XLIII
たとぅ、たとぅ、たとぅ。
冗談だろう、と男は思った。
そしてその思いは、目の前にセロファン師が立っても変わらなかった。
――――都市伝説のセロファン師。
喪服のような黒い服。
水色の鈴の髪飾り。黒いネクタイには真珠のネクタイピン。
死神とさして変わらない少年の容貌は、想像していたよりずっと清涼だった。
セロファン師が微笑む。
「こんばんは。貴方の望む色を言ってくれ」
「……セロファン師」
「如何にも、僕はセロファン師だ。煙草の服用による自殺は苦しいと思うけど」
男の手にはカッターナイフで刻まれた煙草があった。今まさに、彼はそれを飲もうとしていたのだ。平屋建ての一軒家。深夜、そこだけ電気の点る台所で。虫がリー、リー、と鳴いている。男が広い一軒家に一人、住まうには理由があった。ついひと月程前、交通事故で妻と子供ら二人をいっぺんに亡くしたのだ。それ以来、絶望が男の胸に巣食った。家族の死後、男は生きる屍だった。何をしても虚しく、遣る瀬無い。特に夜になると押し寄せる、途方もない絶望。もう無理だ、限界だと思った。力なく首を振る。
「見たい色はない。一人にしてくれ、セロファン師」
「色を言ってくれないと、僕は困るんだけどな」
「そんなこと――――」
知ったことではないと言いそうになった男の脳裡に、ある花が浮かんだ。
「……竜胆」
「竜胆?」
「ああ、そうだ。竜胆の花の色を見せてくれ」
濃くて深い、青紫。
セロファン師が薄く微笑む。
「竜胆の色、承った」
やがてその上着から、びかびかしたセロファンが取り出される。
男の頬は濡れていた。竜胆は、男の妻が好きな花だった。
眼前に広がる、青紫。
妻は言っていた。
竜胆の花は滅多に開かないのよ。だから一度、開花した竜胆を見てみたいの。
男は、刻んだ煙草を呷った。
セロファン師は苦悶に歪む男の死に顔を静かに見ていた。
家を出ると狭霧がいた。訊かれるまま、一部始終を語る。狭霧は複雑そうな表情で口を開く。
「竜胆の花言葉、知ってる?」
「いいや」
「悲しんでいる貴方が好き」
「……そう」
今頃、男は別れた家族たちと再会しているのだろうか。
残酷にも思える花言葉は、セロファン師の胸に一抹の余韻を残した。




