彼の幸福論
短いです。
そしてふわっとしている。
最悪だ、そう彼は言った。
私はその言葉を特に何も感じないで聞いた。それが当たり前。私にとって当たり前。
でも彼にとっては当たり前じゃない。これも当たり前。
そんなことをぼんやりとした頭で考えながら左手で彼の頬をそっと撫でた。
こういう時は何か言葉を発すればいいのだろうか。ありがとう?愛している?違う。そんなんじゃなくて。
ああ、そんなに泣かないで。あなたのせいじゃない。あなたが悪いわけじゃない。強いて言えば私のせい。
私が弱いから、私が脆いから。だから彼は泣いてしまうのだ。
幼い彼はいつまでこのことを覚えているのだろうか。一年?十年?もしかして死ぬまで?
冗談じゃない。私は彼の重荷になんてなりたくないのに。
・・・そろそろ限界が来たようだ。ぼんやりしてきた頭にさらに白い靄みたいなのがかかる。
これで、終わりだ。
頬を撫でる手にも力が入らなくなってきた。手がゆっくり下に落ちていく。彼が必死にそれを支える。
まるで映画の一シーンだ。
「さようなら、―――ね」
ずいぶんかすれた声が出たけど彼には聞き取れただろうか。
それにしてもさようなら、なんて。
もっと別の言葉にしておいたらよかった。これで彼が変に考えなければいいけど。
そうして私は目を閉じた。
あれから十年がたった。
彼は十八になり、好きな子ができたらしい。
それなのに自分の言葉を気持ちにできず、気が付いたら意地悪をしている。
そのくせ帰ったら一人反省会をして。
いい加減に進展しないととか思っていたら彼の養父も同じことを思っていたらしい、映画の券を二枚差し出した。
それを見るなりいつもの無表情でいりません、とか言って突き返した。
でもその無表情の奥に普段はない何かが隠されていて。
それに気付いたらしい養父も何とも言えない顔で彼の頭を撫でて部屋から出て行った。
「姉ちゃん、俺は幸せになんかなれないよ」
まるで私のことが見えているかのように目が合って、笑った。
それはそれは悲しそうな微笑だった。