1. 舞踏手 其の二
彼ら流浪の民は数人で一つの座となり、数頭の馬と馬車に家財道具一式を積み込んで移動する。一座は結束が固く、ひとりの長が一座を束ね街から村へ国境も超え、転々と移動して行く。
時には地方貴族や藩主の城に招かれ、自慢の芸を披露し、よく回る舌で座を盛り上げ、問われれば都の噂や町々で小耳に挟んだ話を提供する。
この時代、彼らは貴重な情報調達の担い手だったのである。
しかし、そのことは彼らにもうひとつの顔を作ることとなった。
どこにでも入り込めるという生業を利用して、旅芸人という表の顔と、要人の隠密などという裏の顔を持つ者が現れる。高い報酬に釣られ、あざとい仕事に従事する者も少なくないとか。
密偵が、芸人に化けて一座に入り込むという場合もあった。ひとたび座の一員となってしまえば、彼らは仲間を売ることはしない。実に安全な隠れ蓑となる。
だが、それは一握りの者たちのこと。全てを胡散臭い眼で見ることなかれ。
彼らの本来の顔は、芸をこよなく愛し、磨き、それを誇りとして生きる者たちなのだから。
彼らがひとつの場所に定住するのは稀である。
水のように風のように、留まるところを知らぬ民であるからだ。たとえ囚われの身となり躰は幽閉されようとも、死して土に還ろうとも、その精神だけは自由に飛び回ることを止めぬだろうと自ら謳っている。
おおらかで、したたかで、たくましい人々であった。
* * *
先程の踊り手も、皆の前から引き下がると、スカートをたくし上げて走り出し、自分の天幕に飛び込んでいた。身に着けていた装飾品や衣装をむしり取るように脱ぎ捨てて素っ裸になり、汗ばんだ躰を拭き始めた時だった。
「ヴェスタ、ヴェスタ!」
彼女の名前を呼びながら、ひとりの少年が頬を紅潮させて天幕に転がり込んできた。
そして彼女の格好を見るや否や、
「うわっ、なんて恰好をしているんだよ。早く、なんか着ろって。見る方が恥ずかしくなるじゃないか」
少年は思わず目線を逸らせる。
「あぁら、カナヤ。着替えているところへ飛び込んで来た、あんたが悪いのよ」
ヴェスタの方は一向に動じない。
「いいじゃないか、仕事はきっちり終わらせたんだからさ。いつまでもお上品ぶってなんかいられるもんか。あたしはサナルの後宮に住まうお姫様じゃないんだからね」
そう言いながら、ケラケラ笑う。当分、弟カナヤの望みをくみ取ってやろうという気にはなれそうにない。
「ねえ、なんだって今夜はこんなに空気が重いんだろうね。踊っている最中も、こう、なにかがまとわりつくような嫌な感じが抜けなくってさあ。汗を掻いたんだよ。変だと思わないかい、あたしが汗を掻くなんてさ」
訝しげな視線が、天幕の入り口から差し込む一条の光を追っていた。
「おまえだって知っているでしょ。あたしは、汗なんか掻かないんだ。あたしたちのような砂漠や荒野を旅する者は、滅多に汗を掻かない。貴重な水分を無駄には出来ないからね。そのなかでも、特別なんだよ、あたしは。……奇妙だよ、おまえもそう思ったんだろう? 月光に酔ったのか、それとも魔……」
だが、カナヤは姉に最後までしゃべらせなかった。
「ヴェスタ! サナルの姫君でもなんでもいいから、……早く、なにか着てくれったら! だいたいそんな格好しているから――――」
「うるさい子ね。人がせっかく…………ああもう、わかんなくなっちまった。とにかく仕事は済んだんだから、後はなにをどうしていようとあたしの勝手。おまえだってね、姉の裸を見るのは初めてじゃないんだし、いちいち騒ぐんじゃないよ。いつまでたっても、ガキなんだから」
彼女は渋々と側にあったショールを取ると腰に巻き付けた。
しかし、せっかくひとりで躰を伸ばしていたところを邪魔されたという気持ちは、どうにも納まらない。踊った後の火照る躰が少しずつ冷めていくに任せ、自分が舞踏神ルドヴァに深く愛されていることを再確認しながら、静かに瞑想に耽りたかったのだが――――。
ヴェスタはその楽しみを邪魔した人間、カナヤをからかうことで憂さを晴らすことにした。
二年ほど前から、弟カナヤは、必要以上にはヴェスタの側へ近寄らなくなった。正確に言えば、カナヤがクードの師カルと共に、このタシュ一座を離れ、ふたりきりの修業の旅から戻った以降だ。
ヴェスタを嫌いになったという訳では無いのだが、なにやら妙に恥ずかしいらしい。ある意味、鬱陶しいのかもしれない。
カナヤの気持ちを全部理解することは不可能であったが、姉が女を誇示することや、いつまでも年下の――これはヴェスタから見れば『事実なんだから仕方ない』ことではあったが――目の離せない小さな男の扱いすることが、彼の自尊心とやらをいたく刺激するらしいのは知っていた。姉としては、悪いことと解っていても、ついつい突いてみたくなるのだった。
「ヴェスタ。ヴェスタはなにかあると、僕のことをガキだガキだって云うけどね。僕はもう一七歳で、子供じゃないんだぞ」
案の定、カナヤは子ども扱いされて、むっとしていた。
「ガキをガキだと言って、どこが悪いのよ。あんたはまだ子供なんだから。半人前もいいとこだね。女の裸を見た位でそんなに狼狽える様じゃ、どうしようもないわ。ふん、そんなことだから――――」
ふとヴェスタはあることを思い出した。
「ねぇ、カナヤ。そういえば、おまえ、この前に寄った館の奥方が、あんたを舐めるような目つきで観ていたの知ってる? 甘いお誘いが来たんじゃないの?」
ヴェスタはたじろぐカナヤの目の前に立つと、両手を腰に当て、胸を反りかえらせ、蠱惑的な微笑を浮かべた。
「来なかっ……たって、あのアズタンザイヤのお館の、あの奥方からだろ――――。その、来た……けど……さ……」
奥手のカナヤにも姉の微笑の意味は解る。しどろもどろに答えるカナヤは、薄暗い天幕の中でもはっきりと判るほどに顔を赤くしていた。
ヴェスタは、また一歩、カナヤに迫った。
「あ、はぁん。逃げたのね」
どこか嘲るような笑みを浮かべた姉の顔が、カナヤの鼻先に迫る。
「ヴェ……、ヴェスタ。よっ、よせよ。おいッ――!」
顔を少々引き攣らせた憐れな弟は、半歩後ろへ身を引いた。が、決して広いとはいえぬ天幕のなか、カナヤはすぐに逃げ場を失う。
ヴェスタは弟の首にするりと腕を回すと、自慢の形の良い乳房をぴったりと押し付けてきた。
「おまえ、知ってる? ユタ姐さんはあんたと寝たいのよ。だけどお前ったら、ユタ姐さんが何度誘ったって曖昧な顔して逃げちゃうもんだから、最近機嫌が悪いったらありゃしない。直接あんたに当たればいいのに、あたしに八つ当たりするんだから。たまンないわよ。
ユタ姐さんも、もの好きよねェ。そりゃ、タデ喰う虫も好き好きとは言うけど、あんたみたいなガキのどこがいいのかしら」
ヴェスタの紅い唇が、さらに姉弟の間隔を狭めて来る。
「あんたもさ、せっかく向こうがその気なんだから、今度ユタ姐さんが迫って来たら、『はい』って返事すりゃいいのよ。黙って頷くだけでもいいさ。そうしたらあんたは指一本動かす気がなくたって、ユタ姐さんが手取り足取り全部やってくれるわよ。
もう、一七歳だっけ。ヒタノの男が一七歳にもなるってのに、女を知らないなんて、みっともないわよ。……興味ないって訳でもなさそうだけど。
ねえ、あんたもしかして、女より男の方がいいの? それとも単に年増女が嫌いなの?」
カナヤは自分が耳まで赤くなるのが分かった。
ユタは彼らの仲間のひとりで、ヴェスタと同じ踊り手の女である。カナヤの記憶によれば、確かユタは姉より一〇歳も年上で、自分とは一一歳違うはずだった。この頃なにかにつけカナヤの側に寄ってきては、必要以上に豊満な躰を摺り寄せ、指を絡ませ、熱いねっとりした視線を送って来る。
彼も一七歳の健全な躰の持ち主だったから、年上の経験豊富な女性の誘いに気持ちが動かぬことも無かったのだが、あからさまな態度にすっかり意地を張っていたし、彼がいつ誘惑に屈するのかと座内で密かに賭けをする者までいるということを知り、すっかりへそを曲げて、この頃ではユタの顔を見ようともしなくなってしまった。
「関係ないだろ、ヴェスタには!」
「あら、そうなの。……そりゃ、そうだわよねぇ。これはあんたとユタ姐さんの問題だものねぇ。誘いに乗って、いい想いするもしないのも、あんたの自由なのよ」
息のかかる距離にあるヴェスタの薄い唇が、ククッと吊り上がる。細めた目の中で、好奇の光がちらちらと揺れる。
砂漠で女食人鬼に出会ったような心持ちだった。おまけにヴェスタの香が鼻を強くくすぐって、くしゃみが飛び出しそうなのを必死になって堪えていた。
だから首に巻き付いた姉の腕を早く振りほどきたいのだが、それには姉の肌に触れなければならない。それが酷く恐ろしいような気がして、カナヤには出来なかった。
といって、このままの状態を続けるのも願い下げだ。
それはヴェスタも同様で――――。
弟相手とはいえ、少しばかり悪戯が過ぎたようだ。困り切った弟の顔を見るのは楽しいが、これ以上続けて本当に嫌われては元も子もない。
腕をゆっくり外しかけた途端、香の刺激に堪えきれなくなったカナヤが、彼女の顔めがけて大きなくしゃみを二回した。
「この馬鹿ッ!」
カナヤは思い切り突き飛ばされ、バランスを失い、敷物の上に倒れてしまった。
「まったくあんたって子は、どうしようもないわね。そんなことだから、いつまでたっても一人前になれないのよ。まったく情けないったらありゃしない。だから、ガキだって言われるのよ。どう、違う?
そうだ。それよりおまえ、あたしになにか言いに来たんじゃなかったの?」
腰をしたたか打って、痛みをこらえるカナヤを尻目に、ヴェスタはまた大きな座褥の上に寝そべってしまった。




