その4
錬とハルの戦線離脱成功から五分と経たない内に、件の戦線に新たな人物が参上していた。
「忘れ物を取りに来ただけなのに、まさか霊魔の出現に出くわすとはなあ……」
真夜中にも関わらず、外回りのサラリーマンよろしくの服装で腕を組み立ち尽くす男。視線の先には虎もどきの霊魔が自分勝手に吠え続けている。
『黒谷、聞こえるか? 儂だ』
「はいはい、聞こえますよ武猪司令」男――黒谷は、右耳に取り付けられたイヤホンから聞こえてきた声に答えた。「しっかし、錬君に監視を付けていたというのなら、どうして真っ先に彼を保護しなかったんです? 混乱のせいで見失ってしまったとでも?」
『ああ、お前の言う通りらしい。だが仕方あるまい。まさか、いきなり霊魔が現れるとも思っていなかったのだろうさ』
「はあ……」それじゃ監視員として失格だろうと思わずにはいられなかった黒谷だが、そこは何とか溜息一つで抑え、「ま、結局は無事みたいだし、別にいいですけどね。さあて。じゃ、こっからは自分の仕事ですね。多少とは言え手負いの相手ですし、なるたけ早く決めてしまいますよ」と宣言した。
『頼むぞ、黒谷』
「了解」
そこでイヤホンのスイッチはオフになり、黒谷は戦闘に意識を集中させるべく、短く息を吐いて気合いを入れ直した。
「ング?」
突き刺すような黒谷の視線に気付いた霊魔が、警戒心を剥き出しにして、黒谷のことを見下ろした。
「馬鹿デカイ猫だ。しかし可愛げはゼロだな。さあて……『攻霊』」
唱えた終えた時には、四十五度の角度に跳び上がった黒谷はもう霊魔の眼前にまで迫っていた。その両手両足の第一関節から先は青白い光を放っている。驚く間もなく眉間に拳を入れられた霊魔は、仰け反ってゆっくり倒れ始めた。更にその顔を、黒谷はダメ押しとばかりに踏みつける。完全に倒れた霊魔(やはり僅かばかり身体が宙に浮いてはいるが)と、大きなその顔に乗っかった黒谷。何ともシュールな光景は一瞬の出来事で、黒谷はすぐさま霊魔の顔から飛び降り、畳み掛けるように次の攻撃へ移る準備を始めた。彼は、霊魔の肩よりもやや下の部分を蹴っ飛ばそうと試みた。が、彼の蹴りが命中するよりも早く、霊魔は自らの巨体を起こし、宙高く飛び上がった。まるで羽根でも生えたかのように軽やかに。いや実際、羽根が生えたとしか思えない事態が起こっていた。地上から六メートルは飛び上がった霊魔はそのまま空中で停止したのだ。
「■■□ウッルルルルル」
「空中戦が望みか。でかい図体に似つかわしくもない真似しやがる」
ぶつくさと言いながら黒谷も空中へと浮かび上がる。宙で対峙する一人と一匹。そのままにらみ合い続けるわけでもなく、すかさず第二ラウンドが開始された。先に仕掛けたのは黒谷。
霊魔の手前までは真正面から飛んで行き、相手の間合いに入ると同時に瞬時に高度を下げ、その足元へと場所を移した。直ちに攻撃に転じようと、『攻霊』を施した右脚を振り上げる。だが、空中に浮かんだまま前転した霊魔が逆立ち(立ってはいないが)の姿勢となって彼の脚にかぶりつかんとした。
「ううっ!」相手の予想外の動きに動揺した黒谷は、慌てて自分の右脚を引っ込めようとしたが、完全には間に合わなかった。霊魔の鋭い牙が、ざっくりと、黒谷の脚に一筋の深い傷を負わせた。朱色の血が、彼のズボンの裾からボタボタと漏れ落ちる。「っ痛えな、畜生!」
涙目の黒谷は両手(無論、『攻霊』加工済み)で霊魔の首を掴んだ。もっとも、体躯に差があり過ぎるので、霊魔からすれば〝抓まれた〟という表現がより正しくなるかもしれない。しかしそれでも効果はあった。
「■■ゲェ……エエエ…………」
「『攻霊、収斂』」
言って、黒谷は両手に渾身の力を込めた。彼の両足を覆っていた青い光が、彼の身体を昇り伝って両手へと辿り着いた。必然、黒谷の手はより強い光を帯びる。霊魔の首からミシミシという音が鳴る。
「■■■ァァァアア!!」
「うぁっ!?」
振り子のように勢いづいた霊魔の両後ろ脚が黒谷の身体を弾き飛ばした。
「オオ、コホッ! カハァッ!!」
人間よろしく右前脚で喉を押さえてえずく霊魔。
「ぐ、おおおお……」
蹴られた腹を両腕で抱え込みながら苦悶の表情を見せる黒谷。『攻霊』は解除されている。
一匹と一人はともに空中で浮かびながら苦しがっている。先にこの状態から抜け出し、再度攻撃を開始した方が大いに優勢に立つことが出来る。それは明らかであったが。
「『膨霊』」
どこからともなく響き渡った声とともに、突如巨大な人の手が霊魔の背後から現れた。
「っ、くう、あ、んん?」現れた手が視界に入った黒谷は、まだ腹を押さえながら何かに気が付く。「あの、手は…………」
「■■ッッ!」
突如現れた巨大な人の手は、猫の首を引っ掴むようにして霊魔の首を掴み、ぎりぎりと締め上げ始めた。苦痛の権化といった風な表情の霊魔は、しかし、首の手を振り解く程度の力さえも残っておらず、ただ、きゅうきゅうと小動物のように鳴くだけである。
「■キ、ハァ……ッ」
断末魔の声を上げて動かなくなった霊魔の首が、ぐってりと傾ぐ。傾いだ首はそのまま身体からボトリと落ちた。二つに分かれた霊魔の身体は寸刻の間だけ宙を舞い、やがて両方とも雲散霧消した。直後、巨大な手も姿を消して、代わりに一人の男――歳の頃なら、黒谷と殆ど変わらない青年が現れた。黒谷よろしく宙に浮かんでいた彼は、ゆっくりと地面に降下し、地に足を着けた。
「いっ、つぅ。こりゃあ、明日はまた筋肉痛だな」
青年は右手をふるふると振りながらぼやいた。
「あ、粟村先輩。なんで、こんな所に?」
いつの間にか地上に降りて来ていた黒谷は青年に歩み寄りながら訊ねた。粟村先輩と呼ばれた青年は、その問いに答える。
「第四室で唯一の単独戦闘可能霊渉者であるところの悠真君が入院しちまってるだろ? 彼が退院するまでの間、代理として僕が昨日から派遣されていたんだよ。元々、僕が担当する第十一室には現役の霊渉兵士が四人もいるしな。そん中じゃあ一番の若輩者である僕が差し出されたってわけだ」
まったく、変なところで年功序列を持ち出すんだから。と、粟村は笑いながら続けた。それを聞いた黒谷は気の抜けた表情で小さく憤慨する。
「なんだ、正式な代理がいたんならわざわざ非番の俺を使うこともなかったのに。相変わらず最近の軍は人使いが荒いですよ」
「仕方ないじゃないか。霊魔の出現時点でお前の方がここに近かったんだから。イヤホンも所持していたし……。僕がここへ向かわされたのだって、あくまで保険の為だよ。実は、結局僕の方が先にここへ着いていたんだけどな。他にやることが出来たせいで霊魔を後回しにしていたらお前が来たんだよ。だから、しばらくは戦闘を傍観していたんだが……そうも行かない様子になってきたから出て行ったんだ」
「ここは素直に『ありがとうございました』って言うべきところなんでしょうけど、どうせなら俺一人で最後までやりたかったっすよ」
いじける黒谷を、溜息混じりで粟村が諭す。
「あーあー、まあだお前はそんな子どもみたいなことを言ってるのか。僕らは戦士じゃなくて兵士だぞ? 軍に属するものだ。一人でやろうが皆でやろうが『勝てばよかろう』なのさ。それにだ。どうしても一人でやりたいっていうんなら、それに見合う強さを身に付けなくては。というか。黒谷、お前、昔より弱くなったんじゃないか? あれぐらいの霊魔なら、手負いでなくともお前一人で余裕の相手だったと思うんだが」
「……仕方ないじゃないっすか。ほとんどの戦闘を司令の孫が一人で片付けちまうせいで、第四室にいる間は、実戦の機会がまるでなかったんですから」
黒谷はボソリと、そんな風に漏らした。悠真が正式な現役霊渉兵士となった直後からというもの、黒谷の活躍が大幅に減ったことは事実である。しかし。
「大の男が言い訳とは見苦しいな。怠惰のせいで殺されてからじゃ遅いんだぞ?」
という粟村の言もまた、黒谷にとって否定することの出来ない、正鵠を射たものであった。
静香と離れることになる原因となった霊魔への八つ当たり的な動機で強さを求めた悠真は、本当に強くなった。その強さ故に、彼は単独で戦場に送られることが多くなり、黒谷は万一の為の留守番という立ち位置が増えた。対して、悠真の現役化によって別室へ異動となって、その異動先でも戦い続けていた粟村。彼らの間に多少の溝が生まれてしまうのも無理はない。かと言って、それが黒谷自身の弱体化を全て説明するに足る材料とはいかないのだ。
「はあっ。止めよう。僕がお前に説教出来るほど偉いってわけじゃないし。いや、偉いから説教出来るってもんでもないんだけど。とにかく、今は他にやることがある。急を要することだって言うのに、すっかり忘れていたよ。酷い人間だな、僕も」言いながら、粟村は自分の右耳に手を伸ばし、黒谷と同様のイヤホンマイクのスイッチを入れた。「すみませんが、救急車を回してくれませんかね? 黒谷の奴、肋が何本かイってます。それから……辛うじてまだ生きていますが、民間のご婦人が一人、死にかけています」
その頃。ようやくシェルターに辿り着いた錬とハル。相変わらず錬はハルを抱きかかえたままであったが、変化はあった。ハルは錬の腕の中で眠っており、固く瞑られた錬の目からは涙が流れている。眠っているハルの目元にも、光るものが見えた。




