その3
「小山、パス!」
「あいよ。行くぞ、武猪」
バスケ部部長ながらサッカーの心得もある小山が蹴飛ばしたボールは、秀麗な曲線を描き、正確に、二組側のゴール近くにいるフォワード悠真の元へと跳ばされる。両手両足に銀のアンクルリストを付けた彼は、そのボールを胸で受け止め、爪先に落とす。そしてそのまま、足を後ろに反らすこともせずに前へと蹴っ飛ばす。二組キーパーの股下を潜ったボールは、そのまま網を突き破らんという勢いで見事にゴールした。ギュルルルと、漫画のような擬音を上げてしばらく回り続けていたボールは、本当に網を焼き切る直前になってからようやく勢いを止め、ストンと下に落ちた。
「ちょっと待て! こんなの止めるとか不可能だろ! 軌道どころかボールそのものが視えねーんだから。っつか、当たったら当たったで俺の身体がヤバいことになりそうだし。武猪は今度からそのアンクルの数を倍にしろよ」
手袋をしていなければ火傷してしまいそうなほどに熱を持ったボールを拾い上げつつ、キーパーが愚図る。
「倍は幾らなんでも無理だって。まともに動けなくなるじゃねーか。……次からはちゃんと加減するから勘弁してくれよ」キーパーの投げたボールを片手で受け止めた悠真は、軽く頭を下げてから向きを変えて走り出しながら言う。「じゃ、センターから再開するぞ!」
一、二組合同で行われている、五時間目、体育の授業。男子連中がサッカーに興じている余所で、女子生徒達はキャッチボールをしていた。静香の相方はハル。
「行くよー、ハル」
「どんと来いです」
「じゃあ……せー、っの!」
ぶんっ! と、静香の投げた白球は、目にもとまらぬ速度で真っ直ぐに飛んでいく。
「わ、わ!」
柄にもなく焦った声を出し、思わず顔を庇う格好になったハルであったが、静香の投げた白球は見事に彼女のグローブに収まった。
「あ、危ないですよ静香! もう少しで顔が凹むところじゃないですか!」
「ご、ごめんね! 私、コントロール最悪なこと、自分でも忘れてたよ」
下手投げでふわりと投げ返された白球を受け止めた静香は、時速百四十キロを超える速球を友人の顔面に投げてしまったことを謝罪する。
静香は戦闘用の霊渉能力を持たない。とはいえ、戦いの場に駆り出されていることには変わりない。故に彼女も、護身用としての戦闘訓練は受けている。錬のような超人的人外的なまでの身体能力は無いにしても、少なくとも〝並〟のレベルは逸しているのだ。アンクルはつけていないから、それがもろに発揮されている。
「あーあ。私もサッカーの方がしたかったな」
「仕方ありませんよ。一組と二組を合計しても、今日出席している女生徒は十一人しかいないのですから。フットサルをするにしても、コートが広すぎますし。体力が持ちません」
「だよねえ。それにしても。お兄ちゃんはやっぱりキーパーやらされてるんだね。昔っから得意だったから仕方ないか」
言いながら、静香は校舎側のコートを見つめていた。
場面変わって再び男子のサッカー。開始から二十分も絶たない内に、点差は二桁にまで広がっていた。もっとはっきり言ってしまえば十三対二。もはやサッカーの点数ではない、乱打戦ならぬ乱蹴戦。二組は、ボールが武猪や小山に渡らないように必死。一組はその二人にパスを通そうと必死になっている。実を言うのなら、ボールがコートの中頃にある間は両クラスとも中々いい勝負をしているのだ。この点差の理由は、何も武猪、小山の〝タケヤマ〟ツートップだけに因るものではない。
「やばっ。行ったぞ、錬!」
二組在籍のサッカー部員天谷に抜かれた悠真が錬に向かって叫ぶ。それを受け、一組のキーパー錬が、新妙な面持ちで待ち構える。
「こっからなら、流石に入んだろ!」
言って、天谷は振り子のようにして足を振り上げ、ボールを蹴り飛ばした。紙一重でクロスバーの下を通過しそうになったそれを、凄まじい反応速度で跳び上がった錬がしっかりと受け止める。
「おっと、残念でしたあ」
愉快そうに笑っている錬が言う。
「錬、ナイスセーブ!」
ほっとした悠真が叫ぶ。
一方、ゴールの決まらなかった天谷は、
「くっそお! なんで今のが捕れるんだ!?」
と、地団駄を踏んで悔しがる。そんな彼に向って悠真が吠える。
「俺が抜かれたら錬がボールを捕る。錬がゴール決められたら俺が点を取る。つまり、俺たちが揃ってる時点で一組の勝ちは決定してんだよ!」
「え? 俺も結構活躍してなかったっけ? 何故に蚊帳の外? っつか、仮にも運動系の部で部長やってる俺の立場は?」
勝っている側である一組の小山までもが――とりあえず一度は悠真に調子を合わせながらも――不服そうにぼやく。
「そんなこと言ったら、渾身のシュートをあっさり帰宅部に捕られたサッカー部の俺はどうなるんだよ」
天谷は小山よりも更に不服そうに頬を膨らませた。次の瞬間、その顔は戦慄に染まる。彼より刹那ばかり早く異変を感じ取ったのは悠真、静香、ハルの三人だった。彼らの視線が――やや遅れて錬を除く生徒たち及び、ジャージ姿の体育教師・杉山(♂)の視線が――グラウンドの一角に集まった。
ゆらりと。陽炎のように空間が歪む。その歪みから、六本の脚を持つ、六足歩行の獣が現れた。否。昆虫でもあるまいに、六本脚の獣などいるはずもない。実際に現れたのは、スペインの闘牛の如く逞しい角と、羊さながらの体毛に覆われた胴と、猪よろしくに短く毛むくじゃらの脚を持った、悠に二メートルを超す体高の怪物、霊魔であった。
「■■■■ォォォオオオォォァァァァァ!!」
「ああっ!」「う、ぐグッっ!!」
爆音とさえ言える雄叫びを撒き散らす霊魔。悠真、静香、ハル、加えて、そもそもその咆哮が聞こえない錬の四人以外は、堪え切れず両耳を手で塞ぐ。それでもなお鼓膜を破こうとせん勢いの音が飛び交う。
「どうなってんだよ、くそっ! ついこないだ第三室(隣り)に出たばっかじゃねーか! しゃあねえ、こいつも俺がブッ倒して……」
「ダメ、悠!!」勢いに任せて霊魔に特攻を仕掛けようとした悠真を、静香が諌める。「アンクルしてること忘れてるの!? それ付けたまんまじゃ、空も飛べないし『攻霊』も使えないでしょ!? それでなくとも力が大幅に制限されてるのに……。戦うなんて無茶だよ!」
その声に、駆け出し掛けた悠真の足がピタッと止まる。
「うっ。そ、そうか、焦り過ぎて忘れてたぜ」
「ふうっ、じゃあ、まずは急いでアンクルの鍵を外して」
静香の落ち着いた指示が飛ぶ。そう、悠真の嵌めているアンクルリストを外すには鍵が必要となる。あまり容易に着脱可能だと危険なのだ。ふとした偶然で外れてしまうかもしれない制御弁では意味がない。一定以上の腕力を持つ、或いは攻撃的な霊渉を持つ霊渉戦士が、体育の授業という、最も動きが激しく、且つ気持ちが昂ぶり易い時間に制御用アンクルリストを嵌めることが義務化されたのには、そういった背景もある。二年と少し前にこのアンクルが発明されるまでは、体育の授業には参加すらさせてもらえないのが霊渉戦士だった。
無論、このような非常時に際して、鍵は常に携帯しておくべきなのだが、悠真はただ焦りの表情を見せるだけで、一向に鍵を取り出そうとしない。それもそのはずで。
「鍵、教室に置いて来ちまった」
「なんで!? あれぐらい、いつもポケットに入れときなよ!」
「いや、それで失くしたらマズいと思って……」
「今みたいな状況の方がずっとマズいでしょ!?」呆れやら怒りやらで混濁した感情。だが今は言い争っている場合などではないと、すぐに思い直した静香は、何とか頭を落ち着ける。「とにかく私が『静霊』で動きを止めるから、その間に、誰かに鍵を取って来てもらうしかないよ」
「悪い、静香、頼む! 俺も出来る限りのフォローはするから」
「任せて。でも、霊渉なしで無茶はしないでね」
「分かってる」
言って、悠真と静香がともに走り出す。静香はグローブを外しながら。
脚にもアンクルを嵌めているとはいえ、先に霊魔との距離を縮め切ったのはやはり悠真。
「おい! こっち向け、デカイの!」
悠真の命令を聞いたというわけではなかろうが、彼の声に反応した霊魔が悠真の方に顔を向ける。荒々しい鼻息が悠真の髪をそよがせる。その隙、一瞬の隙を突いて、悠真よりやや遅れて霊魔の背後を取った静香が、巨大な脚の一本に両手を当てて唱える。
「『静霊』」
途端、彼女の左手が淡く青く輝く。同時に霊魔の鼻息や叫び声、動きそのものがピタリと静止する。博物館に飾られた剥製のように、寸分も動かなくなる。
「先生、今の内に俺のアンクルを外す鍵を。教室に置いてますんで!」
「わ、わかった」
生徒に指示される形となった杉山が走り出す。「皆も、念のためシェルターに避難して! お兄ちゃんとハルも早く!」
「お、おう」
「了解しました」
静香に従い、錬やハル、その他の生徒たちも一斉に駆け出す。グラウンドの端に真っ先に辿り着いた杉山は、どういうわけかそこで動きを止める。
「先生、何やってんすか? 早く鍵を」
イラつきを含む声で悠真が急かすが、杉山はそれ以上遠くへ行こうとせず、言う。
「それが……なんかここに、見えない壁みたいなもんがあって、これ以上進めないんだ」
「なっ!! まさか「〝域〟!?」」
エリアという三文字を、悠真と静香がハモらせる。
霊渉のような特殊能力を持つのは、何も人間の霊渉者だけではない。霊魔にも特殊な能力を持つ個体は存在するのだ。〝域〟、〝自爆〟、〝誘等。それらの能力は霊渉に対して『霊撃』と呼ばれる。その内〝域〟とは、一定の空間を見えない壁で覆って外界と遮断する、いわば結界である。
「しかし、〝域〟の霊撃ってことは、ひょっとすると、さっきまでのコイツの雄叫びも俺たちの声も、この外側にまでは漏れてないってことか?」
それはつまり。今すぐには助けなど来ないということを意味する。
「ね、ねえ、悠。今思い出したんだけど、私の『静霊』って、霊撃も使えなくなるはずなんだよね……」静香は顔面を蒼白にして、震えた声で言葉を続ける。「じゃあ、どうして〝域〟の効果が残ったまんまなの……?」
その発言は疑問形であったが、解答など、彼女自身にも明白であった。
「ま、さか」
悠真が言うが早いか。グラウンドの、先程とは別の一角の空間が歪む。そこから、アイアイを思わせるが出鱈目な箇所に目が五つ散乱している顔と、オランウータンの如き肢体を持つ霊魔が姿を現した。大きさとしては、現在、静香が動きを封じている個体とほぼ同等。
「マジかよ、ったく!」
迷う暇も見せず、悠真は、新たに出現した霊魔に突進し、素の拳を振りかざす。しかし、霊渉もなく、素の身体能力さえも半分以下となっている悠真は、その拳を霊魔の身体に当てることすら叶わずに、霊魔が軽く振り上げた右腕に軽々と吹き飛ばされる。
「「「悠」真」さん!」
静香、錬、ハルが、それぞれの呼び方で同時に悠真の名を叫ぶ。錬とハルは走るのを中断して振り返っている。
「心配すんなって。大丈夫だ」ギリギリのところで受け身を取った悠真は、ゆっくりと姿勢を立て直しながら言う。彼の口元からは一筋の血が流れていた。「誰か〝外〟の奴が気付くまで時間稼ぐしかないな、こりゃ」口元の血を手で拭い、再び構えを取った悠真が言う。
「無茶だ! 殺されちまう! そんな状態のまま一人で戦うぐらいなら俺も!」
「そ、そうだ! 俺も……!」「俺だって!」
最初に小山が、彼に続いて他の者たちも次々と。逃げ足を震える勇み足に変えて、方向転換しようとする男子連中。〝域〟の端に向かっていたはずの、或いは既に到着していた男たちの半数以上が、咆哮する霊魔に向かって駆け出そうとしている(その中に星名錬の姿はない)。
そんな彼らに悠真は、
「ダメだ。そんなことしたら、お前らが先に殺される。どうしてもやりたいんなら、せめて俺が死んでからにしてくれ」
静かな口調ではありながらも、絶対に逆らえないほどの威圧感を湛えて言い放った。その剣幕に霊魔以上の恐ろしさを覚え、高揚感で一瞬だけ膨らんだ男たちの勇気もしぼみ、彼らはすごすごと、再び逃げに転ずる。この一連のやり取りを、錬は耳で聞いているだけであった――彼は唇を強く噛みしめながらも、走り続けていた。
「■■■■■ァァッァォォァァァ!!」
絶叫と呼んでも間違いない声を上げて、猿似の霊魔は逃げる生徒たちを追いかけ始める。
「おいこら、そこのエテ公。俺はまだピンピンしてるぞ。鬼ごっこしたいなら、俺をどうにかしてからにしやがれ!」
悠真の挑発を挑発と理解したのかどうかは定かではないが、苛立たしげに振り返った霊魔は確実に彼を睨みつけている。完全に標的は変わった。
「■■■■■ァアアアアアオオオオォォォ!!」
現れてから今までで最も大きな唸り声を上げながら、四足走行で霊魔が突進を開始する。対して仁王立ちの悠真。彼らの距離は一瞬の内に縮まる。ヒトのように二本足で立ち上がった霊魔が、両の手を拳にしてくっ付け、巨大な槌のようにして悠真を叩き潰そうとする。が、悠真はそれを間一髪のところで横っ跳びしてかわす。
(注意を惹いては攻撃をかわすの繰り返し。……五分も持てば万々歳か)
流石の悠真も、冷や汗を垂らしていた。
一方、錬とハルはもうじきグラウンドの端、同時に〝域〟の端でもある場所に到達するところであった。先に動きを止めたのはハル。不可視の壁に邪魔され、それ以上進めなくなる。
そして星名錬は――止まらなかった。
「え?」「あ?」
錬は、明らかに〝域〟の範囲を超えているのに、まだ自分が走り続けられていることに気付く。そしてハルも、静香も、その他にも何人か。錬が〝域〟を超えていることに気が付く。
「な、なんで……?(なんでだ? 僕の通ったところだけ穴でも空いてたのか? そんなわけないよな)」
わけが分からず混乱してしまう錬。〝域〟内に取り残されている生徒たち(足すことの杉山)の間にも、どよめきが起こる。
「どうした? 何かあっ……うおっと!」
霊魔の猛攻をかわすのに必死で、錬のいる方向を向くことも出来ない悠真も、そのどよめきから異変を知り、特に誰に向けてと言うわけでもなく訊ねる。
「お、お兄ちゃんが……〝域〟から出られちゃった……」
「は、はぁ!? おい、錬! マジか!? っとと!」
当然、状況を把握した悠真も、驚きを隠せないままに叫ぶ。震えた声で錬が答える。
「あ、ああ。マジだよ……。わけが分からない。なんで、僕だけ」本人も分からない。誰にも分からない。何故、錬にだけ〝域〟が通用しないのか。だが、今彼が為すべきことは誰もが分かっていた。勿論、錬自身にも。「と、とにかく! 僕が鍵を取ってくる!」
悠真の返事も聞かない内に、錬は校舎に向かって走り出した。直後、
「ぐあっ!」
という悠真の声が錬の耳に届く。
「きゃあっ!」「うわっ」
という声も次々に。
思わず錬は足を止めそうになるが、そんな彼の耳にまたも悠真の声。
「俺はまだ大丈夫だ。だから、急いでくれ。大丈夫じゃなくなる前に!」
「よ、よしっ。わかった! 待ってろ!」
錬は再び走り出す。校内で悠真に次ぐ俊足で。悠真とは比較にならない鈍足で。
『ガララッ!』
乱雑に職員室の扉が開き、体操服姿の錬が駆け込んでくる。
「星名? なんだお前、靴も履いたままで! 第一まだ授業中だろう?」
真っ先に錬を見咎めたのは、彼の担任教師。職員室内にいた他の教職員たちもざわめきだって錬に言葉を浴びせるが、その一切を無視し、彼は自分の教室の扉を開ける鍵を、鍵箱から漁る。目的物を見つけた彼はそれを掴み、ただ一言大声で、
「霊魔です!!」
とだけ叫んで職員室を後にした。その後の教職員たちの動揺は語るまでもない。
階段を駆け上がり、自分の教室の前にやって来た錬が、鍵穴に鍵を差し込もうとする。しかし焦るあまり、そんな簡単なことが中々出来ない。
「ちくしょう、落ち着け、落ち着け!」
がたがたと震える右手を左手で押さえながら、ようやく鍵を差し込み、それを時計回りに九〇度。『カチャッ』という小さな音を聞き、錬は扉を開いた。そのまま悠真の机へ向かう。幸いにも件の鍵は、脱ぎ散らかされたブラウスの上にポツンと置いてあり、錬もすぐ見つけることが出来た(悠馬のつけている四つのアンクルはすべて同じ鍵穴)。彼はそれを引っ掴んで教室を出る。教室の鍵を扉に差し込んだまま。
その頃、廊下はパニック状態の生徒たちでひしめき合っていた。
「ちょっと、皆、頼むから道開けてくれ! 悠真に届けなきゃいけないもんがあるんだ!」
普段なら黄門さまの印篭の如き効果を発揮する〝悠真〟の名も、阿鼻叫喚に掻き消されてしまう今はまるで無意味。仕方なく錬は、男も女も関係なく押し飛ばしながら、親友の待つ外へと駆ける。その間も、悠真の名を出す声をあげながら。
「ゆ、悠……」
「なんだよ、そんな情けねえ声出すなって。まだまだ俺は、はぁっ、余裕だ、はぁっ」
グラウンドでは、息を切らしながらもなお一向に退く気を見せない悠真が立っていた。白い体操服は内側から、あちらこちらが赤く滲み、浸透し、ズボンの隙間からはぼたぼたと血が垂れている。一方、まるで無傷の霊魔は勝ち誇った態度で雄叫びを上げ続けている。
「■■■■■ェアァェェェアアゥウ!!」
「このサルもどきが、調子に乗りやがって。錬が戻ってきたらメッタメタにしてやる(それまで俺がもったらの話だけどな……)」
若干古めかしいフレーズで強がる悠真。実際には気を抜けば地面に膝を着いてしまいそうなほどに体力を磨耗している。出血量も多い。もはや寸刻の猶予も命取りになる状況下に、
「おーい! 持って来たぞ!」
誰もが待っていた男が間に合った。
「錬! 良かった……。さあ、早くそっからそいつをぶん投げてくれ!」
「よし、行くぞ!」
言われた通り、錬は持っていた鍵を思い切り投げた。四十メートルと少しの距離を、レーザービームの如く、ほぼ水平に飛んで行く鍵。
霊魔それ自体が人体以外の物質に触れられないのと同様、『霊撃』が干渉出来るのも人体のみである。よって、錬が放り投げた鍵は当然〝域〟に容易く侵入する。未だ油断しているのか咆哮を続ける霊魔は、そのことに気付きもしない。気付かぬまま、悠真が鍵を受け止めた。
「よくやった錬。昔からお前はやる男だと思ってたよ。中学に入学したあの日もお前は……」
「アホなこと言ってないでさっさとアンクル外せ!」
叫びながら錬は再び〝域〟内に侵入し、ハルの隣に立つ。
「って、どうしてまたここに? 鍵だけ渡してアナタは逃げればよかったじゃないですか」
「ここで逃げ出すような奴が十云年も悠真と親友やれると思うか? っていうか、そんな真似してみろ。明日から僕のあだ名が絶望的なものになる」
「まあ、それもそうですね。それでは、一緒に見届けましょう。どちら勝つにしても、ちゃんと最後まで」
「どっちが勝つかって……悠真に決まってるじゃないか」
何を当たり前のことを。とでも言いたげな口調で、錬は断言した。
「わたたっ」
「■■ッッッウウグルル!」
その頃。錬に全幅の信頼を寄せられていた悠真は、霊魔が振り下ろした右腕を寸でのところでしゃがみ、かわしていた。両手と左足につけたアンクルは既に外れている。そして今、最後の一つに鍵を差し込みながら彼が一言。
「今更慌ててもちょっと遅かったな」すべてのアンクルが外れ、悠真は本来の力を取り戻す。先ほどまでのような強がりではなく、真に自信に満ちた表情も同時に取り戻す。「さあ、覚悟しろよ。約束どおりのボッコボコタイムだ。あれ? メッタメタだったか? まあいいか、どっちでも同じだ。『攻霊』」
宣言した悠真に、霊魔は右手を拳にして振り下ろす。悠真はそれを、『攻霊』を施した鈍く青く輝く左手で容易く受け止める。否。受け止めただけではなく、決して長くはない爪を喰い込ませる。
「ウウウッ!?」
苦痛に顔を歪ませて腕を引っこめようとする霊魔。しかし、がっしりとざっくりと喰い込んだ悠真の爪はそれを許さない。この霊魔の掌の大きさは、表面積にして平均的な成人男性の五倍近くある。それが拳になったところで悠真の手に収まりきるものではない。だからこそ悠真は、より確かに相手を補足するため、爪を喰い込ませたのだ。
「『攻霊』!」
『霊渉』を重ね掛けされた悠真の右手が眩いばかりの光を放ち出す。左手では相手を補足したまま、その右手で乱打を浴びせ始める。悠真の有する霊渉、『攻霊』。それは、腕力握力脚力その他諸々が超絶的に増加する力(但し、『攻霊』を施した拳は、霊魔と人間以外の三次元物質をすり抜ける)である。
「キ、キキキ、キャキッキキ」
まさに、目にも止まらぬ兆速打撃。それを顔面に受け続ける霊魔は為す術もなく、今はただ情けない鳴き声を上げるしかない。
「すげえ……。おい、飯尾。武猪の右手、しっかり見えるか? 俺には〝何かが動いてる〟ぐらいにしか見えないんだけど」
「俺だってそうだよ。霊魔が勝手に痛がってるようにしか見えねえ」
「久しぶりに見るけど、やっぱり悠って凄い。しかも、昔より何倍も何十倍も強くなってる」
この場には、悠真と霊魔の戦い――どころか、霊渉者と霊魔の戦い自体、生で見るのが初めてだという者も大勢いた。目の前で繰り広げられる、おおよそ現実離れした光景に、霊魔への恐怖心も忘れて見入っている者たちが、今や大半を占めていた。そんな中、過去に何度か悠真の戦闘を目の当たりにしている錬が、心の中でぽつりと呟く。
(やっぱり〝視〟えないや。霊魔も、霊渉使ってる静香と悠真の手も)
現状、錬の目に映っているのは、両腕のない悠真と左手のない静香の姿だけであった。
「体力的にそろそろヤバいからな。最初っから全力で行かせてもらったぜ」
言いながら、霊魔を拘束していた手を離す悠真。顔面中に青痣ができ、目も一つ潰れた霊魔は反撃することもせず、両手で顔を覆いながら仰向けに倒れ込んだ。周囲から歓声が上がる。
「うおぉ! やったぜ、武猪!」「「キャー、武猪クーン!」」「これが俺たちの武猪だ!」「海桜学園、ファイッ、オーッ!」
「おいおい、試合じゃねえんだぞ」
やれやれと。ノリの良すぎる同級生たちに嘆息する悠真だが、満更でもない顔は誰の目にも明白であった。ほんの数分前までは目前の死に恐怖し、絶望に静まり返っていた者たち。悠真の圧倒的な強さが、彼らの絶望を吹き飛ばしたのだ。紛れもなく、今の彼はヒーローだった。
「んじゃ、トドメと行くか」言って、まだのたうち回り続ける霊魔に歩み寄る悠真。「まあ……最後ぐらいは、一瞬で楽に逝け。『攻霊』」
両手の『攻霊』を解除し、右脚にだけ『攻霊』を集中させた悠真は、その脚を振り上げ、霊魔の首に振り落とした。
「ゴフォウ……」
悠真全力のかかと落としをまともに受けた霊魔は、短い断末魔を血飛沫とともに口から噴出して霧散した。その瞬間。
「うわっ!」
と、〝域〟の内壁に背を向けもたれかかっていた一人の男子生徒が、背の方向に倒れて、盛大に尻もちをつく。〝域〟の霊撃を使っていた霊魔が消滅したことで、その効果も同時に消失したのだ。突然背もたれを失くした彼がそうなるのも無理はない。
「なんでだろうな。悠真を応援してたのは間違いないんだけど、ちょっと複雑な気持ちになるんだよな、霊魔が死ぬと。いや、もちろん、死ぬ様子も視えないんだけどさ」
錬にしてみれば、本当にただ何とはなしに言ったつもりの言葉。しかし、それを聞いたハルは大きな衝撃を受けていた。彼女は錬を見つめて目を丸くし、二、三まばたきしてから、
「アナタもですか」
と呟く。蚊の鳴くようなその声は、歓声に掻き消されて錬の耳にまでは届かなかったが。
「ふうっ。っとと」
最後の攻撃を決めた悠真がバランスを崩してへたり込む。受け身を取る暇もなく。はっきりいって、みっともなく。
「悠、大丈夫?」
「ああ、っ痛て。どうも締まらないな」よいしょっと、服に付いた砂を払いながらゆっくりと立ち上がる悠真。涼しそうな顔とは裏腹に、尋常ではない量の汗を流している。「じゃあ、次はそっちだな」
「何言ってるのよぉ! もうふらふらじゃない! 〝域〟もなくなったんだから、助けが来るのを大人しく待ちなさい!」
「わ、わかった、わかったよ」駄々っ子を叱る母親の如き剣幕の静香に、悠真も仕方なく引き下がる。そして、「さてと。じゃあ皆はシェルターに行ってくれ。俺は念のためにここに残っとく」と告げる。
これ以上ここに残っていても、〝錬の戦闘〟はもう見られないなと悟った生徒たちは、大人しくその場を去ろうと歩き出す。ハルと錬は少しだけ迷いを見せたが、結局はその人波に乗って歩き出した。歩き出すはずだった。
「真っ白なはずの体操服が真っ赤じゃないか。ひどくやられたもんだな」
一体いつからそこにいたのか。いや、恐らくは皆が悠真と霊魔の戦いに見入り過ぎて誰も気付けなかっただけなのだろうが。とにかく。スーツ姿の武猪洋祐が、サッカー用ゴールの横に立っていた。
「じ、祖父さん? ちょっと待てよ、幾らなんでも来るのが早すぎねえか!? ってかなんで祖父さんが……。黒谷さんはどうしたんだよ?」
「一度に幾つ質問する気だ、お前は。到着が早かったのは、儂が偶然この近くに寄っていたから。それと、言い忘れていたが、黒谷は余所に異動することになったんだ」
「黒谷さんが異動? マジかよ。そういうことはもっと早く教えろっての」
「餓鬼のように騒ぐな。こっちは最近色々と多忙だったんだ」
とても祖父と孫の会話には聞こえない、恐ろしく辛辣な言葉の応酬。見方を変えれば、これはこれで家庭的な光景と言えなくもない。
「お、おい、あれって」
「ああ、間違いねー……。武猪も『祖父さん』って呼んでるし。本物の武猪洋祐だ!」
主に男子生徒達の声で再びざわめき立つ場。
英雄『武猪洋祐』。歴代最強の霊渉兵士と謳われる彼は、六十路を越えてなお少年にとって憧れの存在であった。その憧れの存在が目の前に実在しているのだから、自然と足も止まるというものである。
「さてと。じゃれ合うのもこの辺にしようか。お前はさっさと静香ちゃんを連れて、走れるだけ走れ。それぐらいの体力は残ってるだろ。というより。残ってないとは言わせん」
「はいはい。言われなくても分かってるよ」
悠真と洋祐。二人はともに、静香が霊魔を拘束しているところへ向かって歩み始める。先に洋祐が。やや遅れて悠真が辿り着く。
「では。せー、ので行くぞ。静香ちゃんも、分かってるな? 儂が『せー』だ」
「了解」
「了解しました」
「せー、」「「の!」」
の! とともに霊魔から手を離す静香。
彼女をお姫様抱っこして駆け出す悠真。
霊魔を垂直方向に蹴り飛ばす洋祐。
宙高く浮かび上がった霊魔が落ちてくるより先に、静香を抱えた悠真は錬とハルの側に辿り着き、静香を降ろした。まずはハルが労いの言葉を掛ける。
「お疲れ様です、二人とも」
「えへへー、ありがと。私は突っ立ってただけだけどね」
「悠真、怪我は大丈夫か?」
「正直言って滅茶苦茶痛いけど、生きてりゃ大丈夫だろ」
ともあれ。仲間の無事を一通り喜び合った錬たちは、視線をグラウンドの中心に向け直す。一体どれほど高く飛ばされたというのか。霊魔はまだ落ちてこない。
その間に、洋祐は静かに呟く。
「『融霊』」
直後、彼の両手は悠真の『攻霊』や静香の『静霊』同様に、青い光を帯び始める。彼はそのまま、霊魔の落下を待つ。蹴り上げられた場所からはやや東にずれ、洋祐の頭上に背中から落ちてきたそれを、彼は両手で受け止めた。
「■■■ヴェェエエエ!!」
井戸の奥から聞こえてくるような叫びを上げる霊魔を、洋祐は、
「重いな。やはり歳か」
と言って、地面に叩きつけた。
「■■■■■ヴァアァァァァ!!」
実際には地面に付かず、やや浮かんだところでうつ伏せになる霊魔。その背の表面は、まるでマグマに落とされた鉄のようにどろりと融けていた。ふかふかの体毛は何ら防御の意味を持っていなかった。それでも、霊魔はすぐさま横転して体制を立て直す。が、立て直したのも束の間。眼前には両腕を突き出した洋祐。彼は霊魔の顔を両手で掴んだ。
「■ヴァア!?」
掴まれた箇所から順に中心に向けて、じゅうじゅうと煙を上げながら融けていく霊魔。やはり痛みは感じるのか、霊魔は必死に洋祐の手を振り払おうともがく。そして、何とか振り払うのに成功した時には顔の面積――いや、頭部の体積の半分近くが融けて霧散していた。両の眼孔も融けて、眼球は球でなくなっている。
「■□ゥウウゥゥウウゥゥッ!!」
恐怖故か。痛み故か。情けなく、子羊のような鳴き声、もとい泣き声を上げてのたうつ霊魔に無言で近付いた洋祐は、その首に手刀を浴びせる。
「■■■□ウヴァエ!?」
それが断末魔となった。霊魔の首は周りからじゅくじゅくと融け、やがてずるりと頭部が胴から外れた。それが地面に落ちるより早く、胴も頭も霧散した。
英雄、武猪洋祐の戦いを生で見られるとあって盛り上がっていた男たちも、一連の光景には言葉を失っていた。悠真は、
「相変わらずおっかない霊渉だ。年端もいかない子どもが見たらトラウマもんだぞ、あれ」
と言って、倒れた。
「おい! 悠真、どうした!?」
「悠!」
「ユーマさん!」
錬たちだけでなく、周りの人間も皆、倒れた悠真を取り囲む。一番近くにいた錬が、彼の上半身を持ち上げると、じわりとした感触を掌に感じた。
「ふむ。血を流し過ぎたようだな」あくまでドライに戦闘(というより虐殺か)を終えた洋祐が、悠真を囲む集団の中に分け入ってくる。「しかしこれぐらいなら、一日病院で寝れば目を覚ますだろう。どっちにせよ、二日三日は入院することになるだろうがな」
「ほ、本当ですか?」
誰かが恐る恐る口にする。経験則からか、洋祐はあっけらかんとしたもので。
「ああ、問題ない。この倍ほどの血を流してようやく『危ない』ってところだ」
と答えた。そんな矢先、車両用の入り口から、グラウンドに一台のバスが入ってくる。車体の上半分が白く、下半分は緑と青のボーダーといったそのバスは、錬や静香にも見覚えのあるものであった。錬は洋祐に訊ねる。
「あれって、軍のバスですよね?」
「そうだ。儂が呼んで待機させておいたんだよ。悠真以外誰も怪我していないのは見れば分かるが、規則というものがあるんでな。戦闘中、戦場にいた人間は、軍人も民間人も病院で検査を受けねばならん。というわけで、今ここにいる者たちは皆あれに乗ってくれ、頼む」
洋祐がそう言うと、わらわらと皆バスに乗り込んでいった。中には、目を輝かせている者もいる。
「錬君、君はそのまま悠真を運んでくれ。校門の前に儂の車が停めてあるから、こいつはそれで軍の病院に連れて行こう。出来れば君にも付き添ってもらいたいんだが……」
「はい、分かりました」
気絶したままの錬を抱きかかえて立ち上がり、錬は力強く返答した。
「ハルと静香ちゃんはどうだ?」
「モチロン、私もついて行きます! 行かせて下さい!」
「ワタシも同行させて下さい」
「では行こう」
こうして。洋祐が先頭を、彼の後ろに悠真を抱えた錬、その両隣りに静香とハルが並び、四人は歩き始めた。バスで運ばれて行く同学年生たち及び杉山とは違う方面へ。