その1
時計の針が八時を指そうという頃になって、錬はようやく自宅の前まで帰って来ていた。鍵の掛かっていない扉をゆっくりと開けながら彼は言った。
「ただいま」
と。抑揚も精気もない、消え入るようなか細い声で。
ベッドに背中を預け、うとうとと浅い眠りに入っていた錬の妹は、扉が開かれた音で目を覚ました。兄と時計を順に一瞥して、この状況に最も合った言葉を紡いだ。
「おかえりなさい、お兄ちゃん」
誰の目にも瞭然な、取り繕った静香の笑顔は錬をますますみじめな思いにさせた。が、それ以上に。妹にそんな顔をさせている一因が自分にあるのだということが情けなく、錬は表面上の元気を取り戻した。
「飯はもう食ったのか? ……食ったみたいだな」
錬は、水に浸かった食器が流し台に積まれているのを見つけた。彼自身、持っていたことを忘れていたような、底の深い大皿。コップ。スプーン。いずれも二つずつ。そして、よくよく鼻を利かせれば、カレーの匂いが室内にまだ残っていることにも気付いた。
「一応、お兄ちゃんの分も残しておいたんだけど、食べる? あ、でも流石にもう外で済ませてきたよね? こんな時間だし」
「いや、まだだよ。貰おうかな」
「あ、うん。じゃあ今から温めるから、お兄ちゃんは座って待ってて」
「おう」
『…………』
「旨い。これ、静香が自分で作ったのか?」
「そ、そうだよ。ほんと? 本当においしい? 無理してない?」
「本当にうまいよ。でもこの飯はまさか」
「ナシゴレンだけど?」
何か? とでも言いたげなおすまし顔の静香。
「お前はまだナシゴレン好きだったのかよ。いや、お前が好きなのはいいんだけどさ……カレーライスにナシゴレンってのは……。うまいよ? うまいんだけど、カレーより手間掛かってないか? これ」
「確かに時間は掛かったけれど、妥協は出来なかったから。それに、料理している間は他に何にも考えなくって済むし」
一切の手抜きも妥協もなしに作られたナシゴレンは、カレーライスの主役であるはずのカレーそのものよりも遥かに上等な料理となっていた。カレーを掛けてしまうのが躊躇われるぐらいの出来。静香の並々ならぬこだわりが込められていた。
「食わせてもらう側としちゃ、旨いに越したことはないけどな。知らない内に料理まで上手くなってたんだな。これならいつでも嫁に行けるぞ。ちょっと寂しい感じもするけど」
「え……大げさだなあ。というより、そういうのって普通お父さんの言うことじゃないの?」
「兄妹なんて、歳の近い親子みたいなもんだろ。これが男同士や女同士だと、話も変わってくるんだろうけど。流石に、兄と弟の関係が父親と息子の関係に相似しているとは思えないし。って言っても、僕には兄も弟もいないからよく分からないけど」
言った後、『幾千万と製造された姉や妹みたいなものは存在するけどね』という、言えるはずもない冗談(但し事実)を思い付いて錬は苦笑する。そんな彼の様子を、妹は複雑な表情で見つめていた。
夜は更けて。錬と静香は狭いベッドに二人で横になっていた。一緒に寝ようと申し出たのは静香で、錬は一瞬の戸惑いを見せながらも了承した。たとえ血の繋がりはなくとも、たとえ人間と人外であっても、兄妹には変わりないのだから――と。しかし、元々一人用のベッドである。落っこちては事であるとして、窓側の壁際に静香を配置し、反対側に錬が、二人とも仰向けになって寝っ転がっていた。錬が目蓋をしっかりと閉じているのに対し、静香の目は見開かれていた。
極力ベッドを揺らさないように身体を横臥させたハルは錬の顔を見つめ、ぼそりと言う。
「お兄ちゃんまで、居なくなったりしないよね……?」
微動だにしない錬からの返事は聞えない。その後はただ、『ハル……、ぐすっ』と啜り泣く少女の声が、幽霊の呻きよろしく、部屋に木霊していた。
が、実際には。空寝していただけの錬は、静香の問いに答えていた。しかし聞えるはずもない。呟いたと言っても、空気を震わせ音声を出したわけではないのだから。ただ心の中で、たった一言、こういった場面での常套句を呟いただけなのだから。
『ごめん』
と。




