恋
私にも何時か素敵な恋人が出来る、何てそんな下らない事は今まで一度だって考えた事が無かった。私は平凡に日々を過ごすだけの凡人で、何か秀でた才能も無ければ特に得意な事も無い。何だって人並みにこなせるし、教えてもらえさえすれば私は何でも出来た。でも、それも人並み以上は出来ない。
誰かが、そう、例えばお隣の吉田さん。以前、私は吉田さんに碁を教えてもらった事がある。教えてもらったその日、私は吉田さんに勝ってしまった。別にそんなつもりは無かったが、それが酷く吉田さんの何かを壊してしまったらしい。それ以来、吉田さんは碁を打たなくなってしまった。
取り敢えず。その事が切っ掛けで、もしかしたら才能があるかもしれない、と思い碁会所へ行ったは良いがあっさりと常連に負けて帰ってきた。別にプロでも何でもない、ただ碁が好きな常連に負けた。結局、その程度なのだ。
ある時は数学オリンピック、ある時は生け花大会、ある時はギターコンクール。色んなものに手出ししたけれど、私はその何れでも一番にはなれなかった。大体中間前後の成績しか取れず、私の名が日の目を見る事は無かった。
兎に角。私は誰かが教えてくれれば何でも人並みには出来る。でもそれまでで、それ以上には決してなれない。だから、誰も私に見向きしない。だからきっと一生一人身だ、と思っていたのだが。
授業をさぼって駅に行ったある日の事。上りホームで電車を待っている時、ふと向かいホームの人が目についた。特に変わった格好をしていたわけでも、特に変わった容姿をしていたわけでもない。ただ、何となく私にはその人が私を呼んでいるような気がした。その人はずっと携帯画面を眺めていて、私に気付いている様子は全く無かったけど、でもそんな気がした。
私は向かいのホームに移動して、その人に近付いた。でも電車が都合悪く来て、その人は電車に乗って行った。だから、同じように私も乗った。車内は下りのせいか人気が少なく、空いた席が幾つもあった。私はその人の向かい席に座って、あたかも乗り合わせた只の乗客の振りをした。簡単、簡単、いつものように平凡な自分を演じていれば良いのだから。
幾つか駅を過ぎた時、その人が下車したから私も下車した。でも駅を出た時に、その人の姿を見失ってしまった。そして私は我に返った、何をしているのだろうと。幾ら平凡な日常に飽きたからといって、明日も学校をさぼるわけにはいかない。そう、戻らなきゃならない。私は家を目指して歩いた。
家に着いた、のに鍵が合わないから扉を開ける事が出来ない。仕方ないので管理人に開けてもらおう、と思ったら管理人が不在。今日はついていないみたいだ、だがこんな日は今まで無かったから妙に楽しい。結局、私は隣の空き部屋を寝泊まりに使用する事にした。明日、管理人に言えば良いかなと思って。
私が空き部屋で転寝している時、隣の部屋で物音がした。私の居る空き部屋は角部屋で、その隣は私の部屋……もしかして泥棒でも入った?心配だから見に行った。だけどリビングの明かりはついていなかったし、鍵が抉じ開けられた形跡も無かった。どうやら気のせいだったようだ、私は空き部屋に戻ってまた転寝をし始めた。そして、夜が明けた。
学校へ行くために、私は部屋を出て駅に向かった。そういえば家に荷物を置いてきてしまったから、今日は手ぶらだ。楽と言えば楽だが、一度家に戻らなきゃならない。……面倒だ。ま、こんな日も良いだろうと思って私はホームで電車を待っていた。酷い混雑だ……これだからラッシュは嫌だ。でもそんな事を言っている暇はない、電車に乗らなきゃ遅刻してしまう。
そんな事を思いつつ、ふと前を見るとあの人がいた。偶然にも同じ電車に乗ろうとしているらしい……誰かと一緒に。隣に居る人と楽しそうに話している、その人は誰なのだろう。恋人だろうか、将又姉だろうか。まぁ、私には関係の無いことだ。
私は人に押されながら電車に乗り、目的の駅で降りた。すると、偶然にもあの人が降りてきた。どうやら目的の駅は同じだったらしい。通学路を行くと、その人も同じ道を歩いている。同じ道を歩き、同じ学校へ入っていく。何で今まで気付かなかったのだろうか、あの人は私と同じ学校だったのか。
学校が終わって、帰る時も同じようにあの人は私の目の前を歩いて行った。それもそうか、同じ時間に終わって同じ時間に帰るのだから、同じように歩いていても不思議ではない。私の平凡な日常に、少し刺激を与えてくれそうだ。ほんの少し、期待してみた。
帰りの電車は昨日と違って混み合っていた。どうやら帰宅ラッシュに丁度ぶつかってしまったらしい……まぁ、仕方ない。人混みを抜けて電車に乗れば良いだけの話。私は途中、誰かを押したり抜いたりしながら電車に乗った。そうでもしなければ乗れなかったのだ、あの混み様じゃしょうがない。
家に帰って、テレビを付けると何やら速報が出ていた。どうやら、私が通う学校の最寄り駅で人身事故があったらしい。混雑が原因でホームから女性が線路に落下、丁度ホームへ入ってきた電車に轢かれて死んだそうだ。今さっきの出来事だな……怖い、怖い。もしかしたら自分がその被害者になっていたかもしれないし。
長身の男が突き飛ばしたのに誰も見てないなんて不思議な話だ。あーあんな事故話聞いたから気分が悪い、ジュースでも飲もう。確か冷蔵庫にオレンジジュースがあったはず。……ん、おかしいな。冷蔵庫の中身が全然違う。私はお酒なんて飲まないし、ブドウジュースは嫌いだ。誰かこの部屋に入ったのか……?
あ、彼が帰ってきたみたい。
「お帰りなさい」