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セロファン師は気が進まない  作者: 九藤 朋
18/58

XVIII

 アールグレイの紅茶を淹れよう。

 悲しいことなど忘れられるように。

 明日も生きていく為に。

 アールグレイの紅茶を淹れよう。

 折角の休日なのだから。


 彼女が薬缶(やかん)のお湯をティーポットに注ごうとした時、その音は聴こえた。


 たとぅ、たとぅ、たとぅ、たとぅ、と。


 目の前には射干玉の色を纏った少年。

 ――――――セロファン師。


 彼女は蒼褪め、薬缶を鍋敷きに置いた。カタン、と小さな音がする。


「まだ時間はある」


 セロファン師が言う。


「紅茶を淹れて飲むくらいの時間は、あるよ」


 再度のセロファン師の言葉に、彼女はほぼ惰性で紅茶を淹れる作業を続けた。

 硝子の、湾曲して幾筋ものラインが入った優美なティーポットは、彼女が初めての給料で奮発して買った物だ。

 しかし今や彼女の頭の中では、まさかまさかまさかという文字が踊り狂っている。


 口を突いて出た言葉は、本題とは全く違ったものだった。


「このティーポットで淹れた紅茶を飲むと、マリー・アントワネットみたいに優雅な気持ちになれるの。日頃、あくせくしている自分を忘れられる」

「そう」

「貴方も飲む?」

「僕は何も飲まない」


 ふと、彼女の興味が湧いた。


「食べたりもしないの?」

「しないね」

「貴方は……生きてるの?」

「生きてるよ、ほら。触ってみる?」


 セロファン師に左腕の手首を差し出され、彼女は恐る恐るそれに指を当てた。

 とく、とく、とく、と。

 確かに命の脈打つ音。


「もうすぐ君の音は止まる」


 鋭利な刃を喉元に突きつけられる心地で、彼女は息を呑んだ。


「……どうして?」

「死因?脳溢血だよ」

「どうして?」

「超過勤務。過労死だね」

「どうして?」


 セロファン師の双眼が細くなる。喪服のような服と同色の、漆黒の瞳。


「君は頑張り過ぎたんだよ」

「頑張り過ぎた報いがこの年での死なの?」

「無念だろうね」

「解る筈ない。貴方に、解る筈なんてない」


 紅茶の温度が徐々に下がっていく。そろそろカップに注がないと、紅茶が渋くなる。

 優美なティーポットに合わせた、花柄の華奢なティーカップに。


「紅茶を飲みながら、最後に見たい色を考えて」


 セロファン師は微笑して言う。

 彼女は迷子の子供のような顔をした。


「解らないのよ……」

「え?」

「ずっと、頑張らなくちゃと思って、仕事ばかりしてきたから、もう、私、自分がどんな色を見たいかなんて、思い出せない」

「……ほんの些細な色で良いんだ」

「解らないの……もう、何も」

「…………」

「ごめんなさいね、セロファン師さん」

「君が謝る必要はない」

「ねえ?頑張って一生懸命に生きてきて、がむしゃらに働いて、呆気なく死ぬだなんて、ちょっとあんまりだわ」


 お湯は冷え、ティーポットの硝子から見える紅茶の色は褐色を強く帯びてきている。


「あんまりだわ……。父さん、母さん、ごめんなさい……」


 彼女は床に崩れ落ちた。

 セロファン師は死にゆく彼女の顔を見つめていた。無表情に。

 懸命に生きた者が必ずしも報われる訳ではない現実を、セロファン師は嫌と言う程、知っている。ただ、知っているということと、その事態を笑って許容出来るということは、また別問題だった。




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