Ⅷ
アトリエで女は一心不乱にテンペラ画の制作に打ち込んでいた。
アトリエには様々な紺碧の、青の絵が散乱している。
絵具のチューブも。
深夜のアトリエで、女は寝食も忘れて、ただ絵を描くことに没頭していた。
アトリエはコテージ風の一軒家で、ベランダのガラス窓からは青白い月光が見える。
だが、女には見えない。
彼女は自分の見た光景を再現しようと必死だからだ。
その為になら全てを投げ打った。
絵の大家と呼ばれる男に弟子入りし、求められれば身体をも与え、恋人は紙切れのように捨てた。
それでもまだ、望む絵を描くことは出来ない。
青白い月光の残滓が、女の痩せて窪んだ頬を微かに浮き上がらせている。
女は余りに一心不乱であるゆえ、その音が最初は聴こえなかった。
たとぅ、たとぅ、たとぅ、と。
アトリエ近くの海が騒いでいたせいもあるのかもしれない。
気付けば彼はそこにいた。
妖し呪術師のセロファン師。
女は久し振りに絵画以外のものに目を向けた。
けれど業の深さか、このセロファン師なら描くに値する、そんな風にしか思えない。
哀れな性だった。
「貴方の最期の色を見せに来たよ」
「最期の…色?私、死ぬの?」
「うん」
呆気なく、彼は頷く。
女は顔を覆い、くつくつくつと笑い出した。
「そう、そうなの。貴方が、セロファン師で、私は、死ぬ…」
セロファン師はそんな女を平生の面で眺める。
「それならアドリア海の色を、あの嘗て見た紺碧を、私に見せて。それが見られたら私は、死んでも構わない」
「行ったことがあるの?その、海に」
「ええ、まだ家族が離散してなかった頃にね。私にとってあの色は、生涯かけてももう一度見たい、憧れの、至高の色なの。幸福の象徴」
セロファン師は上着から、アドリアの海の色を取り出した。
その少し後、アトリエに押し入った元・恋人に、女は刺殺された。
けれど彼女の死に顔は、不思議と幸福そうだった。
「あんたも惨いことするよね」
崖に腰掛けて波の音を聴いていたセロファン師は、高く澄んだ声に振り返る。
そこには肩口で金髪を切り揃えた少女が立っていた。木靴を履いて。
身に纏うのは純白のパンツスーツ。
「死ぬ前だけに情けをかけて、それが生業だなんてね」
「………」
「ねえ?あんた自身はそれで満足な訳?」
「満足だよ。でもそれは、君には関わりのないことだ」
セロファン師は素っ気なく言った。
少女はくすくす笑うと、セロファン師の髪飾りの鈴に弄ぶように触れ、離れた。
たとぅ、たとぅ、たとぅ、と、木靴の音を響かせながら。
それは潮騒の音に紛れ、やがて消えた。