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花咲くハルに逢う  作者: 直弥
序章
1/23

プロローグ

 破壊の爪痕がそこかしこに残る昼下がりの町並み。『第三室』と呼称される土地のとある町。十八年前に破壊されたままの、この〝かつての〟町に暮らす者は、今はいない。

 折れ曲がりひしゃげた電信柱。陽の光が容赦なく降り注ぐ、屋根も展示品もない美術館。巨大なショベルで抉られたような、痛ましい姿を晒す学校。千を超す人間の名前が刻まれた石碑と、それを囲う色とりどりの花々……。今現在ここを闊歩しているのは人間ではない。動物図鑑にも載っていない、異形の〝怪物〟である。


「「「「「■■■ォオオオオオォォ!!」」」」」

 世界中に聞こえているのではないかと思えるほどの咆哮を響かせながら、壊れた街を行く一匹の怪物。シルエットだけを見れば、その姿も歩き方も、四足獣そのものである――自身の胴よりも短い、半端な長さの七本の尾を除けば。更によく見ると、四本の足は一本たりとも地に触れていない。着いていない。要するに、宙に浮かんでいるのだ。ほんの数センチ程度ではあるが、見れば瞭然である。ならばこの怪物の行為は果たして歩行なのか浮遊なのか……。

 茶と橙が混ざった四本の脚は、鍛え極められた競走馬のように隆々と逞しい。緑青色をした七本の尾は蛇のごとくしなやかで、艶やか。茶色の体毛に覆われ、円みを帯びた胴体は猪のそれに近い。そして頭部、特に顔面に関しては、もはや完全なる異形。二つの耳はウサギのように長く、しかし夏場の犬のように垂れていて、目や鼻があって然るべき場所には、霊長類よろしくの唇を備えた口が存在している。あってもおかしくない場所のものも含めて、口の数は計五つ。しかもそれらは単なる穴ではなく、それぞれに喉まで備えているようだ。そのすべてから咆哮がだだ漏れているのだから、必然的に音声は五重となる。

 それ故のけたたましさの中で、無地の白いシャツ一枚にジーンズという出で立ちの少年が一人で立っていた。怪物との距離は、およそ二百メートル。一人と一匹の間にはまさしく何もなく、誰も居ず。辺りを見渡そうとも、彼以外の人物を発見することは出来ない。

「ここからみてこの大きさってことは、体高は凡そ二メートル、体長は、尻尾を抜けばだいたい五メートルってとこか。中の上だな。それにしても、やっぱり耳栓してくればよかった。相っ変わらず内臓にくるな、この大声は。セミの鳴き声も全部掻き消されてる」

 余裕ぶった様子で長々と愚痴る少年の名は武猪悠真(たけいゆうま)。彼はつい先日、十八歳の誕生日を迎えたばかり。そんな彼の右耳内側には、豆粒大の機械が取り付けられていた。そこから、大人の男性の声が発せられる。

『何を言っておる。耳に栓なんぞしておったら、儂の指示まで聞こえんだろうが。どこにイヤホンマイクを取り付けるつもりだ』

「いっそのこと交戦中は音楽でも流してくれればいいのに。そうすれば少しは気が紛れるってもんだよ」

『十八にもなってまだそんなことを言っておるのか、お前は。遊びじゃないんだぞ。音楽を聴きながら片手間で霊魔と戦おうなど……他の霊渉兵や、霊魔(レマ)に殺された者たちに対する侮辱だ』

「む、確かにそうか。ゴメン、今のは訂正させてくれ。冗談にしても思慮が足りなかった」

 自分の、あまりに子どもじみた言い分に気が付き、悠真は反省の意を示す。そう。これは遊びでも演習でもない。彼は今、命のやり取りをしようとしているのだ。

『分かればいい。ほら、そろそろ相手も気付く頃だぞ』

「了解。ちゃんと全力で戦ってくるよ」

『ああ、行ってこい。ここから先はお前の判断に任せる。信用しているぞ』

 その言葉の直後、プツッという音とともに通信が途絶える。もう悠真の耳には自分と怪物の声しか聞こえない。

「信用してくれてる、ってのは嬉しいけど」悠真はここで一呼吸置いてから「これじゃあやっぱり、指示は要らないんじゃね?」と、続きの言葉を発した。

 そして彼は駆け出す。明らかに人間離れした脚力で。悠真が駆け出したのとほぼ同時に、霊魔と呼称される怪物の方も彼の存在に気が付き、突進を開始する。一人と一匹の走る速さはほぼ互角。彼らの距離は瞬く間に狭まっていく。

「ダウ……でえっ!?」

 悠真が手を伸ばせば触れることが出来るほど霊魔に近付いたその時、霊魔の七本の尾が、悠真の背後から現れた。気配に気づいた悠真はやや前方向に跳躍し、更に霊魔の頭部を踏み台にしてより高く宙に飛び上がった。彼はそこから下を見下ろす。見れば、尾は霊魔の身体から完全に離れていた。気付かぬ内に悠真は、本体と尻尾に挟み打ちされる形となっていたのだ。

 宙に浮いたまま悠真は思案する。

(当たりそうになる直前まで全然気配なかったぞ。地面の中を移動しやがったな)

 しかし、尾が地中を移動したような跡はない。地面には穴など空いておらず、尾には砂粒一つ付いていない。それでも悠真は自分の予測に確信を持っていた。

(意外に頭の回る奴なんだな。本体に注意を向けさせながら、背中も狙うなんて。尻尾がやけに短いのもこれが理由か。あってもなくても、前方からじゃ分からないようにするため)

 悠真が宙に浮いている間、尾と本体が一つとなった霊魔は、まるで何かを探すように周囲を見渡し――もっとも、目はないのだが――ている。目標を見失い、混乱しているらしいその動きを見て、悠真が溜息を吐く。

「頭がいいのか悪いのかはっきりしろよ」

 呆れたように言いながら、悠真は霊魔の本体目掛けて急降下する。途中、彼は小声で、

「『攻霊(ダウン)』」

 と呟いた。すると、彼の右手が青く鈍い光を帯び始めた。

 そこでようやく頭上の気配に気付いた霊魔が反撃に移ろうとする。が、それよりも早く、悠真の右拳が霊魔の身体をとらえた。顎にきつい一撃を喰らった霊魔が大きく吹き飛ばされる。そしてそのまま、近くにあった電柱の残骸にぶつかる――ということはなかった。霊魔の身体は電柱をすり抜け、より遠くまで飛ばされてから徐々に勢いを失い、ようやく停止した。

「相変わらずの〝幽霊〟体質か。こいつら一体どういう理屈で生きてるんだ? いや、最初から死んでるのか? 〝霊〟魔っていうぐらいだし」

 着地した陽介が言う。

 霊魔の尾が、地面に穴をあけることもなく、音を立てることもなく、砂に塗れることもなく悠真の背後にまで近付いた仕掛けはこれである。霊魔の尾――いや、霊魔の身体は、ある例外を除いた三次元物質の存在を無視する、すり抜ける。例外とはすなわち、人体である。

 倒れた身体もやはり地面から僅かに浮いている霊魔が、激しく首を左右に振りながら、ゆっくりと起き上がる。

「さあ、もう同じ手は喰わねえぞ。こっからが本番だ。『攻霊(ダウン)』」

 悠真の全身が、青く鈍く光り出した。

   

   ◇


 ――霊魔と悠真の戦闘開始から六時間と少し前。日付は七月十六日、木曜日。

 公立海桜( かいおう)学園高等部、三年一組の教室、午前八時五十五分。

 教室には三十三の席が在ったが、ホーム・ルーム開始五分前というこの時点で登校しているのは、僅かに十四人だけであった。星名錬は、そんな十四人の内の一人。クラスメイトたちが各々の友人同士談笑している中、彼だけは一人、自分の席ですやすやと眠っていた。そこへ、本日十五人目の生徒が入室してくる。彼は錬の姿を見つけるなり、元気よく挨拶した。

「よう、錬」

「ふああ? あ、悠真。おはよう」

 欠伸とともに目を覚ました錬は、目の端から零れる涙を拭いながら応えた。

 錬の『悠真』という言葉に反応した生徒たちの視線が一斉に、教室の入口へ向けられる。

「おはよう、武猪」「おはよう、武猪くん」「じゃあな、武猪」

 生徒たちが口々に悠真に声を掛ける。悠真は、

「おはよう、駒井。おはよう、雪原。小山、お前は後でちょっと面貸せ」 

 と、そのすべてに応えながら自分の席へと向かう。錬の前の席へと。

「さてと、一時間目は何だっけ?」

 席に着くなり早速振り返り、悠真が錬に訊ねる。

「時間割変更で、大和史」

「あー、一発目から子守唄かよ」

「悠真はどんな授業でも眠くなるんだろ?」

「それはそうなんだけど。ララバイは特にな……。まあ、昼飯の直後よりはマシか」

 言いながら、悠真が席を立ち、教室の後ろへと向かう。そこに置かれた個人ロッカーから教科書とノートを取り出し、彼は席へと戻った。それとほぼ同時に、朝のホーム・ルーム開始を告げるチャイムが鳴り響いた。

「今日は(ひぃ)(ふぅ)(みぃ)……十五人か。昨日は何人だったっけ?」

「十六人。順調に減ってるよ。仕方ないけどさ」

「そうだな……。でも、お前はちゃんと学校来いよ。じゃないと、俺が暇なんだから」

「勝手だなあ」

 そう言いながらも錬は、肯定の意を示すように笑っていた。二人がそんなやり取りをしていると、眼鏡を掛けた壮年男性が教室の扉を開けて入ってきた。三年一組の担任教諭、桐原である。教卓の前にまでやって来た彼が口を開く。

「室長は欠席か。武猪、代わりに頼む」

「はいよ。起立!」

 目下がらがらの教室で、朝のホーム・ルームが開始された。


「……というわけで、人類は遠い昔から『霊魔』と呼ばれるこの異形生物の脅威に曝されてきたわけであります。爆熱や寒風といったエネルギーさえも無効化してしまう、この霊魔と戦う術を持つのは、『霊渉(れいしょう)』という特殊な能力を持つ人間『霊渉者』だけであるということは、皆さんもご存知の通りです」

 大和史。文字通り、錬たちの住む『大和』という国の歴史を学ぶ授業である。担当の川原崎(かわらざき)は、六十という定年を間近に迎えた老教師。間延びした声で行われる彼の授業では、常に、居眠りをする者が続出。生徒たちの間で「ララバイの川原崎」と呼ばれるほどであった。

 案の定、この日の一時間目、三年一組の教室では舟を漕ぐ者が続出。川原崎は彼らをいちいち起こすこともせず、授業を進める。その結果、新たな船乗りが生まれることにもなり、とうとう起きているのは四人だけとなった。積極的に寝るつもりのなかった悠真ですら、夢の中へ落ちている。一方、この授業に備え、悠真が登校してくるまで眠っていた錬はしっかりと目を開いて起きていた。だが彼の視線は黒板ではなく、配布されたプリントに載った絵に向けられていた。

 六本の脚と二つの頭を持ち、恐ろしく長く鋭い牙を出しにしたその姿は、まさに怪物そのもの。絵の右下には小さな文字で、〝霊魔画〟と書かれている。何のためにわざわざ朝の時間を削ってギリギリまで眠っていたのかを忘れるほどに、彼は霊魔の絵に夢中になっていた。

 そしてそのまま、一時間目の終了を告げるチャイムが鳴った。

「お疲れ様でした。次の時間まで休憩です」

 皮肉めいた台詞を放ち、川原崎は教室を後にした。時を同じくして眠りから覚めた悠真に、錬が訊ねる。プリントの霊魔画を指差して。

「なあ、悠真。前から思ってたことなんだけど、霊魔って本当にこんな化け物なのか?」

「ん? 個体差があり過ぎるからなあ。別に霊魔全部がこうってわけじゃないけど、大体はそんな感じだな。とりあえず、バケモンには違いない」

「ふうん」

 錬は再びプリントに視線を戻し、描かれた化け物をまじまじと見つめてから言った。

「怖くないのか? こんなんと戦っててさ」

「さあ、よく分かんねえ。ヤバいって思う時はあっても、怖いって感情はあんまりないな。ガキの頃からやってると、すっかり生活の一部になってるから。霊魔(こいつら)との戦いはさ」

「そんなもんか」

「そんなもんだ」

 武猪悠真は星名錬の幼なじみであり、霊渉者である。正体不明の怪物『霊魔』に唯一生身で対抗し得る力、霊渉。大和では、先天的にその力を持った『霊渉者』は本人の希望是非に関係なく、軍の対霊魔専門兵士になる。物心着く前から訓練を強制された悠真も、十二歳になった頃には、もう自然な気持ちで怪物と戦っていた。

「まあ、霊渉者全員が俺みたいに吹っ切れてるってわけじゃないけどさ」

「そう、だよな。忘れてたわけじゃないけど、失念してたよ。静香のこと」

「静香か。あいつ、今頃どうしてんのかな?」

「さあ……どうだろうな。元気ならいいんだけど」 

 二人の脳裏に、ある少女の姿がよぎった。


 午後三時。あと五分で六時間目の授業が終了しようというその時。突如として。学校中、いや、町中にけたたましいサイレンが響き渡った。教室中にざわめきが走る。

「皆、放送が聞こえるように静かに!」

 壮年の女性教師が張り上げ声によって、ざわついた教室が一瞬にして静まり返る。そこへ、まったく別の女性の声で放送が入る。

『第三室に霊魔が出現しました。第二、第三、第四室のシェルターが解放されましたので、当該室の住民の方々は速やかに避難して下さい。また、第三室の霊渉者が、前回の戦闘による負傷で全員入院中のため、現在、第二、第四室にいる戦闘員は直ちに作戦部に集合して下さい。繰り返します――』 

 ひと通りの放送を聞き終えた悠真が、錬の方を振り返って言う。

「じゃあ、行ってくる」

「気を付けろよ、悠真」

 真剣な目で応じる錬に、これまた真剣な面持ちで悠真が

「お前もな」

 と返す。

 短い会話を終えた悠真が立ち上がった。そして教師に告げる。

「先生、行ってきます」

 教師は答える。

「ええ、気を付けてね」

「武猪、頑張れよ!」「頑張ってね、武猪くん!」「しっかりやれよ、悠真!」

 教室中から一点に向かって集まる声援を受け、武猪悠真は教室を走り出て行った。

 ややあって、悠真を除く学校中の生徒たちが、教員に引率され、シェルターへ向かっての大移動を始めた。

 

 ――放送から十五分後、第四室の某シェルター内。

 シェルターとは言っても、強固な素材で覆われた壕ではなく、だだ広いだけの地下空間である。あらゆる物質をすり抜ける霊魔に対する避難場所なのだから、当然と言えば当然の話。さて、そんなエセシェルターの内部であるが、これがとてつもなく豪華な、もはや豪奢と言って差し支えない造りとなっていた。冷暖房の完備は当然として、レストラン、コンビニ……カラオケボックスその他諸々の遊戯施設。下手をすれば地上以上に快適な、一つの町を形成していた。それも、一つ一つのシェルター毎に。

「ここを経営しているのって軍でしょ? 一体どこにそんな金があるのかしら」

「どうせ戦う相手は霊魔しかいないし、金を掛けることが他にないからじゃないですかね?」

 そんな話をしているのは、錬たちの担任教諭にして公民教師の桐原と、白衣を着て眼鏡を掛けた、若くも艶めかしい女性。

 桐原の予測は完璧に近い形で当たっていた。軍が幾ら予算を持っていたところで、相手が霊魔とあっては普通の兵器を作っても意味はないし、どんな城砦を築いても紙きれ同然、いや紙切れ同様、むしろ紙切れ以下、と言うより紙切れ未満の効果しか持たない。というか効果はない。戦闘員である霊渉者用の医療施設を充実させるくらいしか使い道がないのだ。にも関わらず、国からの支援だけは充分過ぎるほどに受けているため、大衆に向けてのリップ・サービスとして、もっとも目に触れる機会の多い、シェルターの施設を整えているのである。より安全で快適な場所を提供するため、という大義面分も立つ。

 但し、非常時以外にシェルター内へ進入することは原則禁止とされており、もし許可なく進入すれば、侵入扱いとなる。ここで開かれている店やその他施設を営業している者たちも、普段は外で別の仕事を持っている。非常事態発生時のみ、許可を得てここで働いているのだ。

「それならそれで、どうして国がシェルターを管理しないのかしら」

「実質、今の大和は〝軍=国〟ということじゃないでしょうか。今の大和政府は、外交以外の政治機能などまともに果たしていないと聞きますし」

「公務員がそういうことを言うのは不味いんじゃないかしら。海桜学園(ウチ)は公立でしょう?」

「鈴谷先生が言わせたようなものじゃないですか。そんな意地悪い性格だからその御年になってもまだお相手が――」

「その先を言えば……アナタ、一体どうなるんでしょうね?」

 据わった目で、ぎらりと輝く拳銃を手にした鈴谷が、桐原の胸にその銃口を押しつける。

「僕が悪かったですからそれは仕舞って下さい。というより、どうして保健室の先生がそんなもの持ってるんですか!? モデルガンですよね!?」

「さあ。案外、本物かもよ?」

 大人二人が生々しくも滑稽なやり取りをしている間、錬とその友人二人は、今まさに外で戦っている同級生について話し合っていた。

「武猪の奴、今頃、霊魔と戦ってるんだろうな。いいなー、俺にも霊渉があったらなあ」

 肩まで髪を伸ばした長身の男子生徒が羨ましそうに言う。

「大丈夫かな、武猪くん」

 肩まで髪を短くした背の低い女子生徒が心配そうに言う。

「悠真ならきっと大丈夫だよ。あいつは強いから」

「大した信頼だな」

「ねえ、星名くんって武猪くんと幼なじみなんだよね?」

「そうだけど?」

「どうなんだよ、身近に霊渉者がいる感想は。今まで羨ましいとか思ったことないのか?」

 錬は少し迷った挙句、その質問に正直に答えた。

「羨ましいと思ったことはないけど……たった一回だけ、悔しかったことがあった」

 と。


   ◇


 錬が友人たちに本音を吐露していた頃、第三室と呼ばれる場所の一角では、悠真と霊魔の戦いが終局を迎えようとしていた。

 満身創痍の霊魔は微動だにせず倒れている。相変わらず地面からは浮かんでいるが。

 傷こそ一つもないものの、息の上がった悠真が、倒れた霊魔を見下ろしている。

「はあっ……結構、タフな奴だったな。さあ、トドメを――」

 刺そうとして腰を屈めかけた悠真が、殺気を感じて後方へ跳躍する。伸ばした霊魔の前足は悠真をとらえ切れずに空を掻いたようにも見えたが、実際には違っていた。爪先が僅かに、しかし確かに、悠真の身体に触れていた。直線距離にして四メートル強を跳躍して着地した彼の胸から腹にかけて、三筋の細い引っかき傷が、白いシャツの上からでも分かるように浮かんでいる。彼のシャツはそこから出る血で滲んでいるが、どこも破れてはいない。

 前足を伸ばしたまま硬直した霊魔は今度こそ、それ以上動かなくなる。そのままその身体はすうっと消えて行き、跡には何も残らなかった。

「……悪足掻きか。本当に、最後の抵抗だったんだな」

 どこか物悲しそうに呟いてから、悠真はスピーカーを強制オンにするスイッチを押して言う。

「目標の消滅を確認。祖父さん、終わったぞ」

『ああ、こちらのセンサーでも確認した。よくやったな。もう帰って来てもいいぞ』

「言われなくっても帰るよ」

 言葉の通り、彼はその場から立ち去るために歩き出した。


 無数のモニターとコンピュータが設置された、広くて暗い室内で、何人ものオペレーターたちがせわしなく働いていた。部屋の中心に位置する場所に、一人の老人と一人の青年がいる。

 青年の方はオペレーターの一人。彼はコンピュータを操作しながら、老人に話し掛けた。

「またまた圧勝ですか。さすがは司令のお孫さんですね」

「儂自身のことはともかくとして。確かに我が孫ながら大した奴だよ、あいつは。それが友情の仇にならなければいいんだが」

 指令と呼ばれた老人は、ある少年の顔を思い浮かべて複雑な表情になる。星名錬という名の少年の顔を。が、すぐ我に返り、事務的な質問で誤魔化す。

「そういや、例の件はどうなっている?」

「『リトルシスター』の件でしたら、滞りなく進んでいるようです。早ければ明日、遅くとも来週の月曜日には、悠真君と同じ学級に転入予定です」

「そうか、そいつはご苦労さん。じゃあ、後のことは頼む。これから十分以上なにも起こらなければ、警報は解除して構わん」

「了解しました」

 

 というやり取りから十五分後。

 警報解除の放送が流れ、各シェルターから続々と人間が出てきていた。海桜学園の生徒たちも同様に。そしてその中には当然、錬の姿もあった。彼らを誘導する軍関係者の中に顔見知りの人物を見つけた錬が、その人物に駆け寄って訊ねる。

「黒谷さん、悠真は大丈夫ですか?」

「ん? ああ、君か。悠真くんなら心配ない。怪我はしているが、大したことはないそうだ」

「え、怪我!? 本当に大丈夫なんですか!?」

「落ち着けよ。大丈夫だってば。ほんの掠り傷、というか掠られ傷らしいからさ」

 動揺して今にも掴み掛かろうとする錬。それをなだめようとする男。彼らのやり取りを、シェルターの中で錬と話していた二人が遠目で見ていた。

「信頼はしているけど」

「結局、心配もするのね」

 二人は呆れていた。

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