その2
ハルが冬眠に入ったあくる日。ようやく再開された海桜学園の授業であったが、
「ある程度の予想はしてたけどよ。まさかここまでなんてな」
席に座って弁当箱を開けながら、小山がそう言って嘆息するのも無理はない。昼休みに突入した時点で教室には悠真、錬、静香、小山、雪原の五人しかいなかったのだから。それでもこの学級はまだマシな方である。他の教室を覗けば、大抵は二人か三人しかおらず、どころか零というのもあった。
「皆、不安なんだろうね……。学校どころじゃないって感じ」
「仕方ねえよ。ここんところ本当に異常だったし」
弁当を食べながらの小山と雪原の会話は、如実に現在の状況を表していた。局所的な霊魔の異常発生。大和第四室とその界隈は〝狙われた土地〟として世界各地で報道される始末であった。数多の霊魔を葬り去ってきた英雄、武猪洋祐が、この第四室に居を据えているという事実が、大衆の関心を高める潤滑剤となっていた。つまり、霊魔たちの報復が始まったのだと。
「テレビでも雑誌でも新聞までも、勝手なことばっかり吹きやがる。日本の親父とお袋もしつっこくインタビューされまくってるらしいし、祖母ちゃんも寝込んでるそうだ。そりゃ、祖父さんが色々と黒いモン抱えてたことは俺も知ったし、ハルの件だって許せないけどよ。『過去の英雄が呼び込んだ災禍』って見出しはあんまりだろ。何の確証もなしに言い切りやがって」
「ひどいね、これ……」
他クラスの生徒が持っていた大衆雑誌を半ば強引に借りてきて。錬ら三人組は、悠真の席の周りに集まって読んでいた。昼食をとることも忘れて。
「だけど、よく読んでみれば、国内の雑誌は、最終的に矛先を軍全体に向けてる記事がほとんどだよな。実質、大和を牛耳ってるのが軍であることを好く思ってない連中の遠吠えみたいなもんじゃないか? 霊魔や洋祐さんをダシに使っての当てこすりだよ」
「かもな。政治家の奴らですら、俗な週刊誌の記事と同じようなこと言ってるし。ったく、胸糞悪くってかなわねえ」最も身近な身内を侮辱された悠真の苛立ちは激しい。借り物の雑誌でなければ引き裂いていたかもしれないほどであるし、小山と雪原が近付けないでいるのも無理はない。「はあっ。なんか俺、昨日から怒ってばっかりだな。いや、昨日のテンションがまだ継続しちまってるだけか」
そう言いながら悠真が肩を竦めた時。
『――ドクン』
「!?」
錬は右手で自分の胸を押さえ、左手で悠真の机を叩き付けた。突如平衡感覚を奪われて立っていられなくなったが故に、机を支えにせざるを得なかったのだ。
(っ、こんなに早いなんて……!)
「おい、どうした錬?」
「か、顔真っ青だよ? お兄ちゃん、大丈夫?」
錬の突然の行動に驚き、不安がる二人。
「ああ、大丈夫だよ」
「その顔のどこが大丈夫なんだよ。全っ然説得力ねえよ。保健室行った方がいいって」
「大げさだよ、悠真は。でも、一応行っとこうかな。午後の授業がサボれるかもしれないし」
そんな軽口を叩きながら扉へ向かって歩き出した錬の背に、声が掛けられた。
「……あの、じゃあ私が連れて行こうか? 保健委員だし」
小さな弁当箱を片しながら。おずおずとそう言ったのは雪原。義務感の強い彼女としては、おぼつかない足取りで教室を出て行こうとする錬を一人で行かせるわけにいかなかった。
「ありがとう、雪原さん。でも――」
無下に断るのも躊躇われた錬は、大人しく彼女の申し出を受け入れたいとも思ったが、ふと気になって小山の顔を窺った。小山はそれに気付く。気付いてこう言う。
「星名、お前また、なんか変な気の回し方しようとしてないか? 知枝は俺の彼女だけど、所有物じゃねえんだからさあ」
「あー……、うん。分かったよ。余計な節介だった」
「まったく。俺、お前とはまだ三年しか友人やってないけどさ、一つだけハッキリ言えることがあるぜ。お前はいつも、自分じゃない誰かに気を遣い過ぎるんだよ。もう少し自分のために生きてみてもいいんじゃねえか?」
何気ない言葉。小山にとって――本当にただ、思ったことをそのまま言っただけの台詞であったが、錬の胸には深く突き刺さった。ハルに言われたこととはまったく正反対の言葉だったから。
ハルは錬に『アナタは自分の為に生きられて羨ましい』と言った。
小山は錬に『お前は自分の為に生きていない』と言った。
錬は少し思案する。果たしてどちらが自分の本当なのかと。そして結論に辿り着く。自分にとって〝自分の為に生きる〟とは、すなわち〝誰かの為に生きる〟ことなのではないかと。そして、ハルもきっとそうだったのではないか、と。〝自分の為に生きる〟ことと〝自分本位に生きる〟こととは、まったく別物なのだと。
(そうか……。僕とハルの生き方はきっと似ていたんだ。だけど、僕らはあまりにも生きた環境が違い過ぎたから――僕は、悠真や静香のような身内の為に生きることが出来たけど、ハルは不特定多数の誰かの為に生きざるを得なかった。その違いが、ハルの認識を曇らせたんだ)
自分がハルの為に、ハルが自分の為に生きてくれたなら、それはきっとすごくバランスの取れたペアになれたに違いない。今更ながら、錬はそう確信した。何故なら、互いが互いの為に生きることが、そのまま自分が自分の為に生きることになったのだから。お互いがお互いに割れ鍋でもあり、同時に綴蓋でもある、理想的な夫婦になれていたのかもしれない。錬にはそれが共依存だとは思えなかった。いや、思いたくなっただけなのか。
「仮定の話をいつまでもしていたってしょうがないか」
「え、何? 家庭?」
錬が考え込んでいる間に彼の傍にまで歩み寄って来ていた雪原は、彼が突然呟いた言葉をいぶかしんで訊ねた。
「うわっと! ゴメン、ぼーっとしてた。……何でもないよ、独り言だから」
「そうなの? じゃあ、行きましょうか。本当に顔、真っ青だよ」
「うん。頼むよ、雪原さん。あー、それから。ありがとうな、小山。流石はサッカー部。ナイスアシストだった」
「はあ?」
頭の中に幾つものクエスチョンマークを浮かべる小山を尻目に、錬と雪原は教室を出て行った。一瞬の静寂が室内に訪れた後、最初に口を開いたのは悠真だった。
「なんのこっちゃ分からねえけど。とりあえずナイスアシストだ、小山。それでこそサッカー部」
「うん。何のことかわからないけど、ナイスアシストだったよ、小山君。流石サッカー部」
「いや、俺バスケ部だからな。なにこれ? 新手のイジメか?」
「スマン。少なくとも俺は本気で間違えた」
「余計に傷つくわ!」
廊下を歩く錬と雪原。黙ったままでいるのも落ち着かなくなった錬は雪原に話題を振った。
「雪原さんってさ、どうして保健委員になったの?」
「どうしてって……。中学生の頃、ウチに怪我をした野良犬が迷い込んできて、その犬を手当てしてあげたことがあったの。それが切っ掛けと言えば切っ掛けかな。治療って言えるほど大したことじゃなくっても、手当てしてあげることで相手――と言っても、その時は犬だったけど、とにかく喜んでくれるのが嬉しかったんだ。よくある話でしょ?」
「いやあ、今時珍しいと思うけどな。それで、その犬はどうなったんだ?」
「しばらくはそのまま飼っていたんだけど、ある朝、犬小屋を覗いてみたらいなくなっちゃってたの。繋いでいた鎖が脆くなっていたらしくて、逃げちゃったみたい。元々ペットを飼うのに反対だった母さんは『餌代が必要なくなって助かった』とか言ってたっけ。アハハ、ごめんね、こんなオチで。なかなかお話のようにはいかないよね」
言い終えると、雪原は改めてアハハと笑った。よくある物語のように、恩義を感じた犬が恩返しするでもなく、どころか逃げ出したまま帰ってこないという喜劇めいた展開を現実に体験した雪原の自嘲。礼義と言うか当然として、そんな話を聞いた錬も雪原に合わせて笑うべきポイントなのだろう。
しかし、ある事実に気付いてしまった彼の反応は違っていた。錬は言う。
「その犬、多分お母さんがわざと逃がしたんだと思うよ」
コンコンと扉をノックし、
「失礼します」
と一声掛けて、錬を連れた雪原が保健室の中に入った。中では、白衣を身に纏い、下縁がなく台形で細長いレンズの眼鏡を掛け、艶やかなふくらはぎを惜しげもなくさらけ出した艶やかな女性が艶かしく、背もたれのない椅子に座っていた。
「あら、雪原さんと……星名君? どうしたの?」
歳の頃なら三十前半か。掛けた眼鏡のせいか、目つきがやや鋭く見える彼女であったが、女性にしても狭い肩幅の蔭もあって弱々しくも見えた。
「鈴谷先生、星名君が何だかその……」
「いいよ、いいよ。詳しいことは僕が自分で話すから。雪原さんは教室に戻ってくれても大丈夫だよ。ありがとう」
「本当に? じゃあ、その、お大事に。鈴谷先生、お願いします」
「はいはい、後は任せて頂戴な。星名君、こっちにおいでー」
手招く鈴谷の顔は不気味なほど笑顔であった。
「え、ええ」
右足を一歩だけ後退さらせてから、錬は保健室の中へ入っていった。雪原知枝は頭を下げ、来た廊下を戻って行った。ややあって、雪原の足音が完全に聞こえなくなってから、鈴谷は椅子から立ち上がった。向かい合って立てば、彼女の目線は錬のそれよりもほんの少し高い位置にあった。いや、上履きの錬とヒールの鈴谷だ。両方が裸足になれば、流石に錬の方が背は高いだろうが。
「……思ったよりもずーっと早かったのね。それじゃ、行きましょうか」
「はい、行きましょう」
保健室を去った雪原が高校棟三年一組の教室に辿り着き、扉に手を掛けた瞬間――今までにない、猛烈にけたたましいサイレンが響き渡った。驚いた雪原は思わず手を引っ込め、もう一度仕切り直して扉を開いた。他の教室からは生徒たちの騒々しい声が聞こえていたが、悠真たちのいる一組の教室は静かなものであった。サイレンに続く放送を聴き取ろうと、悠真も静香も、小山までもが、神妙な面持ちで耳を澄ませている。雪原もそれに倣った。
『全世界に非常事態宣言が発令されました。霊渉者は軍属、非軍属に問わず、直ちに最寄りの軍作戦部に集合して下さい。人民の方々は皆、すぐさまシェルターへ避難してください。時間がありません。各所で軍の避難用車両が待機していますので、高等部以上の学生は教員の指示を待つ必要はありません。各自で避難してください。繰り返します――』
繰り返しの放送が終わった途端、いよいよ学校のあちらこちらから悲鳴の混じった騒ぎ声が聞こえ始めた。放送中は冷静を保っていた悠真も、突然の事態に焦燥と混乱を隠せなくなる。
「非常事態宣言? しかも全世界に? 何だよ、何が起きたってんだよ!?」
「と、とにかく作戦部に行かないと! 悠、早く!」
「お、おう、そうだな。行こう、静香。……いや、ちょっと待て――」
「そうだ! お兄ちゃん……っ!」
世界の非常事態にも勝る、親友や兄への心配が、悠真と静香の勇み足にブレーキを掛けた。
「星名の様子は俺が見に行くし、場合によっちゃあ俺が避難用車両とやらまで一緒に連れて行く。だからお前らは早く命令に従った方がいい。どう考えたって、只事じゃねえだろっ」
冷静を欠いた悠真たちをなだめたのは小山であった。無論、彼とてこの状況下で完全な落ち着きを払えているわけがない。しかし、雪原の存在が彼を奮い立たせていた。そもそも、元来サボりがちの彼がこんな日に登校したのも、真面目一辺倒で不登校などあり得ない雪原を慮ってのことであったのだ。
「ああ、わかった。そうだよな。こんな時に一番落ち着かなきゃならないのは俺や静香だってのに……。恩に着る。頼んだぜ、小山。行こう、静香」
「で、でも」
「ここに錬が居てもこう言うだろうぜ。『僕のことはいいから早く行け』ってな」
「そう……だね。うん、わかったよ。行こう、悠」
「おう! 緊急事態だし、走って行く暇はない。飛んでくぞ」
「え? ひゃあっ!」
突然静香を抱きかかえた悠真は、そのまま、開いた窓から飛び出した。霊渉者の共通能力である『酉霊』をフルに発動させ、二人はあっという間に点となった。
「速ぇ……。知枝、俺らも行くぞ」
「うん!」
空など飛べるはずもない二人は、親に貰った脚で保健室に向かって駆け出した。
その頃、世界は既に混沌苛烈を極めた状態にあった。幸運と呼ぶべきか、海桜学園の周囲一キロ以内は静かなものであったが、大和だけでも、おぞましい数の霊魔が同時出現していた。
生徒や職員の波に逆らい、小山と雪原が辿り着いた時、保健室は蛻の殻となっていた。
「さっき来たばかりなのに、もう誰もいないなんて」
「鈴谷さんもいないってことは、二人で逃げたってことか。考えてみりゃ当たり前だな。あんな放送があった後、誰かが来るのを待つまで愚図愚図しているはずもないし」
「じゃあ、私たちも早く逃げないと」
「だな。知枝、手」自分も手を差し出しながら、小山はそう促す。彼に応えて伸ばした雪原の手は、小山によって痛いほど強く握られた。「離すなよ」
「あ、うん」
手と手を繋いだ二人は走り出した。カーテンたなびく保健室は開け放たれたまま。




