。それと同時に始業の鐘が鳴り、椅子を引く音がそこかしこから聞こえてくる。俺は一瞬光度を上げて自分から背けられた流深の笑顔を合図に、教室に入ってきた教師を振り向き、そして思った。
はて、この話題を振ってきたのは一体誰だっただろう? と。