XXII
もう手遅れだろうと言う医師の声を、彼女は夢現に聴いた。
春先の寒さに風邪をひき、肺炎をこじらせたのだ。
病院に搬送された時には、彼女の命は風前の灯だった。
荒い呼吸の中から病室の天井を見上げる。
折悪しく、唯一の家族である娘は会社の海外研修に出ていた。
最期の一瞥は叶うまい。
その時、彼女の耳は奇怪な音を捉えた。
たとぅ、たとぅ、たとぅ、と。
木で何かを打ち付けるような。
目だけを横に動かせば、そこには喪服めいた黒一色を纏う少年。
ああ、都市伝説は真だったのか。
それならば。
「こんばんは。人生の最期に、貴方が望む色を言ってくれ」
彼女は霞みそうになる視界の中、必死に己を鼓舞して笑った。
それは超人的な努力の為せる業だった。
「セロファン師さん」
「うん」
「桃色が、良いわ」
余り長くは喋れない。彼女は端的に望みだけを伝えた。
彼女の名前は桃子と言う。
出征した許嫁が褒めてくれた名前だった。
出征して帰らなかった許嫁が君に似合うねと言ってくれた名前だった。
この名前と、その言葉、彼の笑顔を胸に仕舞って、彼女はその後の人生を生き抜いた。
歯を食いしばって。
けれどもう、良いだろう。
逢いに行くのも許されるだろう。
セロファン師は、その証拠。
セロファン師はにこりと笑うと上着から優しい桃色のセロファンを取り出した。
いつもこのように事がスムーズに運ぶと良い。
彼女も、セロファン師も満足だった。
セロファン師は彼女の人生を知らない。
苦悩も悲嘆も、幸せも。
ただ桃色が、彼女の旅立ちを彩るものだと、それだけを思った。
そして彼の生業からして、それで十分だった。
彼女は気づくと桃の花咲く丘にいた。
遠くから手を振る人の姿が見える。
ついに生きて戻らなかった、恋しい人の姿が。
彼女も思い切り手を振り返した。自分にそんな力があるとは思わず、ああ、もうここはあちら側なのだと悟る。
許嫁だった彼が歩み寄る。
二人は微笑み合い、手を取り合って、桃の花咲く丘を、ゆっくりと歩き出した。




