Ⅸ
時計職人である老人の周囲を、あらゆる時計が囲んでいる。
彼は今、依頼された壁掛け時計の修理の最中だった。
彼を囲む時計は、ある物は素朴で、またある物は華麗な装飾に富み、千差万別だ。
コチ、コチ、コチ、と多くの時計が歌っている。
その音に囲まれ、休息時にはコーヒーを飲み、作業をするのが老人の日課だった。
ようやく修理が一段落して、彼はコーヒーを淹れた。
「君も飲むかい?」
老人は背後に立つセロファン師に言った。
セロファン師が木靴の音を潜めて訪れたのは、老人を囲む時計の音に遠慮したからだった。
「ううん。僕は何も飲まない」
「そうだろうな。大切な者を喪った者の涙も」
「しょっぱい味がするんだろうね。さながら海のような」
「そうだろう。しかし、今日か…。今日、君が来るというのも何かの因縁なんだろうな」
「貴方の寿命が今日、たまたま尽きるだけの話だよ」
「時計は死を司ると言うが…君。君は憶えているかい、二十年前の今日、君が交通事故に遭って逝った妻と娘に見せた色を」
「さあ…。ああ、思い出した」
「良かった。思い出さないと言うなら、私は君を刺すところだ」
「あの時、貴方だけが助かったんだったね」
「そう。私も連れて行けと言う言葉を、君は聴いてはくれなかった」
「僕はセロファンを最期に見せるに過ぎない存在だし、貴方の最期はあの時ではなかった。――――――僕を恨んでるの?」
「…コーヒーを淹れたよ」
「だから僕は何も飲まない」
「コーヒーを」
「ましてや毒入りのコーヒーなんて」
「………」
セロファン師はにこりと笑った。
「そんなことはどうでも良いんだ。もうすぐ貴方は病で命尽きる。さあ、人生の終幕に、どんな色を見たいか言ってくれ」
「妻と娘は何色を望んだんだ?」
セロファン師は微かに眉をひそめた。
彼にとってそれは過ぎた些末事であり、今は無関係と思えたからだ。
「…奥さんは貴方が手作りした木彫り時計の、木の色を。娘さんは婚約者から貰ったブレスレットのピンクゴールドを」
「―――――そうか。私はあの時、意識が朦朧としていて、君の声と姿を朧にしか把握出来なかったから」
「僕を殺したい?その、手に持ったナイフで」
「ああ。―――――ああ!けれどそれは無理なんだろう?」
老人の昂ぶりとは裏腹に、いともあっさりセロファン師は頷く。
「貴方に、いや、貴方に限らず、僕を殺すことは出来ないよ。正確に言うなら僕は生きていないからね。そう言えば」
セロファン師にはふと思い出したことがあった。
「是非にと頼まれていたんだった。奥さんから貴方への遺言。今の今まで忘れていたよ」
「何?」
「『独りで遺してごめんなさい。どうか貴方はゆっくりいらしてね』」
「………」
カラン、と机上に老人はナイフを置いた。
もうすぐその妻にも逢える。
憎くて堪らなかったセロファン師だが、今やその恨みも虚しく思える。
「妻の好きだった菫の色を見せてくれ」
「ようやく言ってくれたね。ありがとう」
セロファン師は上着から菫色のセロファンを取り出した。
びかびか光るセロファンだが、不思議とその菫色は優しかった。
そっと人の心に添うような色合いだった。
老人の目から一筋、涙が流れた。
コチ、コチ、コチ、と鳴る部屋から、セロファン師は外に出た。
たとぅ、たとぅ、たとぅ。
コチ、コチ、コチ。
たとぅ、たとぅ、たとぅ。
コチ、コチ、コチ。
どこまでも時計の音がついてくるようで、セロファン師は不思議に思った。
猫が陽だまりで昼寝するような、そんな穏やかな午後だった。