LI
「狭霧ー。起きなさい。遅刻するわよ」
階下から響く母の声に、狭霧はうっすら目を開けた。目覚ましが鳴り続けているのにも気づかなかった。ボタンを押してがなり立てる目覚ましを止め、のろのろと着替える。味噌汁の匂い。平和な日常。
だが、狭霧はセロファン師に関わり出してから、それらに懐疑的になった。
自ら進んで関わったものの、セロファン師の生業は、見ている人間に余りに過酷だ。これまで自分が検分したセロファン師の行動の、逐一はパソコンに入力し記録してあるが、果たしてそれに何の意味があるのだろうと、狭霧は思うようになっていた。
自分の無力の裏打ちをするデータを取っている気がする。
焼いたししゃもを食べながら、立ち働く母親の後ろ姿をちらりと見る。
母は、六条家に嫁いだ平凡な主婦だ。だから、狭霧がセロファン師を追う行為を快くは思っていない。セロファン師の存在も理解出来ないようだ。
食事を食べ終えて、南の八畳間に行く。
そこには長いこと寝たきりになった祖母がいた。
毎朝、学校に行く前に、祖母に声をかけるのが狭霧の日課だ。祖母は六条家の人間で、勘が鋭かった。
「ばあちゃん、行ってくるね」
「来る……」
「え?」
はっ、とする。狭霧の感覚もそれを捉えた。
たとぅ、たとぅ、たとぅ、という木靴の音と共に。
嘘だろうと思う。
こんな晴れた日に。
青い空はいつものように広がり、日が射している。そんな日に。
けれどセロファン師という存在はそんなものに頓着しないということを、狭霧はとうに承知していた。
やがて現れる射干玉の色。
「やあ、こんにちは。貴方の望みの色を言ってくれ」
「セロファン師……」
セロファン師は狭霧を無味乾燥な目で一瞥しただけで、祖母にのみ顔を向けた。
「そろそろ来ると思っていたわ……。長かったこと」
祖母のその台詞に、狭霧は祖母もまたセロファン師の存在を知覚していたのだと気づく。
「霜降りのグレーが良いわ」
「霜降りのグレー」
「そう。おじいさんが、よく好んで着けていたネクタイの色」
「待って、待ってばあちゃん」
「狭霧。これは運命だから」
祖母は静かな微笑を湛えた表情で孫を見ると、愛おしそうにその顔を一撫でした。
狭霧は茫然とする。
自分の身内が連れて行かれる。そんなことは想定外だ。いや、正確にはセロファン師は連れて行くのではない。ただ、寿命が尽きた人間に望む色のセロファンを見せるだけだ。
狭霧の拳が震えた。
「霜降りのグレー。承った」
セロファン師は静かにそう告げた。
狭霧は事切れた祖母の横にくずおれるように座っていた。
「狭霧? いつまでぐずぐずしてるの? ……あら、お義母さん? 眠ってらっしゃるんですか?」
それから続いた母の悲鳴も泣き声も、狭霧には遠い世界の出来事のようだった。これまで自分は何も解っていなかったのだと思った。
何も解っていなかった。
愛する人を喪う悲嘆も、不条理だと傾きそうになる価値観も。
そしてセロファン師という存在の真の恐ろしさも。




