夏色奇譚
どさり。
担いできた荷物は、その重量にふさわしい音を立て一本の樹の根元に放り投げられた。もう少し丁寧に扱えばという彼の良心の囁きは思った以上の重労働を前にあっけなく霧散した。
たまたま目についた森だったが、丁度いいと足を踏み入れた。亜熱帯のこの土地は、何もかもが本土と違う。それは自然にも言えることで、欅や杉ではない名の知らぬ、何か、纏わりつくような雰囲気を醸し出す不気味な樹々が林立していた。
最後の見納めとばかりに目をやる。不法投棄甚だしいから、かける言葉は罪の意識を少しでも薄めたいという願望だった。
「なかったことにしてくれ」
――――そんな声が、聞こえた。
一目惚れ、でした。
地図を片手に右往左往するその人を見かけたのが最初。年は三十をこえたくらいでしょうか。半袖半ズボンと常夏のこの島にふさわしい恰好をしています。暑さのせいで汗をかき、疲労を滲ませるその顔を見かねて、私は声をかけました。普段は人と関わらないよう息をひそめて生きているのに、なぜ。
振り返ったその人は、一瞬顔を歪めました。きっと私の髪が珍しい赤色だったからでしょう。不良と思ったのかもしれません。染めてはいないのだけれど。
何か困っていること、ありませんか。問えば、予想通り道に迷っているという。私も移ってきた者だけど十年ほどここで過ごしているので、道案内を買って出ました。なんとなく、この人のそばにいたかったのです。
私より頭一つ上にあるその顔は、熱で赤らんだ頬をわずかに持ち上げ喜んだ表情をしました。助かった、ありがとう。ワンフレーズながらもきちんと中身の伴ったお礼を述べ、地図を私のほうへ差し出します。目的地は赤い丸で囲んであり、聞かずとも了解しました。他のどこよりもここなら知ってる。とても、ひどく。
さいわい徒歩圏内で、私にも時間があることですし、目的地まで先導することにしました。
蓮見、と名乗ったその人が行きたがったのは、ただの森でした。貴重な動植物の宝庫でもなく、樹齢何百年の巨木といった観光資源があるわけでもなく、まして国や県が手入れして管理が行き届いた整地でもない、ただの森。
日差しが容赦なく照り付けるアスファルトに、二人分の足音を刻みます。私は何の変哲もない、海と熱が基本装備のこの町では必須のサンダルでしたが、隣を歩く蓮見さんはこの時期なら遠慮したいスニーカー。足元から暑苦しそうな蓮見さんは、ひたすら吹き出した汗を手の甲で拭っています。たまらず私はワンピースからハンカチを取り出しました。この人には優しくしたい。
「ありがとう、えぇっと――――」
「美雨です」
「美雨?」
遅ればせながら自己紹介をすれば、よどみなく動いていた足の機能が停止し、途端蓮見さんは眉を顰めました。最初に声をかけた時と同じ表情です。一瞬ですが確かに目もそらされ、そこで表情の変化が嫌悪ではなく恐怖や後ろめたさによるものだと気づきました。
しかし不愉快にした理由が思い当たらない。戸惑う私を察し、慌てて蓮見さんは弁明します。なんでも昔付き合った女性の名前で、その方とは良い思い出がないそうです。面白半分で「似ていますか?」と尋ねてみました。初対面での表情は、過去に切り捨てたはずの顔が再び目に前に現れたからだと予想したからです。
似ていたら、好きになってもらえるだろうか。大きく首を横に振る蓮見さんが、ちょっとおかしいくらい必死だ。
「全然! ……いやちょっと似てる、かな……でももうずっと会っていませんが、まずパッと見て違いすぎます」
「こんな赤毛、めったにいないでしょうしね」
何もそこまで力強く否定しなくても、という勢いで蓮見さんは力説します。無意識にハンカチを握った手にも握力がこもり、やわらかな布は抵抗なく変形しました。
「そうじゃなくて……生きていれば僕と同じ、三十四なんです。二十代の美雨さんと似てるなんて、それこそ失礼です」
「生きていれば?」
なにやら過去の交際相手を語るときには使わないような単語が飛び出す。まるで不穏です。
「言ったでしょう。もうずっと会ってないんです」
果たして、長らく音信不通だからと言ってそんな前置きをするものだろうか。何か難病もちだったり、借金取りに執拗に追い詰められていたりとか? 疑問が夏の入道雲のようにむくむくわき上がります。
よっぽど触れてほしくないのか、蓮見さんは借りたハンカチを私の手に戻しました。しかし接触した手は、すぐまたハンカチが入り用になるのではというくらい手汗で濡れていました。
いやな沈黙が、あたりの空気を停滞させていました。太陽はかげることなく、秘密をひた隠す蓮見さんと、その存在に勘づいてしまった私を責めるようまっすぐ光の直線を投げかけます。ただただ熱い。
生ぬるい南風が、季節を無視して凍結したこの場をほんの少し、融解しました。氷ついたように微動だにしなかった蓮見さんの唇が、やさしい風に撫でられて話題転換を図ります。
「僕はこんなに汗をかくのに、あなたは不思議なほど涼しげですね。人形みたいだ」
苦し紛れの作り笑いに、それ以上の言及は憚られます。そんなに困らないで、でも苦悶に寄せた眉ですら好ましい。
私もそれきりにし、「慣れでしょうかね」答えるにとどめました。
歩みを再開した道中、蓮見さんは徐々に自分のことを話し始めました。説明の義務はないのに、追い立てられたかのごとく口と舌が稼働し通しです。
十年前、この地に旅行で来たこと。町並みが随分変わり、偶然たどり着いた森への行き方を忘れてしまったこと。森で一番大きながじゅまるの樹の下に捨てた大切なものがどうなったかを確かめようと思い立ち、今に至ること。森に近づけば近づくほど、蓮見さんの顔色は悪く、そして饒舌になりました。
「分かってるんです。あれがもう、腐り、朽ち果て、原型をとどめていないと。それでも……」
辛そうに絞り出す言葉に私の胸も痛みます。時々蓮見さんは短く息をのみ、呆けた表情で一点を凝視していました。おそらく、風景がところどころ脳内のイメージと合致するのでしょう。ここがどこか記憶が呼び戻されるたび、森の気配が濃厚になる。間近に迫るその場所が、蓮見さんを追い詰めるようでした。
森の中も私が案内しました。一番大きながじゅまるの樹なら見当がつきます。昔、連れてこられたはずだから。お目当てではないがじゅまるの樹の、剝き出しの根を渡るよう道なき道を行く。樹々は繁茂しており、視界は暗いとか明るいとかではなく、根も枝々も苔むしたせいで緑にまぶしい世界でした。万緑のじゅうたんのせいで蓮見さんは何度も滑りかけます。スニーカーなのは、このけもの道を見越してのことだったようです。しかしサンダルの私と比べても、蓮見さんはだいぶ苦労しているようでした。
「あぁ、ここだ……」
吐息交じりに蓮見さんは呟きました。見上げた樹は分岐した幹同士が絡み、その太さはなかなか。これまでの樹の群れとは異なり深緑の衣は纏わず、生きているのだと実感する反面、何より暗い茶色の気根が幹全体に纏わりつく様は、執着のようで不気味でした。
「やっぱり、もうありませんね」
あたりに大切なものと目ぼしき存在そのものはもちろん、痕跡一つ見当たらず、しかしそうかといって残念そうなトーンではありません。ずっと頭から離れなかった遺物の消滅に、むしろ安堵した響きでした。
「気根に覆われてしまったのかもしれません」
気がかりの根源を示唆し不安を連れ戻したいわけではなかった。ただ、何重にも巻き付く褐色の気根は腕のようで、隠ぺいの意思さえ感じ取れたのです。この陰鬱な腕に搦めとられたら、きっと二度と逃げ出せない。
悩みの種がなくなった蓮見さんに私の発言はどうでもいいらしく、あとは大樹に感嘆の声を上げるばかりでした。
「十年前もすごかったが、これほどになるとは……。気根の生命力はすごい。老いぼれた土台の樹なんて枯れてしまった」
「絞め殺しの樹、ですからね」
物騒な別名を口にした途端、体がキシキシと痛みました。思わず両腕で体を抱きしめます。この鈍痛には、なぜか覚えがあった。いったいいつ、どうして体に巻きつく力の強さを経験したのか。記憶をひっくり返せば、よみがえるのは十年前の。
「美雨さん?」
違う。私には十年間の記憶があるのではなく、十年前の記憶しかないのだ。そうだ、思い出した。私は蓮見さんの大切なものだったのだ。あの日あの時、彼に殺された私はこの木の根元に捨てられたのです。
死んだ後のことははっきり想起できるのに、死ぬ直前のことは何一つ確かでない。殺された理由も手段も知る由はないけど、恋人の殺意によって動かなくなった私を蓮見さんはここまで運んできたのだ。そして私はゆっくりゆっくり、人の形を捨て、「なかったことにしてくれ」という蓮見さんの望みに従い、一本の大木に隠された。
蓮見さんの言葉を借りるなら、腐り、朽ち果て、原型をとどめていない今でも私は、この太い腕に「離さない」とばかりにきつく抱きしめられたまま。
「……なんでも、ありません」
突然体の不調を訴えるようなポーズをとった私の顔をうかがう蓮見さん。丁寧に、そしてなるべく美しくほほ笑みかけ、安心させようとつとめます。大丈夫、あなたに無数の枝が絡みつき罪のありかを問いただしていたのなら、それはこの瞬間取り払われました。
恨んでなんかいない。だって蓮見さんは私を“大切なもの”と断言してくれた。それだけで、もう。
同じ名前と髪色だけ違うかつての姿を携えて、私は彼と再会した。その理由は、きっと。
「帰りましょう」
さようなら、愛されなかった私。私は私にならないよう、これから生き直します。
二人が棄てるべき過去の象徴に背を向けて、私たちは歩き出しました。
非現実的なもの、非現実的なもの……と頭を抱えるばかりでした。
一回殺された美雨は人ならざるもの(モデルはキジムナー)になって、自分を殺した蓮見に再び愛されるべく生き直す……という不気味な話のつもりです。
色々騙すつもりで書きましたが、失敗が否めない。