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セロファン師は気が進まない  作者: 九藤 朋
42/58

XLII

 彼女は始終、怯えていた。人が怖い、車が怖い、外界のあらゆる刺激が怖い。

 それは人を照らす太陽さえ例外ではなく。

 けれど勤めには出なければならない。

 精神科に通い、鬱、不安神経症と診断され、薬を処方されながら、懸命に生活していた。

 しかし彼女の精神は確実に擦り減っていた。

 世界はモノクロに見え、社会という荒波に揉まれることに疲れ切っていた。

 楽になりたい。

 そう願ったからだろうか。


 目の前には射干玉色の服を纏った涼やかな少年が立っている。

 無色透明の微笑を浮かべ、彼女を見ている。


「こんにちは。逝く前に、見たい色を言ってくれ」


 せめてもとパステルカラーで彩られた部屋の中、喪服のような少年は浮いていた。平穏に紛れ込んだ異物。

 いや、平穏だろうか?


「私、死ぬの?」

「うん。間もなく。貴方の精神は限界を迎え、薬を多量に服用して亡くなる」


 彼女は夢現にその言葉を聴き、妙に冷静な心地であり得るかもしれないと考えた。室内に置かれた観葉植物のベンジャミンを見る。自分がいなくなれば処分されるのだろうか。


「……助けては、くれないの」

「それは僕の生業じゃないんだ。残念ながら」


 セロファン師はほんの少し困ったように小首を傾けた。

 そう、そうよね、と彼女は頷く。人には定められた仕事がある。セロファン師であっても、きっとそれは同じ。


 たとぅ、たとぅ、たとぅ。


 セロファン師以外の木靴の音が聴こえたかと思うと、彼女とセロファン師の間に、金髪を肩のあたりで切り揃えた白いパンツスーツの少女が降り立った。

 そして決意の色を滲ませた碧眼でセロファン師を見る。


「それならあたしが彼女を助ける」

「――――彼女の死は定められたことだ」

「誰に? 社会に? あんたに?」

「僕の邪魔をしないでくれないか」


 ごく薄く、不快の色がセロファン師の面を彩る。


「そういう訳には行かないわ。ねえ、貴方。貴方が落ち着くまで、あたしが傍にいてあげる。怖い世間から、貴方を守ってあげるわ」

「……一緒にいてくれるの」

「ええ。まずは再就職先を探すところからね。でもそれも、もう少しあと。今は、眠ったほうが良いわ」

「手を、握っていてくれる?」

「良いわよ」


 ナナは慈愛に満ちた微笑を浮かべて頷く。セロファン師が天を仰ぐ。

 最期の色を見せる機会が遠ざかる。


 彼女はベッドに横たわり、ナナの手を握ったまま、眠りに就いた。子供のような寝顔を、ナナは見守る。


「一時の同情で、彼女がセロファンを見る機会を潰すのか」

「彼女はセロファンを見ないわ。この先何十年経つまでは」


 やがてセロファン師は嘆息すると、部屋を出て行った。

 部屋の外で待っていた狭霧に肩を竦め、どうやら今日は僕の出番なしだ、と告げた。狭霧が事の詳細を知りたがったので、語り聞かせながら、セロファン師はその場をあとにした。乾いた社会に圧し潰されそうだった女性が、今から数十年を経て、何色を望むような人生を送るだろうと思いながら。


 


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