XVIII
アールグレイの紅茶を淹れよう。
悲しいことなど忘れられるように。
明日も生きていく為に。
アールグレイの紅茶を淹れよう。
折角の休日なのだから。
彼女が薬缶のお湯をティーポットに注ごうとした時、その音は聴こえた。
たとぅ、たとぅ、たとぅ、たとぅ、と。
目の前には射干玉の色を纏った少年。
――――――セロファン師。
彼女は蒼褪め、薬缶を鍋敷きに置いた。カタン、と小さな音がする。
「まだ時間はある」
セロファン師が言う。
「紅茶を淹れて飲むくらいの時間は、あるよ」
再度のセロファン師の言葉に、彼女はほぼ惰性で紅茶を淹れる作業を続けた。
硝子の、湾曲して幾筋ものラインが入った優美なティーポットは、彼女が初めての給料で奮発して買った物だ。
しかし今や彼女の頭の中では、まさかまさかまさかという文字が踊り狂っている。
口を突いて出た言葉は、本題とは全く違ったものだった。
「このティーポットで淹れた紅茶を飲むと、マリー・アントワネットみたいに優雅な気持ちになれるの。日頃、あくせくしている自分を忘れられる」
「そう」
「貴方も飲む?」
「僕は何も飲まない」
ふと、彼女の興味が湧いた。
「食べたりもしないの?」
「しないね」
「貴方は……生きてるの?」
「生きてるよ、ほら。触ってみる?」
セロファン師に左腕の手首を差し出され、彼女は恐る恐るそれに指を当てた。
とく、とく、とく、と。
確かに命の脈打つ音。
「もうすぐ君の音は止まる」
鋭利な刃を喉元に突きつけられる心地で、彼女は息を呑んだ。
「……どうして?」
「死因?脳溢血だよ」
「どうして?」
「超過勤務。過労死だね」
「どうして?」
セロファン師の双眼が細くなる。喪服のような服と同色の、漆黒の瞳。
「君は頑張り過ぎたんだよ」
「頑張り過ぎた報いがこの年での死なの?」
「無念だろうね」
「解る筈ない。貴方に、解る筈なんてない」
紅茶の温度が徐々に下がっていく。そろそろカップに注がないと、紅茶が渋くなる。
優美なティーポットに合わせた、花柄の華奢なティーカップに。
「紅茶を飲みながら、最後に見たい色を考えて」
セロファン師は微笑して言う。
彼女は迷子の子供のような顔をした。
「解らないのよ……」
「え?」
「ずっと、頑張らなくちゃと思って、仕事ばかりしてきたから、もう、私、自分がどんな色を見たいかなんて、思い出せない」
「……ほんの些細な色で良いんだ」
「解らないの……もう、何も」
「…………」
「ごめんなさいね、セロファン師さん」
「君が謝る必要はない」
「ねえ?頑張って一生懸命に生きてきて、がむしゃらに働いて、呆気なく死ぬだなんて、ちょっとあんまりだわ」
お湯は冷え、ティーポットの硝子から見える紅茶の色は褐色を強く帯びてきている。
「あんまりだわ……。父さん、母さん、ごめんなさい……」
彼女は床に崩れ落ちた。
セロファン師は死にゆく彼女の顔を見つめていた。無表情に。
懸命に生きた者が必ずしも報われる訳ではない現実を、セロファン師は嫌と言う程、知っている。ただ、知っているということと、その事態を笑って許容出来るということは、また別問題だった。




