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花咲くハルに逢う  作者: 直弥
第一章「最後の青春」
2/23

その1

 どこかの世界の、どこかの星の、どこかの島国、大和。『室』と呼称される四十七の行政区分に分けられるこの国の、『第四室』にあたる地の某アパートにて。


 七月十八日、土曜日の朝――第四室のお隣、第三室で戦闘が行われた日の翌々朝。

 安っぽいパイプベッドの上で一人の少年が眠っていた。小さな窓のカーテンのレーンに、制服が一揃え、ハンガーで掛けられている。部屋の半分を占めるベッドの他に室内にあるものと言えば、三段の洋服箪笥に、十七インチの薄型テレビと、一人暮らし用サイズの冷蔵庫。床の上へ直に置かれた炊飯器や電子レンジ。およそ家電家具と呼べる物はそれだけで、あとは、要るのか要らないのか、ゴミなのかそうじゃないのかも分からないような小物が幾つも散乱しているのみ。

 いや、機械類ならもう一つだけある。ベッドのすぐ下に置かれた目覚まし時計である。デジタル式の表示で時を知らせるその目覚まし時計が現在指している時刻は、午前八時十九分五十七秒、八秒、九秒……。

『ピピピピ、ピピピピ』

「あ、あああふうう……」

 聞き慣れた音で目を覚ました少年、星名錬がゆっくりと上半身を起こした。半開きの目のままベッドから降り、最初にしたことは当然、目覚ましを止めること。再び静寂が訪れた部屋の中で、錬は二度寝の欲求をぐっと堪え、洗面台を兼ねるトイレ(風呂と同室)へ向かう。

 冷たい水で顔を洗い、タオルで水気を拭き取った彼の顔は、すっかりしゃっきりしていた。冷蔵庫から牛乳パックを取り出した彼は、それを横に振る。

(んー、これくらいならもう全部飲んじゃった方がいいな)

 と判断して、錬は牛乳パックの口を開き、そこから直接中身を飲み干す。空になったパックを台所の水洗で軽く洗い、ハサミで切り開き、ゴミ箱へと捨てた彼は、思い出したように再びトイレへ入る。そこで歯磨き粉を付けた歯ブラシで歯を磨き、口を三度ゆすいでから出てくる。制服を手に取り、寝間着からそれに着替え、ベッド脇の学生鞄を手に取り、さあ出掛けようとした瞬間、錬は急に猛烈な尿意に襲われた。急いでトイレに入って用を足した彼が、扉を開いて出てきながら呟いた言葉は、

「三度度手間だ」

 であった。

 錬の住むアパートは二階建ての鉄骨造り。両隣は立派な一軒家である。その内の一つは売りに出されており人は住んでいないが、もう片方には仲の良い四人家族が住んでいた。四十路間近の夫婦に、中学一年生の長男と小学一年生の長女。四人とも錬と面識はあるものの、特に親しいという訳ではない。ただ、お隣さんというだけである。そのお隣さんの息子、娘が、この日は、錬が部屋を出たのと丁度同じタイミングで家から出てきた。

「行ってきまーす!」

 元気の良い女の子の声が晴れやかな朝の町に響く。

「……行ってきます……」

 気だるそうな男の子の声が蒸し暑い朝の町に響く。

「ほらほら、しゃきっとして! お兄ちゃん!」

「はいはい。ふわあああ」

 大きな欠伸をしながらもしっかりと妹の手を握っている兄。それなりに仲の良い兄妹の登校風景を間近に見ながら錬は呟いた。

「『お兄ちゃん』、か」

 と。


 部屋を後にした錬は通学路を歩いていた。元気の良いセミの鳴き声が、行き交う人々の耳に障る。土曜日の朝だというのに、町のそちこちを中高生たちが私服で徘徊していた。この国ではすべての中学高校が週休二日制だとか、或いはこの日が実は祝日であるとか、実は既に夏休み突入している、などということはない。

 今この国、いやこの世界はある異変に見舞われていたのだ。

 霊魔。神出鬼没且つ正体不明のこの怪物は、何千年という昔から人類を、人類のみを苦しめていたが、その出現頻度が、約十八年前から急激に増していた。隔月の雑誌が週刊誌になったようなものである。経済的に余裕のある者たちは、少しでも霊魔の脅威から逃れようと、僅かにでも霊魔の出現が少ない国や地域へと流出していった。経済的に余裕のない者は、仕方なく従来の住居に留まっていたが、いつ霊魔に襲われて命を落とすやも知れないという恐怖感からか、真面目に学校へ通う者は少数派となりつつあった。生活のためにどの道〝今〟働くしかない者たちと違い、特に中高生や大学一、二年生――中には就職活動を控えたはずの三年以上の一部までもが、今だけを楽しむために生きていた。

 まるで最後の青春(ひと時)を謳歌しようとするかのように。

 錬もそんな彼らの気持ちを理解はしていたが、それでも、

(折角こんな時間から起きてるんなら、学校ぐらい行けばいいのに)

 と思わずにはいられなかった。ただそれは、優等生的目線からの意見ではなく、

(僕はサボるにサボれないってのに、ずるいんだよ)

 という、かなり無茶を伴う言い分に過ぎなかったのだが。

 そんなこんなで。今だけを楽しむ者たちを尻目に横目に歩いていた連の本当の目に、彼の頭ではおよそ理解し難い光景が飛び込んできた。

「いや、いやいやいやいやいやいやいや」

 錬が思わず唸りながら目を背け、現実逃避しようとしてしまうのも無理はない。彼の目に飛び込んできた光景。それは『制服姿の少女が、齢九十を超えていると思われるお爺さんに背負われている』という光景であった。

 大きく真丸い目に、控え目に小さな口。鼻は少し低めであるが、全体的には整った顔立ちをしている少女。肩より少し下まで伸びた彼女の黒髪は、束ねるでもなく纏めるでもなく、流しっぱなし。

「あ、あのう……そろそろいいですかのう……。そろそろ拙僧の腰が……」

「すみません。あともう少しで目的地だと思いますので、何とか粉骨砕身していただけないでしょうか?」

「本当に粉骨、砕身させる気か!」

 お爺さんのためにも無視出来なくなった事態に、錬が思わず声を上げた。彼に気付いた少女が、老翁の背から訊ねる。

「あら、アナタは? 人間、ですか?」

「見れば分かるだろ。人間だよ」

「そうですか。では、さようなら。ワタシは、制限時間内にどうしても行かなくてはならない場所がありますので」

「いや、君が目的地に着く前に。お爺さんの方は着いちゃいけない所に着いちゃうからな」

 ある意味そこも究極の目的地(ゴール)ではあるのだが、錬にそれを言えるほどの軽口はなかった。

「どうしても行きたい場所があるんなら僕が代わりになるからさ。とりあえずそのお爺さんからは降りてあげなよ。本当にそろそろまずいって!」

「あら、アナタが? それは助かります」

 言って、少女はゆっくりと男の背から降りた。立ちあがってみると、背はやや低め。男の方は腰をトントン、トントントントン、トントントントントントントントン叩き、倒れた。

「おじいさあん!」

 錬の悲痛な叫びが木霊した。


「本当なら君との約束なんか無視して、あの人を病院に連れて行きたかったところだよ」

 一度は倒れたものの、自力ですぐに起き上がった男は錬に礼を言い、『拙僧のことはいいから、娘さんを連れて行って下さらんか?』と申し出た。それがなければ、錬は、先の言葉通りに行動していたことだろう。

「まったく、あんなに良い人に無茶なことさせて。そもそも君、どこも怪我してないじゃないか。どうしておんぶなんかしてもらってたんだよ」

「それは、あのご老人が『背に乗れ』と言ったので」

「本当か?」

 流石にそれはないだろうと思いながらも、『あの人ならそれぐらいのことを言い出していてもおかしくないかもしれない』と無理矢理合点した錬が本題に移る。

「それで、結局どこへ行きたいのさ?」

「海桜学園の高校棟。そこの職員室です」

「なんだ、僕の学校じゃないか。あ。よく見たらそれ、ウチの制服。転入生ってこと?」

「はい、今日から海桜学園所属となります」

「所属って……。っていうか、行き先が学校なら、あのままじゃ結局は時間内に着かなかったんじゃないか? 途中であの人が倒れる倒れないに関係なく、速度的にさ。絶対に遅刻してたと思うんだけど」

「いえ、ワタシの言った〝制限時間〟とは、午前中以内ということでしたので。あのままの歩行速度でも十分許容範囲内でした」

「許容範囲って、許容って……。お爺さんに対する配慮はまるでないのか」

「いいえ、今は猛省しております。さっきはまだ少し寝惚けていたようです」

「ああ、そう……」

 あまりにも浮世離れした少女の言動に、錬は軽く目眩を覚えていた。目眩のついでにもう一つ、おかしなことに気付く。

「そう言えば、これから通おうって学校の場所も把握してなかったのか? 君は」

「それが、どうやら間違った地図情報を渡されていたらしく。それで、ワタシを目的地まで運んでくれる方を探していた次第です」

「オーケー、分かった。じゃあ、これから先は僕がその役目だ。……ん? 運んでくれ? 連れて行ってくれの間違いじゃないの?」

「まあ、そう言えなくもありません」

「そうとしか言えないだろ。あれ? ちょっと待ってよ……。まさか、さっきの人にも今みたいに〝運んでくれ〟って言ったの?」

「はい。そう記憶していますが」

(お爺さん……)

 錬はちょっとだけ涙ぐんだ。


 果たして学園に辿り着いた二人は、一階、職員室の前で別れた。

「それじゃあ、ここでいいんだよね?」

「はい、大変手間をお掛けしました。ありがとうございます」

 最後にそう言って、少女は職員室へと消えて行った。

「うーん。天然が激しすぎるってだけで、根は良い子なんだよな。きっと」

 錬は頭を掻きながら身を翻し、自分の教室のある三階へと向かった。


「あ、おはよう、星名くん。今日はいつもより遅いね」

 教室に入った錬に真っ先に気付き、挨拶をしたのは、短髪の少女であった。錬も挨拶を返すために彼女の方を向く。そして、彼女の隣が空席であることに目がとまる。

「おはよう、雪原さん。今朝はちょっと色々あって……。小山はまだ来てないの?」

「うん。今日はもう、来ないかもしれない」

「そっか」

 それ以上は何も言わず、錬は自分の席に着いた。小山という生徒が休むことは別段珍しいことではない。完全な不登校にはならなくとも、出席日数ギリギリしか登校してこない者は、現在の状況ではむしろ多数派なのだ。今年度に入って欠席回数がゼロなのは、この雪原という女性と錬ぐらいのものである。もっとも、悠真に関しては欠席の原因の十割が公欠であるが。

「そう言えば、武猪くんも昨日休んでたね。一昨日の霊魔との戦闘で軽い怪我したって言ってたけど、本当に軽い怪我だったの?」

「ああ、それは大丈夫だったよ。昨日の欠席はあくまで事後処理の関係で、怪我そのものとは関係ないらしいから。今日はちゃんと登校してくるはず」

 と、錬が言い切るよりも早く、ガラガラと教室前方の扉を開けて件の人物が入って来た。

「おーっす、一日振りだな。野郎ども」

 瞬間、錬と雪原を除く教室中の生徒たち――といってもたかだか十一人だが――が悠真を囲って、あれやこれやと質問攻めをし出した。当然、一昨日の戦闘に関することで。

「大変だね、武猪くんも」

「もう慣れてるだろうけどね(僕も慣れてるし)」

小、中、高校と、ずっと悠真と同じクラスであった錬も、幼なじみが注目の的になるのを遠くから眺めているのには慣れていた。慣れている。少なくとも本人はそう思っていた。

「ふうっ。やーっと解放されたぜ。よう錬、元気だったか?」

 クラスメイトたちからようやく解放された悠真が、自分の席に着きながら錬に声を掛ける。その頃、雪原は既に他の女生徒と喋り出していた。

「お陰様で元気だよ。でも本当に最近多いよな、霊魔」

「確かになあ。第四室の霊渉者は俺と黒谷さんだけだし、まったく、身が持たねーよ」

 悠真はやれやれと溜息を吐いてそう漏らすが、実際にはそれほど嫌がっていないのが表情に表れていた。霊魔は彼にとっても憎むべき存在であるが、霊魔との戦いそれ自体は決して嫌いではないのだ。そしてそれは錬もよく知っていた。


 朝の談笑時間がゆるりと流れ、ホーム・ルーム開始のチャイムが鳴り始める。鳴り終わらない内に、担任の桐原が、錬たちの教室へと入って来た。彼の後ろからは一人の少女が付いて来ている。錬にとって見覚えのある少女、今朝出会ったばかりの少女が。

「ぬうぇ?」

 頓狂な声を出した錬に、

「どうした錬。もしかして、ハルのこと知ってるのか?」

悠真が訊ねる。錬はその質問に答えつつ、

「いや、知り合いというかなんというか。っていうか、ハル? 悠真、お前こそあの子と知り合いだったのか?」

 自身も質問で返した。

「あー、知り合いっつっても、俺だって昨日会ったばっかりだけどな。祖父さんが連れて来た子でさ。何だかよくわからんが、昨日から俺ん()で一緒に住んでんだよ。だいぶ変わってる奴なんだが」

「一緒にって……。じゃあなんで今朝は一人で――」

「星名、転入生の紹介があるから。ちょっと静かにしてくれないか」

「あ、すみません」

 桐原に言葉を遮られた錬は、仕方なく黙る。

「さあ、自己紹介してくれるかな」

 桐原に促された少女が教壇に上がり、深々とお辞儀し、言葉を発する。

九泉(くいずみ)ハルと申します。本日付けで皆さんのクラスに配属されることになりました。以後よろしくお願いします」

 男連中から歓声が起こるでもなく、ただ教室はシンと静まり返った。

「な、変わってるだろ?」

「ああ、よく知ってる」

 これからのことを思い、錬は重い頭を抱えた。


 一時間目、世界地理。担当は壮年の女性教師、工藤。彼女は黒板に文字や図を掻きながら授業を進めていた。

「――で、『大和』のすぐ上に位置する大陸の二割近くが『ナルナ』という国の領地というわけですけれど、その国土面積は大和の約三十倍です。人口は約四倍で、一億八千万人ほどですが、その内〝霊渉者〟は一八一四人! つまり、十万人に一人が霊渉者ということになりますね。世界的に見てもこれは驚異的な数値です。霊渉者の数に反比例するかのように霊魔の襲撃が少ないことから、この国の霊渉者は必ずしも兵士になることを強要されません。一般人と同様の暮らしを送っている霊渉者も少なからず存在します。で、いざ兵士になると、海外の部隊へ応援として送られることがほとんどです」

 詰まることなくすらすらと、むしろ、さらさらと進められるその授業を、まるで心地よい子守唄代わりにでもしているかのような態度で、悠真は気持良さそうに眠っていた(川原崎の授業でもないというのに)。――もし眠っているのが彼でなければ、工藤はその生徒を発見次第叩き起こしていただろう。言い換えれば、悠真だからこそ起こされない。

 この『大和』という国において、霊渉者は、ただ〝霊渉者である〟という理由だけで、命懸けの戦いを余儀なくされる存在である。そして武猪悠真は霊渉者。そんな彼を、居眠り程度で咎める教師はいない。咎めようと思う教師もいない。もとい、咎められる教師はいない。まして悠真は一昨日に戦闘を行ったばかりで、昨日もその事後処理に追われていた人間。たとえ同級生であっても、親友でもない限り起こせるはずがない……のだが。

「ユーマさん。今は授業中です、起きていた方がよろしいのでは?」

 と、少女の小さな声。続いて、

「ん……ふああ、ああ。また寝ちまってたのか。起こしてくれてサンキュー、ハル」

と、少年の声。

 授業中にもかかわらず、教室中に小さなざわめきとどよめきが起こりつつあった。『九泉さんって、ひょっとして武猪君のこと知らないの?』『うわ、星名以外で武猪を起こす奴なんて初めて見た』『やはり天然か』『きいいっ! 私の武猪クンに!』などと、ヒソヒソと(若干一名、今にも叫びそうな女生徒もいるが)。

「礼には及びません。それでは、これ以上の私語は慎みましょう」

「了解」

 両手で頬を軽く叩いて気合いを入れ直した悠真が教室の前方を向くと、唖然とした顔をしている工藤と目が合った。

「……で、ああ、そうそう! ナルナの話だったわね。えーっと――」

 悠真と目が合った瞬間に我に返った工藤は慌てふためきながら、再び黒板に向き直った。

 ただ寝ている生徒を注意して起こすという、授業中の風景としてはありふれた一事でも、その対象が悠真であるというだけで、これほど異常な雰囲気が作り出されてしまうのだ。

 果たしてその時、錬は――勢いよく上半身を起こした悠真にぶつけられた椅子のせいで、俯き、額をさすっていた。

(痛い……)

 

 ――その日最初の休み時間。

「ユーマさん、質問があるのですが」

 一時間目の授業が終わるなり自分の席を立ったハルが、悠真のところへ歩いてきて、突然彼に質問をぶつけた。

「ん? どした?」

「その方とユーマさんはお知り合いなのですか?」

「へ?」

 ハルに指差された錬がキョトンとした顔をする。悠真は構わずハルの質問に答える。

「ああ、コイツが昨日話した『錬』だよ」

「なんと。彼がそうだったのですか。不思議な縁もあるものですね」

 言って、ハルはまじまじと錬の顔を見つめ始める。吐息がかかる程の距離まで顔と顔を近づけられた錬は、身動きを取れずに、ただ顔を赤らめた。言うまでもなく、彼は照れていた。

「ハル、お前どこでコイツと知り合ったんだ?」

 錬の心境に気付けない悠真はマイペースにハルに訊ねる。同じくハルもマイペースに答える。

「ワタシが登庁中、道に迷ってしまいまして。レンさんに道案内をしてもらったのです」

「学校の場合は登庁じゃなくて登校な。つーか、道に迷ったってなんだよ。一人でも大丈夫だって言うから、俺も安心して寝てたのに」

「いや、そこは一応送ってやれよ」

 もっともなことを言った錬に、悠真が反論を試みる。

「いやいや、朝はなるべく睡眠を摂らないと、授業中眠くなってしょうがないんだよ。俺、基本的には夜行性だし」

「お前は吸血鬼か」

「イメージとしてはゾンビの方が近いかと」

「ひどくねえか?」

 悠真の試みは失敗に終わった。


 時間は流れ、三時間目の授業が終了した。結局どの授業でも各々十分以上の睡眠を摂った悠真は、ここにきてようやくしっかりと目を覚ましていた。

「おしっ! 錬、帰るぞ!」

 この日は土曜日、授業は午前中で終了。悠真はいそいそと帰り支度を始めていたが、

「まだ掃除が残ってるだろ」

 との親友の一言で、とぼとぼと机を下げ始めた。

 

 清掃の時間。転入生ハルは教室の分担を割り当てられ、同じく教室担当の錬とともに箒を手に持っていた。が、手に持っただけで床のゴミや埃を掃こうとはしない。ただ突っ立っているだけであった。どうしたことかと、錬が彼女に声を掛ける。

「あのー、九泉さん?」

「…………はっ。すみません、少しぼーっとしていました」

 我に返ったハルの取り繕ったような返事に、錬はますます不安を覚え、訊ねる。

「具合でも悪いのか?」

「いいえ、ただ……何故だか懐かしい気持ちになりまして」

「懐かしいって、箒が? こんなの別にどこにでもあるだろ」

 ハルと錬が手に持った箒は、形状として何の特殊性もない、どこにでもあるごく一般的なもの。学校を卒業して久しく、箒を使った原始的な掃除など云年振りという人間にとっては確かに『懐かしい』と言えなくもないかもしれないが、現役高校生の台詞としては少し不適切にも思える。

 深く追求しちゃいけないことなのか? と危惧した錬は、それ以上の言葉に迷う。そんな彼にハルが言う。

「いいえ、ワタシが懐かしいと言ったのは清掃具のことではなく……」

 彼女の視線は真っ直ぐに錬を捉えていた。

「って、いやいや、どうして僕を見るんだよ。今日会ったばかりの相手に『懐かしい』はおかしいだろ?」

「それはそうなんですけれど。どういうことでしょうか。アナタは間違いなく、この時代の人間なんですよね?」

「え? そりゃ、今現在生きてるんだから、この時代の人間ってことでいいはずだけど」

 ハルの言いたいことがいまいち理解できない錬は当惑する。彼女がかなり変わった人物であることは先刻承知の彼であったが、この時ばかりは一種の不気味さすら覚えていた。

「そう、ですよね。失礼しました。おかしなことを聞いてしまったようですね」

「別に謝るようなことでもないけど、本当に大丈夫?」

「ええ、問題ありません。それでは、清掃を開始します」

 何事もなかったかのように、ハルは掃除を始めた。とても手慣れた様子で。無駄のない洗練された動きで塵を掃く彼女の姿に、錬は優雅さすら覚えていた。

「九泉さん、箒似合うな」

「アナタは失礼です」

「なんかスマン」

 とりあえず頭は下げながらも、ますますもってハルという人物の扱い、その線引きが分からなくなった錬であった。

 

「ったく、何で小山の奴は休みなんだよ。一人でトイレ掃除なんて……寂しいじゃねーか」

「何を気持ち悪いこと口走ってるんだよ」 

 冗談混じりの愚痴をこぼしながら教室に戻ってきた悠真に、既に元の位置に戻された席に座っていた錬が辛辣な言葉を浴びせる。と言っても、こんなやり取りは二人にとってはいつも通りのコミニュケーションの範疇。さらりと流した悠真は次の言葉を口にする。

「よぉ、錬。今度こそ帰ろうぜ!」

「まだ終礼が残ってるだろ。っていうか、お前はどんだけ早く帰りたいんだよ」

「何だよ錬、もしかして知らないのか? 今日は駅前の『カンフー』で新メニュー『ワンタンバーガー』が先行販売される日だぜ?」

 カンフー。それは全世界にチェーン展開するファーストフード店『カンフー・バーガ―』の略称。発祥は大和の隣国、ナルナ。

 ちなみに。メニューの性質上、ファーストフードの店にしては少しお高い。

「本当にお前って食い物に関してはやたらミーハーだよな」

「いいじゃねーか、別に。お前も行くだろ?」

「聞く必要もないだろ」

錬と悠真。二人の土曜日の昼食はカンフーと決まっている。わざわざ確認を取るまでもなく。

「よし、それでこそ錬だ。で、お前はどうする?」

「……? ワタシですか?」

 明らかに自分に向けられた言葉であったにも関わらず、一応というか確認のために辺りを見渡したハルは、他に誰も反応していないことを確かめてから返答した。

「他に誰がいるんだよ。どうせ今家に帰っても誰もいないし、一緒に食って行こうぜ。お前もそれでいいよな、錬?」

「僕は構わないよ」

「では、ワタシもご相伴に預かりましょう」

「相伴じゃなくて同伴だろ? 召使いじゃあるまいし」嘆息しつつ悠真は続ける。「ま、とにかく。これで決まったな。さあ、帰ろうぜ」

「終礼がまだだ、っつってんだろうが!!」

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