XLVII
ぜひゅーぜひゅーと荒い呼吸が漏れる。
厳寒期、風邪から肺炎に罹った男は、高齢でもある為、己の死期を悟っていた。
だから、その音が聴こえても不審に思いはしなかった。
たとぅ、たとぅ、たとぅ、と。
響く木靴の音。子守唄のようにさえ感じる。
「こんばんは。良い月夜ですね」
ふわりと、病室にセロファン師が降り立つ。
儚げな微笑。目に宿る感情は無色透明。ただ小首を傾げると鈴の髪飾りが涼しい音を奏でる。どこまでも黒く清らかな死神。
「セロファン師、か」
「うん。最期に、貴方の望む色を言ってくれ」
ぶわ、と男の双眸から涙が溢れるが、それは己を哀れんでのものではなかった。
「あの子の。波多江の吐血の色を……!」
男は合気道の道場主であり、その長男である波多江も幼い頃から稽古に励んでいた。才気を息子に見出した男は、喜び勇み、ますます熱意をもって息子を鍛えた。
ある日、己の心が折れるまでは。
相手は行きずりの、今時珍しい道場破りだった。
男は弟子たちの前で完敗を喫した。
自暴自棄になった。妻にも先立たれ、酒浸りの毎日。
波多江がどれだけの大会で手柄を上げて、またそれを報告しても、賞賛の言葉一つ、かけてはやらなかった。
やがて波多江が取り返しのつかないところまで、肺を病んでいると知ってからも。
「息子さんは最期に何て言ったの?」
「……不肖の、息子で済まないと。期待に応えられなくて申し訳ない、くれぐれも、……」
男は涙声を詰まらせて続ける。
「くれぐれも、身体に気をつけろと」
「そう」
「莫迦めっ。不肖の息子だと? 期待に応えられなかっただと? そんなもの、とうに、成し遂げていたっ! あれの仕出かした最大の親不孝は、親に先んじて逝ったことだ!!」
ぼろぼろと、大粒の涙がこぼれる。末期の肺炎で、絶叫した男は、しばらく悶絶するような苦痛を味わった。
セロファン師の表情は、それでも凪いだ湖面のように静かだ。
「息子さんの吐血の色、承った」
黒い上着から深紅のセロファンを取り出す。
波多江の生きていた痕跡。命の緋色。
「波多江。波多江」
廊下で待機していた狭霧の耳にも、悲痛な声は届いていた。
狭霧も泣いていた。
ただ一人、セロファン師だけが、静かに、男を看取った。
最期に、一人の父親として死んだ男を。




