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2. 魔女  其の二

 なんとも奇妙な光景に、ヴェスタの身は固くなった。鏡の面が波立つと、拡がる波紋の中央から、二本の腕がするすると抜け出してくる。

 彼女は身を引き、伸びる腕から逃れた。

 ゴクリと息を呑む。

 まんまと妖魔の術中に落ちた浅はかさを呪ったが、もう遅い。腕は闇の中に鈍くぬめる――どこか澱んだ薄気味悪い乳白色で、不恰好に細く長い腕が、大きく波打ち、曲がりくねりながら彼女へと延びてくる。


<おまえが欲しい……

 おまえをおくれ……>


 甘露な誘惑を繰り返しながら――。



 魔族ジン――それは魔女ジンニーヤであった――の甘く低いささめきは、なめらかで、心地好く、豊かな余韻さえあって、まるで音楽を聴いているようだった。それが幾重にも重なり、頭の中に響いている。

 そうして琴線を震わせている間に、乳白色の腕はヴェスタの躰へと捲きついていた。指先は怒りで熱くなった肌を味あわんがため、ゆるやかに焦れるほどゆっくりと、頬から顎へ、うなじを通り鎖骨へ、そして乳房へと這っていく。


 おぞましいほど親しげに愛撫する指は、神経を麻痺させ、悦楽の深みに潜む陶酔感を呼び覚まし煽り立てた。振り払おうとすると、冷たい痺れが全身を駆け抜け、金縛りに捕らわれてしまう。


<おくれ、おくれ――――おまえの躰……

 ……おまえの精気を喰わせておくれ>


 侮辱をたっぷりと含んだ微笑みを浮かべ、獲物を混乱の淵に誘おうと、時折唇の端からチロリと毒々しい赤い舌を覗かせ脅しもする。絶えず動く眸は、ヴェスタのそれを模してはいるが、獰猛な光を帯びて野蛮で飢えた狂気を孕み、忌まわしさは嫌悪感を煽っている。恐怖と愉楽がゆらゆらと燃え、魔女の瞳孔の奥には無限の暗黒が隠れていた。


<おくれ……おくれ……

 ああぁぁ、おまえが欲しい>


 美しいヒタノの舞踏手の躰を愛しみ慈しむように、ゆるゆると腰のあたりに伸びた魔女の指が、腰の飾り帯に掛かり結び目を解こうとしていた。

 渾身の力を込め、ヴェスタは強く叩き落とす。次いで素早く身をひねり、もう片方の腕も振り解くと、敷物カーペットの上を転がりながら鏡より数歩離れ向き直った。



 厳しくあしらわれた乳白色の腕は、もつれながら鏡の中に退散した。重たい静寂が訪れ、ヴェスタに圧し掛かる。こめかみに汗が浮き、冷たく感じた。いや――躰中の毛穴という毛穴から汗が吹き出し、それが彼女の躰を重たくしていた。

 鏡面に立った波の輪は消え、今は静かに凪いでいる。とはいえまだ舞妓ガーワジを諦めた訳ではない。彼女は、その気配を嗅ぎ分けることができた。

 だが、次に何を仕掛けて来るのか予想がつかず、対策を講じようがない。得体の知れぬ闇の輩への本能的な恐怖感というものは、躰の奥底から容赦なく這い上がってくる。されど迷いを見せたら負けだ。


 空気は濃密になり、流れが止まった。

 ヴェスタは、首の後ろの筋肉が固く張ってくるのを感じていた。


 ザワ…… ザワ……


 闇が騒ぎ出した。


(冗談じゃない、ここで女妖魔ジンニーヤになんぞ喰われてたまるものか!)


 ごくりと唾を飲み下し、闘志を奮い立たせる。



 どうやら目の前にいるのは、これまで遭遇したことのある下等な使い魔(ジン)どもとは異なり、魔王の恩恵も厚い、魔族の中でも上等なやからのようである。

 ただくだんの食人鬼グーラーとは異なり躰を欲しているが、何に使うつもりだろうか。人間の男を喰らうための道具にでもするのかしらと、舞妓はいぶかしむ。


(なんにしても、魔女の好き勝手に操られるなんて冗談じゃない!)


 見れば、先刻弟カナヤに投げつけた短剣が、天幕の入り口近くに転がっているではないか。


(あれで――あれで何とかできないものか……)


 ヴェスタは化粧鏡から目を離さぬよう、そろりそろりと尻を浮かすことなく、入口近くまで躰を移動させた。魔女に悟られないようにと、後ろ手で短剣のありかを探ったが、指先はその感触に当たらない。ハッと見れば、いつの間にか短剣は目の前、鏡のすぐ横に移動していた。


「おまえの仕業かい、ジンニーヤ」


 そうだと答える代わりに、魔女は声を立てて笑う。



 ゾワ…… ゾワ…… ゾワ……



 足元から闇の触手が躰をつたいよじ登ってくる。早鐘のように打つ心臓をわしづかみされ、全身が総毛だった。

 奥歯を噛み締め、込みあがる恐怖感と不快感を懸命に飲み下す。


(嫌な奴だね、この手で来やがる。肉体を痛めつけるより、精神を締め上げた方が人間は脆いって事を知っていやがるんだ)


 こういう時の癖で、ヴェスタはチッと派手に音を立てて舌打ちをすると、嫌悪と憤怒入り混じった表情で、口をぐいと一文字に引き鼻にしわを寄せた。

 動けぬほど張りつめてしまった神経と筋肉を少しだけ緩め、呼吸を整えながら耳だけはぬかりなく澄ましていると、鏡の中から妖魔の息遣いが聞こえたような気がした。


<ヴェスタ――ヴェスタ――ヴェスタ――――>


 魔女の声に耳を塞ぎ、大きく息を吐き出すと、突然ヒョウのようなしなやかさで身をひるがえし、短剣に跳びついた。が、柄を掴もうとした瞬間、それはふっと消えてしまった。

 眼を瞬いたが、消えた短剣は現れない。

 不意に――シュッという宙を切る鋭い音と共に、化粧鏡から飛び出した白い砂蛇のような腕がヴェスタの左手首を捕えた。

 勢いのまま、魔女は反応の遅れた舞妓の腕を掴み捩じ上げる。


「あうッ……!」


 あまりの痛みに声を上げていた。耐えきれず膝をつくと、待っていたようにもう一本の腕が鏡より伸びて、彼女の腰をひとえふたえに巻き、長い指の大きな手が右の乳房を掴んだ。


「ああッ!」


 立てた爪を肉に食い込ませ、乳房を引きちぎろうとでもいうのか、容赦ない力で引っ張る。急いで自由の利く右手で、蜘蛛の足に似た魔女の指をはがしにかかった。

 すると、魔女は捕まえている左腕を再び捩じ上げた。巻き付いた腕が、胴をギリギリと締め付ける。



 ヴェスタの全身に、どっと汗が溢れた。

 反対に口の中はカラカラに乾き、息をつくことも出来ない。

 身を揺すったり、のけぞったり、くの字に曲げたりと、なんとか魔女の腕を振りほどこうと抵抗するが、今度は先程のように簡単に手放してくれそうもなかった。



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