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セロファン師は気が進まない  作者: 九藤 朋
19/58

XIX

 空気が湿って、花曇りの日だった。

 遠雷が聴こえて灰色の雲が重い。


 青年は楠に寄り掛かり、果樹園を眺めていた。彼の両親の営む果樹園は、この季節は殊に華やぎ、熟れた香りをあたりに撒く。

 胸一杯にその香りを吸い込み、青年は曇天を見上げた。


 遠雷に混じって、奇妙な音が聴こえた。


 たとぅ、たとぅ、たとぅ、と。


 世知に疎い青年は、それが何の前触れであるか知らない。

 気付けば横に、射干玉色の服を着た少年が立って、自分に親しげに微笑みかけていた。

 髪も含めて全身が漆黒の少年の、肌は白く、髪飾りの鈴が涼しい水色だった。


「こんにちは」

「こんにちは。……君、学生じゃないのか? こんなところにいて良いのかい」


 くすくすとセロファン師は笑う。さも可笑しそうで、楽しそうなので、青年は疑問も忘れ、不快も感じず、セロファン師を見遣った。

 絵のモデルになってくれないかな、と思う。


「貴方がこの果樹園を継ぐの?」


 唐突な、プライヴェートに踏み込んだ問いにも、青年は真面目に応じた。


「どうかな。父さんたちは多分、それを望んでるけど、僕は迷ってる」

「絵描きになりたいんだね」

「……どうして解った?」

「貴方の指先、絵具がついているよ。シャツの袖にも。油絵の絵具は、中々落ちない」


 青年は自分のシャツの袖と指先を見る。セロファン師の指摘通り、青や緑、赤がそこにはついていた。


「――――うん。君の言う通りだ。僕は美大に進みたい」

「反対されて困ってる?」


 セロファン師の問いに、青年は情けなさそうな表情を浮かべた。


「逆だよ。果樹園のことは良いからやりたいことをやれって言われてる。人生は一度きりだからって」

「良いご両親だね」

「うん。ねえ、君。僕の絵のモデルになってくれないかな?」

「僕が?」


 ぽつ、ぽつ、と。ついに空が泣き出した。楠の葉に阻まれて、雫は二人にまでは届かない。


「僕の願いを聴いてくれるなら、考えても良いよ」

「君の願いって?」

「死ぬ前に見たい色を言って欲しい」

「――――え?」


 その時、稲光があたりを真っ白に照らし、楠に雷が落ちた。

 凄まじい音が青年の鼓膜に轟いた。


 地面に仰向けになった彼はセロファン師を霞む目で見上げる。

 セロファン師は相変わらず、落雷などなかったかのように立ち、青年を見下ろしている。

 ああ、彼は死を背負ってきたのだなと青年は思った。身体が嘘みたいに動かない。楠が真っ二つに裂けてしまっている。ぶすぶすと、燻る音を立てながら。


「さあ、貴方の望む色を言ってくれ」

「死神だったのか」

「いいや、セロファン師だ。死ぬ前の人に、望む色を見せるのが、僕の生業」


 それを聴いた青年は、他人事のように悪くない職業だと思った。


「……けど、まだ死にたくない」

「うん。大抵の人はそう言うよ」

「父さんたちが泣く」

「そうだろうね」

「絵描きの夢も」

「うん」


 雨滴がセロファン師にも青年にも落ちていた。空はまだ、ところどころ金色に光っている。


「……春の野辺に咲く花の色が見たい」

「花?」

(すみれ)蒲公英(たんぽぽ)母子(ははこ)(ぐさ)、矢車菊、仏の座……」

「そんなに色を並べ立てた人は貴方が初めてだよ。流石は絵描き志望だね。まあ良い。サービスしよう。何も答えられず死んでいかれるよりはずっとましだ」


 セロファン師は上着から、青年が言い並べた野の花の色のセロファンを数枚、取り出した。

 暗い空の下、それらは淡く仄かな明るさで、優しく青年の目に触れた。この色を描きたい、この色を取り出したセロファン師を描きたいと青年は切望した。無性に絵筆を握りたかった。けれどもう、目が霞む。

 目尻に滲む涙は何の涙か。

 哀惜、悔恨、執心……。


 もう微動だにしなくなった青年を前に、セロファン師は濡れるがまま佇んでいた。


「貴方の描く絵を、僕も見てみたかったよ」


 ぽつりとした呟きは、雨音に紛れて消えた。




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