XXI
彼は白髪がまばらに混じった頭をがりがり掻きながら、もう片方の手で分厚い冊子を弄っている。首にはタオル。もうクリスマスも近いというのに、半袖にジーンズという涼しい装いだった。パイプ椅子に座る彼の前は無人で、同じくパイプ椅子が円になって並んでいる。彼は長机の上に身を乗り出し、眼鏡に触れて考えに耽っている。
だから気づかなかった。
明らかな前触れ。
木靴の音。
折しも外はジングルベルの音楽が流れている。
その音に紛れて。
たとぅ、たとぅ、たとぅ、と。
射干玉色の、死者を悼む衣服を纏い。
髪には水色の鈴。
目前にセロファン師が立ち、そこでやっと男性も我に返った。
「こんにちは」
静穏に挨拶したセロファン師を、男性は怪訝な顔で見た。
「オーディションなら数週間前に済んだぞ。配役ももう決まってる」
「貴方は演出家なんだね」
「……何だ、君は。俳優志望かね。ふむ、独特の空気を持っている。だが、駄目だな」
「駄目?」
「静か過ぎる。発するべき情が希薄だ。悟りでも開いてるのか?」
そう言って男性はよれた青のシャツでごしごし顔を拭いた。タオルの存在を忘れているようだ。
「――――どうかな。見たい色を言ってくれないか」
「何だ、藪から棒に」
「それが僕の生業。死にゆく人に望む色を見せる」
はっ、と男性が改めて何かに気づいたようにセロファン師を凝視した。
「……セロファン師」
「ご名答」
「…………俺は死ぬのか」
「死ぬよ」
「病気か?」
「殺人だ」
「殺人?」
「貴方に演技をこてんぱんに貶された青年にね」
「関田。あいつか、駄目だ、それはいかん!」
セロファン師が小首を傾げる。男性が勢いよく立ち上がった拍子にパイプ椅子が賑やかに叫ぶ。
「あいつはものになる。逸材なんだ。犯罪者なんかになったら、演技が出来なくなるじゃないか!!」
「心配するところはそこなんだ」
「当たり前だっ。俺が何十年この道で生きてると思ってる!」
「望みの色を言ってくれ」
激昂する男性とは反対に、セロファン師は淡々と要求を繰り返した。
睨みつけられてもそよ風のように微笑していなす。
「俺は死なない」
「貴方は死ぬ」
しばしの沈黙が落ちる。
「ベビーピンク」
「え?」
「別れた女房が最後に娘に着せてやった服の色だ。甘ったるくて、俺は好かん」
「嫌いなのに、その色で良いの?」
「嫌いだよ。――――――――でもそれで良いんだ」
「では貴方にベビーピンクのセロファンを。どうか安らかに旅立てるよう」
セロファン師は上着から甘く優しいベビーピンクのセロファンを取り出した。
その日、高名な演出家が若い役者に刺殺された。
演出家は死ぬ前に刺した相手の役者に言ったという。
発声練習を怠るな、と。
クリスマスムード一色の街で、そのニュースは一瞬、騒がれたあと、すぐに忘れられた。




