XX
セロファン師は大樹に寄り掛かり、目を閉じていた。安らかな寝顔にも似た表情を浮かべ、ゆったりと呼吸している。漆黒の周囲には野鳥が集い、囀っていた。世界の片隅だ、と彼は思う。遍く世界がこのような場所であれば、嘆き憎み、怨嗟の声を上げながら死にゆく魂もないだろう。
セロファン師が見せる色も、もっと穏やかになるだろう。
そうあれば良い、と望まないのがセロファン師だった。
彼は人の抱く負の感情をどこまでも受け止めながら、否定も肯定もせず、ただ生業をこなしている。冷たいと謗られても、それがセロファン師の在り様だった。
人は生き、人は死ぬ。
ふ、と目を開く。
まるで黒い泉のように澄んだ双眸は、彼と対を成す純白のスーツの少女を映し出していた。彼女の金髪を微風が揺らす。
セロファン師の髪も揺れて、髪飾りが小さく歌った。
「行くの?」
「うん。声が聴こえた」
「行かないでと頼んでも?」
「ごめんとしか言えないな」
事実、彼は、死にゆく人々に謝罪を求められると素直に詫びてきた。そうすることで、解消される負の気持ちがあるのであれば、安いことだ。俯いた少女の横を通る。すれ違いざま、少女が呟く。
「あたしの無力を嗤う?」
「僕は誰も嗤わないよ」
「生を求める心の具現者が、セロファン師を止めることすら出来ない」
「仕方ない。それが摂理だ」
「摂理!」
はっ、と少女は呼気を吐いた。野鳥たちが、彼女の権幕に恐れをなしたように飛び立つ。
深い、深いところで、少女もまた、セロファン師の言葉の意味を理解している。
事情を呑んでいる。
木靴の音を鳴らし、セロファン師の姿が消えても、少女は大樹の前に立っていた。
「莫迦ね……」
つい昨日まで仲間という名前の鎖で縛られていた男たちから逃げて逃げて逃げて――――青年が行き着いたのは、寂れた廃工場の中だった。ドラム缶が幾つも転がり、あちこちの錆が目立つ。野生の犬か猫でもねぐらにしているのか、糞尿の臭いがする。
たとぅ、たとぅ、たとぅ、という音に、彼はびくりと肩を揺らした。追手の男たちかと思ったのだ。だが、いつの間にか工場内に佇んでいたのは、場違いに清涼で、しかしどこか底知れない空気を纏った一人の少年だった。
セロファン師の都市伝説を思い出す。木靴の音は、彼の訪れの前触れ。
そして死の前触れ。
青年は血塗れの腹部を押さえてこくりと唾を呑んだ。
セロファン師がにこやかに言う。
「最期に見たい色を言ってくれるかい?」
「……死ぬのか、俺」
「うん」
セロファン師に救命の意志がないことは明らかだった。そしてあったとしても、今更、病院に運ばれたところで既に手遅れであろうことを、青年は悟っていた。くく、と笑う。次に生まれ変わる時は、もっとまともな人生にしたい。
「……畜生。畜生、畜生、畜生っ!!……畜生、畜生」
セロファン師は静かな湖面の表情で、激昂する青年を見守る。青年の声は、次第に弱くなっていく。
「色は、言わない」
セロファン師が、少し目を瞠る。
「俺はここで、犬死して、これ以上ないくらい惨めに死ぬ。それが俺の最期だ。半端な救いなんて欲しくない」
「…………」
青年がそう語る内にも、みるみる血が失われていく。命の火が消えようとしている。
セロファン師は手を上げて、下げた。本人がそうと望まないものを、セロファン師が強制することは出来ない。稀にだが、似た状況は今までにもあった。
ついに青年の呼吸が止まって、セロファン師はただ、それを見届けた。
黙って青年の亡骸の前に跪くと、銃創と見える傷に手を当て、赤い色を掬う。掬い上げて、猫のようにそれを舐めた。更にその手を伸ばそうとするセロファン師を、止める存在があった。純白のスーツの少女が、セロファン師を見ていた。憎むような、愛おしむような、一言では形容し切れない表情で。
「ここは毒だわ。こんなところに長くいてはいけない」
「僕の仕事場だよ」
セロファン師がくすくす笑う。少女の顔に、一瞬、痛ましい色が走った。
彼女はセロファン師を押し倒すと漆黒の上着を奪った。射干玉色が、砂埃の上に落ちる。
黒いネクタイも乱暴に毟り取ったので、ネクタイピンの真珠も、儚く煌めいた。
少女はセロファン師の上から奪うように口づけした。セロファン師は抵抗しない。一種の治療行為に似た少女の行動を、あえて甘受した。
「こんなところって言った癖に」
「黙りなさい」
少女が白いスーツを脱ぎ捨て、それより更に白い肌を晒すのを、セロファン師は他人事のように眺めていた。




