漆黒の姫巫女、愛しのヘイカ*彼らの新婚初夜
このお話は以前あげた短編のその後のお話です。まずは前話『漆黒の姫巫女、愛しのヘイカ』をお読み頂くことをお勧めします。
純白のドレスに、可愛らしい花のブーケ。海沿いに建てられた西洋式の教会で、親しい人たちに囲まれこの世で一番愛しい人と一生の愛を誓う。二人手に手を取り合って、これから先の人生を互いに支えあって生きていくのだと。病める時も健やかなる時も、どんなときもずっと一緒にいるのだと。
「本当に、素敵なお式でしたわ」
乳白色の湯船につかり、湯に浮かべられた桃色の花弁を見るともなしに眺めていた美早に、傍で待機していた侍女ナティーシャから声がかけられた。
他人に裸を見られるなど最初はもっての外であったが、今では多少の気恥ずかしさは残しつつも、ある程度慣れてきた。湯浴みの世話をする侍女を特別親しい者に限り、世話をしてもらう際も一人のみとしているため、大分精神的負担(美早の)が軽減されたのだ。世話をする側の侍女には逆に負担を強いることになっているのかもしれないが、そもそも美早は風呂ぐらい一人では入れるのであって、その辺りは両者が妥協することでなんとか落ち着いた。
「素敵な式、ねえ」
侍女の言葉を鸚鵡返しに呟いて、美早はふっと自嘲的な笑みを洩らす。
「そういえば、ナティーシャは今日の昼間は休みをとって広場からお披露目を見ていたのだっけ」
「はい。本当ならば美早様のお傍近くに仕え、婚礼のお支度を手伝いたかったのですが、残念ながらユーディリアたちに役目を取られてしまったので」
ユーディリアとはナティーシャと同じく美早の侍女をしている女性の一人だ。主と国王の婚礼に際し、誰がその支度を手伝うか、侍女たちの間でひそかに争奪戦が行なわれたらしい。主人の晴れ舞台と、美貌の国王を間近で見ることができるというまたとない機会に、侍女たちはなんとしてでもその役目を自分がと考えた。
「私としては全員手伝ってくれても良かったんだけどね」
というか最初はそのつもりだった。そもそも美早付きの女官はそれほど多くない。入浴時に限らず、庶民生まれの美早は基本一人でなんでもできるし、毎日の生活を送る上で常に傍に誰かがいるというのは逆に気が休まらない。故にこの世界に来た当初顔も覚えきれないほどいた侍女は、美早が気に入った十何人かに減らされ、今は顔と名前が一致しある程度世間話が可能な気の置けない侍女だけが傍についている。
その侍女たち全員を集めたとして、婚礼の支度に特に支障が出るほどの大人数になるわけでもなく、むしろ王妃となる者の世話をするのだからこれぐらいは当然という適度な人数が揃う。だが。
「陛下が人数を指定なさったのですから、仕方がありませんわ」
ナティーシャが残念そうに言葉を紡いだ。
そう、本日付で美早の夫となった国王陛下直々に、式の最中美早の傍に侍らす侍女の数を指定してきたのだ。なんて無粋な。傲慢な要求にやや腹が立ったが、女性嫌いの陛下は頑としてそれを通した。ゆえに美早は衣装等の支度に最低限必要な人数だけを連れて式に臨むこととなり、公平に人選が行なわれた結果(どうやらくじ引きで決めたらしい)、残念ながらナティーシャはその役目から漏れてしまったのである。
「でも、お二人の口づけの場面を近くで拝見することができなかったのはかなり残念です」
心の底から悔しそうに言う侍女に、美早は思わず噴出した。口づけをした時の、あのアルヴィフリートの顔。思い出すだけで涙が出るほど笑えてくる。
「どうなさいました?」
「いや、なんでも。というか、そんなに他人のラブシーンなんか見たいものかね」
「当然です! なんといっても、我らが国王陛下と国を救った姫巫女様とのキスシーンですもの。御伽噺にある物語の様で、私うっとりしてしまいましたわ」
うっとり、か……。
ナティーシャは両手を握り合わせて夢見る少女のごとく頬を赤く染めた。
確かに、内情を知らぬ者から見れば自分達夫婦はそのように見えるのかもしれない。だが、実際はそんな甘い関係ではないこと、彼女の夢を壊すのは少々忍びない気もするが、後から他の侍女にでも聞かされると思うので言っておく。
「してないよ、口づけ」
「……は?」
大きな茶色の瞳を点にして、ナティーシャは固まった。驚いていても、湯から上がった美早にタオルを手渡すのを忘れないあたり流石ベテラン侍女(彼女は十一の時から城で働いている)。
「し、してないってどういうことですか」
「そのままの意味だよー。あ、でも、ちょっと違うかな? 口づけはしたけど、唇と唇が触れたわけじゃなかったの」
「と、仰いますと……」
「ヘイカの唇が触れたのは、ここ」
言って美早は自分の唇から少しずれた位置を指差した。
あの時、できたてほやほやの新妻と期待を満面に滲ませた国民とに死刑宣告―もとい妻との接吻を迫られた陛下は、最後の最後で唇同士の接触をぎりぎり避けた。離れたところにいる国民からは口づけを交わしたように見えるよう、しかし実際には触れ合わないすれすれの場所に口づけを落としたのだ。それはあの数瞬、色々と彼の頭によぎった葛藤の結果の妥協案だろう。それでも本人は大ダメージを受けたらしく、テラスから室内に戻った途端倒れこみ、控えていた従者達(♂)に運ばれたわけだが。
「今頃自室でうなされていることでしょうよ」
「……」
夫が瀕死状態(精神的に)というのに、至極嬉しそうに語る美早に、我が主ながら、ナティーシャは夫となった国王陛下へ同情の念を禁じえなかった。
「ミハヤ様って、一体陛下のことをどうお思いなのですか?」
「ん? ふふふ」
聞くも、美早は笑って答えようとしない。なんだかこれでは本格的に陛下が哀れである。
「でも、ただ口づけをしただけで気を失われたのでは、先が思いやられますわね。特に今宵は……」
途中で言葉を切ったナティーシャに、依然微笑を浮かべたままの美早が心の中でそれを引き継いだ。そう、今宵は式を挙げた夫婦が皆共通に通るだろう、一大イベントが待っている。
(“新婚初夜”がね)
※※※※
潤んだ夜色の瞳がこちらを見上げている。瞳と同じ漆黒の髪が白い輪郭を縁取り、彼女の色白な肌を一層際立たせた。美人、というほどではないが愛嬌はある。幼く見えるが一応成人しており、二十七歳の己より五つ下の二十二歳。身分的にも年齢的にも申し分のない、今日より自分の妻となった女、ミハヤ=サトウ。異世界より召喚され、この国の危機を救った伝説の姫巫女でもある彼女に、アルヴィフリートが思うことはただ一つ、
――キモチワルイ。
彼女の何が悪いというわけではない。むしろ、原因は自分にある。幼少時よりのトラウマから、女という生き物がどうしても好きになれないのだ。というか、極力近づきたくない生き物である。
男を包み込むための柔らかく丸みを帯びた体も、ふっくらと艶めく赤い唇も、誘うような甘い匂いも甲高い声も。目に入れた瞬間逃げ出したい衝動に駆られるほど、キモチワルイ。
妻の腰にそっとまわした左手が震えていた。照れや恥じらいからではない、恐怖心からだ。全身に脂汗が滲み、心臓が激しく警戒音を鳴らしている。国民の前であるというのと、約束を守るという義務感からなんとか笑みを作り国民に手を振るが、内実極限状態にあった。しかし、そんなアルヴィフリートを年下の新妻は更に奈落へと突き落とそうとした。
細くたおやかな腕が彼の身体を引き寄せる。広場のざわめきが一層増し、薄紅色の妻の唇がそっと近づいてきた。
『さあヘイカ、口づけを』
「うわあああああああああ!」
アルヴィフリートは声を上げガバリ身を起こした。絹でできた寝具と、天鵞絨の天蓋。落ち着いた色合いで統一された家具たちは整然とこの部屋の主を見守っている。
いつもの、見慣れた自身の寝室だった。
「ゆ、夢か……」
ふう、と息をついたとき、傍らに立つ男の存在に気づく。緩く波うつピンクベージュの髪と、淡い空色の瞳を持つ青年は、突然大声を上げ飛び起きた主に驚きの表情を浮かべていた。グランディール王国の若き宰相、クレイ=シーフィリア=ルーデンス。
「大丈夫ですか」
「あ、ああ。なんとか」
返事をしつつ、未だ悪夢の余韻覚めやらぬアルヴィフリートは、自らの唇に手の甲を押し付けるようにして乱暴に拭った。嫌な夢だ。いや、夢でなく現実なのだが、己の平静を保つためアルヴィフリートは記憶を抹消することに決めた。
(私は大丈夫、私は大丈夫、私は大丈夫……)
ぶつぶつと自分に言い聞かせるよう繰り返す陛下に、彼の右腕である宰相は大袈裟によろめき片手で顔を覆った。そして、「よく我慢なさいましたね、陛下」陛下の内情を知る彼は、主を襲った悲劇を思い、涙声で身体を震わせた。悲壮感を纏い同情してくる臣下に、しかし陛下は半眼で彼を睨みつける。
「白々しい態度はよせ、クレイ」
言うと、一寸の間を置いてクレイはぶはっと盛大に噴出した。基本オーバーリアクションな青年だ。静寂を纏っていた室内に、一変して宰相の笑い声が響き渡る。涙を堪えているかのように見えたのは、実は笑いを堪えての震えだったらしい。クレイは腹を抱えて笑い転げた。
「お前の辞書に不敬という言葉はないのか」
「だっ……ふ、あははは、……だって、陛下、っく、笑っても良いとおっしゃったではありませんか……っく、ははは」
「そんなこと言っておらんわ」
白々しい態度はよせと言っただけで、主人を笑うことを許可する言葉など一言たりとも吐いてはいない。しかし一旦噴出した笑いは止まる術を知らず、その後クレイは別の意味で涙が出るほど一頻り笑い倒した。
宰相であると同時に国王の乳兄弟でもある彼は、普段は臣下然とした態度を装ってはいるが、今のように他者の目がない時は、一瞬のうちに化けの皮がはがれ本当の顔が表に現れる。日頃何匹の猫を被っているのかと呆れるほど、その態度はくだけたものへと変わるのだ。
「はあ、おかしかった」
腹筋の使いすぎで痛くなった腹をさすりながら、クレイは顔中に不機嫌さを滲ませる陛下へと向き直った。
「そんなに滑稽か」
「ええ、向こう一ヶ月このネタで笑い通せる位には。ミハヤ様に口づけたときの陛下の顔といったら、もう――」
「クレイ!」
「鏡に映してご自身にも見せて差し上げたかったです。……オホン、さて、冗談はここまでにして。陛下にはそろそろお支度をしていただかねばならないのですが」
一体どこからどこまでが冗談だったのか、問い質してみたい気もするが、それより気になる言葉を耳にした気がして、「支度?」首を傾げた。
一体何の支度をしろというのか。
窓の外を見やれば外は既に薄暗く、夜の気配がする。強い倦怠感もないため、眠りに落ちて――正確には気絶して――からそれほど時間は経っていないのだろう。ということは、今日はまだ婚礼を挙げたその日にあたるはずで。挙式の日ぐらいのんびり過ごせと言っていたのは臣下達だが、何か急な案件でも生じたのだろうか。
すぐに起き上がり、執務室へ向かおうとすると、そちらではないとクレイが手を挙げ押し止めた。
「どこへ行かれます。仕事熱心なのも結構ですが、陛下が今向かうべき場所は執務室以外にもあるではないですか」
「は?」
きょとんとして見返せば、空色の瞳をにたりと細め嫌な笑みを浮かべている。
「本日、陛下はミハヤ様と婚姻を結ばれましたわけですが」
「ああ、」
アルヴィフリートにとってはすでに抹消した記憶だったが、やはりそうはいかないらしい。
「式を挙げたばかりの、いわば新婚でいらっしゃる二人が式を挙げた夜にすることといえば、何か思い浮かぶことはございませんか?」
「何をいうつもりだ、クレイ」
嫌な予感がして一歩下がる。心臓が早鐘を打ち、続く言葉がよからぬものだと五月蝿いくらい報せている。この感じ、ぞっと背筋が冷たくなる感覚を、遠くはない昔味わった。
ああ、そうだ。今日、ミハヤと一緒に国民の前に立ったときの感覚とひどく似ているのだ。
「新婚初夜でございます、陛下。すでに後宮にて奥方がお待ちです」
その日二人目の悪魔がそこにいた。
※※※※
初夜を待つ妻というものは、こんなにもわくわくと心を躍らせているものだろうか。
時刻はいつもなら就寝する時間を少し過ぎたところ。全くといっていいほど眠気の襲ってこない身体をそわそわと動かしながら、夫の訪れを待っていた。愛しい人の来訪を待つ愛らしい妻。わくわくもそわそわも、きっと的外れではないのだろうが、しかし彼女の胸をときめかせるのはそう言った世間一般の女性が抱く微笑ましい感情とは全く次元が違っていた。
甘酸っぱい恋心ではもちろんないし、色欲や情欲といった官能的なものでもない。愛情など勿論論外で。
今、彼女の心を満たすのは、まるで小さな子どもが悪戯をする時のような、親に見つからないよう拙いながら真剣に計画を練って実行に移す時のような、そういった恋や愛とはかけ離れた感情だった。
(もうすぐヘイカがここにやってくる)
昼間、彼女の頬に口づけだけで卒倒した夫。周囲の者に背を押され嫌々ながらも夫婦の営みをしに自分のもとへやってくる彼の姿を思い浮かべ、にっと口の端が上がるのを感じる。極度の女嫌いの陛下が自分を抱けるとは到底思えない。だからこうしてわくわくと訪れを待っていられるのだけど、上に大が三つはつくほど苦手な女を目の前に、あの美しい陛下がどのような反応をみせるのだろう。
(好きな子をいじめる小学生の気持ちってこんな感じかしら)
これから起こるめくるめく夜に思いを馳せたその時、側に控えていたナティーシャが立ち上がり、ヘイカの来訪を告げた。
「……」
憮然とした顔で室内に入ってきたその人は、長椅子から立ち上がり礼をした美早の顔を見て、少しばかり落胆の表情を浮かべた。
「寝ていなくて、残念に思いましたか?」
様子から察するに、自らがおとないの支度に時間をかけている間に、美早が眠ってしまえば相手をしなくて済むとでも思っていたのだろう。だから妙に遅かったのか。
暗に指摘すると、陛下は図星とばかりに目をそらした。本当に分かりやすい方だ。こんなにもいろんな意味で楽しいイベントを前にして、眠れるわけがないじゃない。
「確かに、朝から緊張の連続で些か疲れてはおりますけど」
「ならば、」
「折角ヘイカがいらっしゃった喜びで、疲れなど吹っ飛んでしまいました! 誠心誠意、真心込めておもてなしいたしますね」
逃がしませんよという意味を込めて、美しく微笑む。
それから、依然入り口から動こうとしない夫の身体へと手を伸ばした。
「なにをする!」
掴まえる寸前で逃げていく身体を更に追い。
「なにをするもなにも」
ナニするんですよ、ヘイカ。
がっしりと腰に巻きついた美早にアルヴィフリートは「ひいいいい」と悲鳴を上げた。
「な、な、なにっ……を、する、つもり、だ!」
言いながら振り解こうともがく。
「あっ」
「!?」
不安定な体勢で暴れたのだから無理もない。
二人の身体は重なり合うようにしてその場に倒れこんだ。
「っ――!!」
まだアルヴィフリートが上だったなら逃げ道もあっただろう。しかし見上げる視界には漆黒の瞳と髪が広がっていた。あまりの衝撃的事実に固まる陛下。美早は手早く動きを拘束した。といっても、大の男を縛り上げられるわけもない。王族独特の長たらしい衣装を着た陛下を、昆虫採集のごとく裾を踏んで動かないようにした。
「は、はなっ」
「丁度いいではないですか、いい機会なので、このまま致しますか?」
「だからっ! 何を!」
「夫婦の営みに決まっていますでしょう」
「わー! 馬鹿、何処を触っている!」
スススス、と指を滑らす美早に、陛下は面白いぐらい反応を示す。
(受け……)
一瞬はしたない言葉が浮かんだが、気にせずに続ける。
見た目ややこしそうな衣装は、腰のところで結んだ帯を解くことで呆気なく前をはだけさせた。
「あら、意外と厚いですね、胸板。着やせするタイプ?」
「変態! ち、痴女かお前は!」
「愛すべき妻になんてこというんですか」
それに夫婦間ですることをしているのだから、痴女もなにもない。仮にも愛を誓い合った仲なのだ。それも、大勢の国民の前で、キスまで――頬にだが――してみせた。これからの人生を共に歩むパートナーとなった二人には、キスだってそれ以上だって許されている。それこそ、裸を見せ合ったり(一方的に美早が脱がしているが)、素肌を思う存分撫でくり廻したり(やはり美早が……以下略)、もっと過激に入れたり出したりだって自由自在である。
勿論、当の美早に本番をする気はこれっぽっちもないのだが、あまりにも陛下が大げさに慌てるので、段々とタガが外れて楽しくなってきた。
「うふふ」
「やぁめぇろぉー」
腰の少し上にまたがって上半身を好き勝手いじくりまわるその手を、どうにか止めようともがくが前述したようにひらひらした服の裾を踏まれてしまっているため思うように動けない。
「もしかして陛下は、致す前にはきちんとキスしてから始める派ですか? 昼間、式のときにも結局しませんでしたし、とりあえず今改めてしておくのもいいかもしれませんねぇ」
身をかがめた美早は、そっと陛下を見下ろす。
苦悶に満ちた表情と、額に浮かんだ汗。ぎゅっと寄せられた眉がなんとも色っぽく、これがまたS心をくすぐるのだ。
(別に私Sじゃぁないけど)
誰にともなく付け足して、ゆっくりと夫の唇に顔を寄せた。
「陛下、――陛下?」
唇が触れ合うまで数センチ。あとは目を閉じ、唇を合わせるだけとなったそのとき、美早はあることに気がついた。
先程から必死に繰り返されてきた抵抗がやんでいる。大人しく諦めたのか? と思えばそうではなく、組み敷いた陛下は額に脂汗を浮かべて顔面蒼白のまま気を失っていた。
「ええええ」
数秒慌てふためいた後、美早はそっと廊下に出て行き隣室で控えていたナティーシャを呼んだ。
新婚初夜に夫が気絶。
美早が呼んだナティーシャが更に近衛たちを呼び、なんともなさけない夜は更けていった。