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ポンペイの一枚の絵

作者: 土田かこつ
掲載日:2012/02/06

 涸れた泉の都に、一人の旅人がおりました。


 旅人は女でした。


 とても醜い女でした。






 海の商いで栄えた港町のはずれに女は生まれました。


 父親は幼いうちに死に、母親の手で育てられました。


 母親は歌い手でした。エウロパの第一流の都でほめそやされた、本物の歌姫でした。




 女は醜い女でした。


 はれた瞼に落ちくぼんだ目。鼻はひしゃげて、あごは突き出ていました。


 くわえて幼いころに負った火傷の跡が、右の頬から肩へとひろがっているのでした。




 母親は、哀れな娘に歌うことを教えました。


 女は類い稀なる声をもっていました。


 天が与えた才なのでしょう。女の歌は日ごとに上手くなりました。


 娘時分に差しかかるころには、すでに師である母親を超えていました。




 女は人々の前で思い切り歌いたいと思っていました。


 それは叶わぬ夢でした。


 ひとたびその歌を耳にしたなら、引き寄せられぬものはないでしょう。


 ひとたびその姿を目にしたなら、逃げ出さぬものはないでしょう。


 女は、そういう女でした。




 母親が死ぬと、女は家を出ました。


 忌むべき素顔を隠すため、アラビア紋様の大きな布を頭からかぶりました。


 向かうあてなどありませんでした。戻るつもりもありませんでした。


 街へ街へと歩くうち、日やといで食べものを得るすべを覚えました。


 また、回教徒だと偽ることで、素顔を見せずにすむことを知りました。


 けれど、街の教会へは入れなくなりました。


 神父から冷たい視線が投げられました。


 女は本来、敬虔な旧教徒でした。




 家を出たのは春でした。


 夏には海から国を出て、秋には山を越えました。


 にぎわう人の間をぬって、冬には市場を行きました。




 魚介の匂いと人の熱気にうだる市場の裏で、老人が幼い子供に昔語をしていました。


 女はテントの陰で、ぼんやりとしわがれた声を聞きました。


 それは、今はなき古都の物語でした。




 都はぶどう酒づくりと商いで栄え、清らかな泉と鮮やかな壁画に彩られていました。


 道ゆく人は笑いさざめき、奴隷までもが愛を得る。


 その豊かさは、帝国随一と謳われました。


 

 けれども都は短命でした。


 沈む太陽を迎えいれ、街を見守っていたヴェスヴィオの山が突然火を噴いたのです。


 巨大な雲が湧き上がりました。


 赤く燃えた石が砕けて雨のように降りました。


 灰が毒をまいてつもり、一夜のうちに都を闇へと沈めました。




 ねえ、そのまちはどこにあるの。


 幼い声に老人はゆっくりとうなずきました。


 夜明けに差す、一番の光を追ってごらん。なに、そう遠くはないさ……




 女は、暁の光の跡を歩きました。


 名も知らぬ都へ、耳にのこる低い声だけをたよりに。


 現れては消える太陽を三度ほど数えたところで、女は立派な記念碑を見つけました。


 奥には石を敷きつめた街路が真直ぐにのびていました。




 女は、鮮やかな壁画に彩られた家々を見ました。


 しかし、歌声ひとつ聞こえてはきませんでした。


 中庭には、貝がらで飾られた噴水がありました。


 けれど、水は涸れていました。


 異国の王の気まぐれで、都は灰から掘り出されました。


 ところが、それはすでに死に絶えていました。


 遺跡は都のなきがらでした。


 とても美しいなきがらでした。




 ふと、足もとの石畳がとぎれて女は顔をあげました。


 そして、眼下に広がる光景に息をとめて立ちつくしました。


 女の目の前にあったもの。


 それは、溶岩をそのまま削って造られた大劇場でした。


 客席は馬のひづめの形をして、ぐるりと舞台を囲んでいました。


 舞台には石壁造りの書き割りがあり、背景には遠くラッタリの山並みが見えました。




 静けさが支配する、死んだ都の劇場でした。


 けれども女にとって、これが初めて見る本物の劇場でした。


 今まで、客席とは絵の中で見るものでした。


 舞台とは、夢だけにあるものでした。




 大きく息を吐き、石の階段へ足を踏み出しました。


 舞台は上で見たよりも広く、客席が一望できました。


 客席は、決してその役目を果たすことはありませんでした。


 しかし、夕映えに染まり深く影をつける石段は、それそのものが彫刻のようでした。




 女はアラビア紋様の布を頭からはずしました。


 ただれた顔を消えゆく太陽にかざして、歌いはじめました。





 女の歌は慟哭でした。


 世に受け入れられぬ我が身と、我が身のために自由を奪われた母親の嘆きでした。


 あるいは逃げまどい、煙にまかれて死んだ古い都の人々の叫びでした。


 それをただ眺めるだけの神々への、直訴でもありました。




 女の歌は祈りでした。


 天まで響く声を与えた神々と、大地を揺らす歌を授けた母親への深い感謝でした。


 また、命が宿らぬがゆえに静かに女を受け入れてくれた、古都の鎮魂を歌いました。


 幸も不幸も等しく包み込む、明日の光を望みました。




 女は憑かれたように歌いつづけました。


 もし誰かが女を見たならば、いったい何の魔物かと思ったことでしょう。


 それほどまでに妙なる声と、それほどまでに恐ろしい姿でありました。


 もっとも、その歌声を聞くものなど誰もいませんでした。


 ただ白い月が少しゆがんだ顔をして、静かに女を眺めていました。




 大気が、震えていました。




 女は歌をやめました。


 朝の光がゆっくりと、音をなくした劇場に広がっていきました。


 女は瞼をとじて、遥か昔にこの場を満たしたであろう聴衆のざわめきを想いました.


 そして、もう響くことのない彼らの拍手に、そっと頭を下げました。




 女はそのまま去りました。


 死んだ都は再び静けさに支配されました。


 それでも、女の中にある面影は、生きた都のものでした。






 涸れた泉の都に、一人の旅人がおりました。


 旅人は女でした。


 とても醜い女でした。





〈注釈〉


・回教徒 / イスラム教徒


・旧教徒 / キリスト教徒(カトリック。プロテスタントのことは新教と呼びます)


・ポンペイ / 1世紀までイタリア・ナポリ近郊にあった都市で、世界遺産。79年のヴェスヴィオ火山噴火による火砕流によって地中に埋もれた。

町全体を飲み込んだ火山灰が当時の人々の生活をそのままの状態で保存したために、現在では古代ローマの繁栄を今に伝える貴重な遺跡となっている。



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