3. 耳飾り 其の二
(ああ! アリシャル、アリシャル! 伝説の舞踏手、舞妓の中の舞妓、詩人アル・シャリークの讃えし美女よ! あたしに力を貸せ!)
声にならぬ声で、ヴェスタは叫んだ。
ゆらゆら――と、脳裏の白い影は揺れる。
(この魔族の戒めを払い除ける力を貸せ! あたしはおまえの耳飾りを継承するもの!)
頭の中で、舞妓はアリシャルを呼んでいた。反撃の最初の一手に、なんとか力を貸してくれと願っていた。存在するかどうかも分からぬ幻に、助けを求めていた。
ありもしないものに頼ることなど、普段の舞妓ならばしないだろう。だが、この時は違った。魔女の餌食になんぞなりたくはない、己の躰を魔族の玩具にされるのは、どうにも矜持が許さない。岩漿のごとき憤怒の感情が、彼女の中でふつふつとたぎっていた。
もしこの耳飾りの鳴る音が、アリシャルの救いの手ならば――。いや、ただの偶然でもいい。この窮地を脱することができるのならば、どんな手にもすがってみせよう。
ヴェスタは必死にしがみついた。
(あたしは、アリシャルの耳飾りを継承する者だ。舞踏手だ。こんなところで喰われたくはない!! 闇の輩の思いのままにはならない!!)
(あたしは、あたしだ。ヒタノの舞妓ヴェスタだ!)
(あたしに、力を貸せ――!!)
* * *
この時――、
ヴィィィ……ン、ヴィィィ……ン……
ヴィードの弦の音が重々しく響く。
停滞していた空気が、びりびりりと武者震いをする。
ヴィードの弦を強く弾くのは、妖魔祓いの音だ。
ヴィードに張られた弦は十一本。この十一本目に当たる最低音の弦を、撥を使わずに指で弾いて鳴らす。他の弦を共鳴させず、この弦だけを静かにゆるやかに、風紋が広がるように鳴らす特殊な音の出し方であった。
大神エアの足音を示すともいわれる、この十一本目の弦を通常とは異なる技法を用い、常人には引き出せぬ特別な音を鳴らすことで、妖魔退散の呪詛とするのだ。
こんなことができるのは、吟遊詩人「盲目のカル」とその愛弟子くらい……。
密度を増した気配が妖魔祓いの音を乗せ、ひたひたと押し寄せて来る。そこに耳飾りの鳴る音が共鳴する。
ヴェスタの脳裏で、白い影がまた揺らぐ。
<グワヮヮ……ォォオゥ……>
魔女の顔に、苦悶の影が浮かんだ。肢体がうねる。そこにわずかに隙ができ、締め付けが甘くなった。舞妓は抜け出そうと躰を捩じる。
再びヴィードの音がした。同時に脳裏に白い影が、二度三度大きく揺れ、鼓膜の中で耳飾りの涼やかな音が五月蠅いくらい谺する。
魔女の躰が強張った。あれほどぬめぬめと輝いていた躰から色が消え、動きも鈍くなっているではないか。
ヴィードの打ち鳴らす妖魔祓いのまじないが効いている――――。
今こそ好機と舞妓は躰をくねらせ、束縛を緩めようと懸命にもがく。どうにか肩が動かせるようになると、さらに大きく躰を揺すり、足も動かそうと身を捩じらせる。しばらく抵抗を続けると、するりと右腕が抜け、片手が自由になった。すかさず巻き付いた白い肢体に爪を立て、左腕の自由を得んが為引き剥がしにかかる。
そこに追い打ちをかける三度目の妖魔祓いの弦の音が――。
人の目には見えぬとも、大神の打擲は、魔族をびしりびしりと打ち据えていた。堪り兼ねた魔女は息も絶え絶えに、七転八倒するさなか、ぽろりと舞妓の躰を手放した。
(今だ!)
転がりながら、魔女の元から急いで離れる。矢継ぎ早に鳴らされる4度目5度目の弦の音に、苦しみ悶える妖魔の姿を横目に、躰を起こし、どこかに転がっているはずの短剣を探す。左右上下とあたりを見回すが、影も見当たらない。
しかしどこかにあるはずと、舞妓は確信していた。魔女は光を奪い、あたりを闇に染め異空間を演出したが、ここはまだ天幕の中だとヴェスタは思う。
耳飾りの鳴る音が、そう告げている。焦る心を落ち着かせ、もう一度、闇に目を凝らした。
チリチリチリ……
音に導かれ、視線を動かす。するとそこにキラリと鋭い光が瞬き、舞妓の目を刺す。
ヴェスタは、その光に跳びついた。悶え苦しみながらも魔女が片腕を伸ばし、舞妓の行動を阻止しようとしたが、紙一重で短剣の柄に手をかけたのは舞妓の方だった。
短剣を拾うと舞妓は立ち上がり、鏡の元へと滑り込んだ。両手で短剣の柄を握り、振りかぶり、力の限りを込めて鏡に切っ先を突き立てる。
ガシャリという重い音がして、面にひびが走り――――化粧鏡は砕けた。
<グワアァァァァァ……、ヲオォォォォォォ……>
おぞましい声を上げて、魔女が悶絶する。
鏡の砕ける音と、耳飾りの音色と、魔女の絶叫が、闇を撹拌して渦となる。
鏡の中に――逃げ込む場所を失った妖魔は、狂ったように肢体を動かし、せわしなく宙をのたうち回った挙句、やがて落下し動かなくなった。
弛緩してだらしなく伸びた魔女の肢体は、輝きを失い、半透明のブヨブヨとした、ナメクジかミミズを思わせるみっともないものでしかない。あれほど高慢な顔をしていたものが、今は卑しくも醜い塊と変わり果てている。あっけない最期に、舞妓は呆然とするしかなかった。
魔女は、絶命したのであろうか――。魔族に死があるのか定かではないが、眼前に迫っていた最悪の事態から脱したのは間違い無いと悟り、ヴェスタは胸を撫で下ろす。
横たわる死身を腹いせに蹴りつけてやろうと考えたが、気味の悪さに顔をしかめているうちに、魔女であったものは溶けて消えてしまった。
同時に舞妓を閉じ込めていた濃密な闇が消え去り、周囲は見慣れた彼女の天幕の様子に戻っていた。
何事も無かったように静かではあるが、空気の流れがまだ少し乱れ、微かに魔族の悪臭が残っている。急ぎ葛籠から薔薇水を取り出し、辺りに振り撒き痕跡を消した。
そうして舞妓は大きく安堵の息を吐き、まずは大神エアに祈りを捧げ、次にアリシャルに感謝を捧げようとした。あの白い幻が何であれ、ヴェスタはアリシャルにすがることで、魔女に喰われることを免れたのは間違いないのだから。
が、舞妓はハッとした。今まであれほど鼓膜に響いていた涼やかな音色が、ぴたりと止まっている。頭を振り、耳飾りを揺らしても、あの音は聴こえない。ヴェスタは唱えかけていた祈りの言葉を飲み込んだ。
* * *
緩んだ腰帯を結びなおし、天幕の入口を開けると、そこにカナヤがいた。地べたに座りヴィードを抱え、青い顔をしている。
「ああ! ヴェスタ!」
舞妓の顔を見るなり、彼の固まった表情が一瞬にして解け、破顔した。
「ああ、よかった。よかった……無事だったんだぁ」
今度はぼろぼろと涙をこぼして、あとは声ならない。幼いころから変わらない泣き虫ぶりに呆れながら、弟がしっかりと抱えるヴィードに彼女の目が留まる。
「やっぱり……おまえだったんだ。あの魔よけの弦は……」
舞妓は、まだ涙の止まりそうもない弟の前に腰を落とした。よく子供の頃にしていたように、頭をくしゃりと撫でる。
「ほら、泣くんじゃないよ。あたしは無事さ。……というより、おまえ、あの気配に感づいていたのかい?」
涙を止めようと苦心する弟の大きな瞳を覗きこみ、舞妓は小声で尋ねた。
嗚咽を堪え、カナヤは答える。
「ああ、なんだか異様な感じがしたから。親方から、どうにもヴェスタを引っ張って来いって言われていたから、天幕から出て来るのを待っていたんだ。ところがいつまでたっても出ちゃ来ないし、そのうちヴェスタの天幕だけ、暗くて冷たくて重たい空気に支配され、周りから隔離されているのを感じて、ぞっとして身震いしたんだ。
なんだか悪い魔の気配に支配されている気がして、心の臓がバクバクして……心配になって急いでヴィードを取って来て――妖魔除けの「エアの足音」を鳴らしたんだ。
僕は、アシックだからね。これより他に、手だてが分からなくて……。カル師のように上手くいくのか不安だったけど、少しでもヴェスタを助けることができればいいって思って、心の中で妖魔退散って祈りながら夢中で弦を弾いたんだよ。
なにがどうなっていたんだい。教えておくれよ。外からじゃ様子は分からなかったし、押しつぶされそうなくらい心配したんだからな。
ああ、でも、無事でよかった。本当に、本当に……。ヴェスタが魔に取り込まれちゃったらどうしようかと、本当に怖くなったんだ。だって、たったひとりの僕の姉なんだから、そのくらい心配したっていいだろ。一座のみんなは家族だけど、おんなじ母親の腹から産まれた姉はヴェスタだけで、やっぱりちょっとだけ特別なんだ。
そんなことより、どうしたんだよ。ヴェスタが魔に魅入られて、引き込まれるなんて珍しい……ってか、初めてのことじゃない。そんなに相手は――」
気が弛んだか滔々としゃべり続ける弟に、舞妓は柳眉を釣り上げた。
「お止し。あいつは退治したからって、あれだけ強い魔力を撒き散らしたんだ。魔族特有の臭いにおいに惹かれて、違う奴がやって来るとも限らない。いいや、名を呼べば喜んで次の妖魔がやって来るだろう。ここは用心しなくちゃならないさ」
姉の言葉にカナヤは急に表情を引き締めて、ヴィードの最低音の弦を今一度強く弾いた。
心の準備が足りなかったか、指が滑ったのか。先刻ほど力強くも重々しくもなかかったが、退魔の音色がふたりを中心に静かに波紋を広げるのは感じられた。
(やれやれ、さっきの技巧はまぐれかい。せっかく誉めてやろうと思ったのに。ああ、でも、まさか弟に助けられることがあろうとはねぇ……)
舞妓は独りごちた。
「ふん。少し油断しただけさ。――さあ、殿様の御前へ行くよ。待ちくたびれてお怒りを買おうものなら、ご褒美が無くなっちまう。親方に横取りされるのも、嫌なことさ。
急ぐよ、カナヤ!」
大股で歩き出す舞妓の後ろから、威勢の良い返事が返ってきた。
* * *
ヴェスタは思っていた。いつまでたっても子供だと思っていた弟も、妖弦使いと云われた「盲目のカル」の最後の弟子として成長をしているらしい。
彼女が「誇り高き舞踏手の末裔」であるように、彼もまた「偉大な吟遊詩人」の技巧を継ぐ者として、譲れぬ自負心が芽生えているようだ。まだまだ半人前だが、そろそろ子ども扱いも止めねばならないだろう。
カナヤのヴィードが妖魔を祓ったのだ――と。
だが――なにより舞妓ヴェスタの強き心が、妖魔に打ち勝ったことが誇らしくあった。いつか黄泉の国でアリシャルに会うことがあれば、今夜の勝利を自慢し、賞賛の言葉をもらいたいくらいに、だ。
そして――。
チリリ……
彼女は耳飾りが微かに鳴った気がした。
流浪の民の舞妓ヴェスタのある夜の出来事は、これにて幕を引かせていただきます。
長らく中断したままの物語をようやく終わらせることが出来て、なにより作者がホッとしています。
アルイーンの物語はボツにしたのですが、これを書いている途中、設定のメモ書きが出てきました。
ヤバい……。
ヴェスタ以外のキャラたちも、書いて欲しいと言っているようで。
よろしければ、感想などお寄せください。
自作の励みにしたいと思います。




