XLII
彼女は始終、怯えていた。人が怖い、車が怖い、外界のあらゆる刺激が怖い。
それは人を照らす太陽さえ例外ではなく。
けれど勤めには出なければならない。
精神科に通い、鬱、不安神経症と診断され、薬を処方されながら、懸命に生活していた。
しかし彼女の精神は確実に擦り減っていた。
世界はモノクロに見え、社会という荒波に揉まれることに疲れ切っていた。
楽になりたい。
そう願ったからだろうか。
目の前には射干玉色の服を纏った涼やかな少年が立っている。
無色透明の微笑を浮かべ、彼女を見ている。
「こんにちは。逝く前に、見たい色を言ってくれ」
せめてもとパステルカラーで彩られた部屋の中、喪服のような少年は浮いていた。平穏に紛れ込んだ異物。
いや、平穏だろうか?
「私、死ぬの?」
「うん。間もなく。貴方の精神は限界を迎え、薬を多量に服用して亡くなる」
彼女は夢現にその言葉を聴き、妙に冷静な心地であり得るかもしれないと考えた。室内に置かれた観葉植物のベンジャミンを見る。自分がいなくなれば処分されるのだろうか。
「……助けては、くれないの」
「それは僕の生業じゃないんだ。残念ながら」
セロファン師はほんの少し困ったように小首を傾けた。
そう、そうよね、と彼女は頷く。人には定められた仕事がある。セロファン師であっても、きっとそれは同じ。
たとぅ、たとぅ、たとぅ。
セロファン師以外の木靴の音が聴こえたかと思うと、彼女とセロファン師の間に、金髪を肩のあたりで切り揃えた白いパンツスーツの少女が降り立った。
そして決意の色を滲ませた碧眼でセロファン師を見る。
「それならあたしが彼女を助ける」
「――――彼女の死は定められたことだ」
「誰に? 社会に? あんたに?」
「僕の邪魔をしないでくれないか」
ごく薄く、不快の色がセロファン師の面を彩る。
「そういう訳には行かないわ。ねえ、貴方。貴方が落ち着くまで、あたしが傍にいてあげる。怖い世間から、貴方を守ってあげるわ」
「……一緒にいてくれるの」
「ええ。まずは再就職先を探すところからね。でもそれも、もう少しあと。今は、眠ったほうが良いわ」
「手を、握っていてくれる?」
「良いわよ」
ナナは慈愛に満ちた微笑を浮かべて頷く。セロファン師が天を仰ぐ。
最期の色を見せる機会が遠ざかる。
彼女はベッドに横たわり、ナナの手を握ったまま、眠りに就いた。子供のような寝顔を、ナナは見守る。
「一時の同情で、彼女がセロファンを見る機会を潰すのか」
「彼女はセロファンを見ないわ。この先何十年経つまでは」
やがてセロファン師は嘆息すると、部屋を出て行った。
部屋の外で待っていた狭霧に肩を竦め、どうやら今日は僕の出番なしだ、と告げた。狭霧が事の詳細を知りたがったので、語り聞かせながら、セロファン師はその場をあとにした。乾いた社会に圧し潰されそうだった女性が、今から数十年を経て、何色を望むような人生を送るだろうと思いながら。




