今夜はきっとよく眠れる
「私ね、星野さんのことが好き」
言った。
世界が止まった気がした。
風が止んで、雲が止まって、遠くの街の音も全部止まった。私の声だけが屋上の空気に溶けていった。
「水族館に行った時に気づいた。星野さんが魚を見て笑う顔が好きだって。星野さんが私のために手を振ってくれるのが好きだって。それが恋だって気づいた」
言葉が溢れた。止まらなかった。昨日まで堰止めていたものが、一度決壊すると止めどなく流れ出した。
「でも怖かった。好きになったら今の関係が壊れる気がして。星野さんが笑ってくれなくなったらどうしようって。それで逃げた。避けた。傷つけちゃった。ごめんなさい」
桜は何も言わなかった。私は手すりを握る指に力を込めた。
「返事はしなくていい。ただ伝えたかっただけだから。星野さんには関係ないことで、私の——」
「本条さん」
桜の声が私の言葉を断ち切った。
顔を上げた。
桜は泣いていた。
声を出さずに泣いていた。涙が頬を伝い、顎から首筋へと落ちていく。風がその跡を乾かす前に次の涙が溢れる。
「星野さん、なんで」
「ばか」
桜は笑いながら泣いた。
「なんで泣いてるの」
「わかんない。ただ嬉しくて。ふふ、嬉しいって泣いてるの。変だよね」
彼女は制服の袖で目元を拭った。けれど涙は止まらない。
「私ね、本条さんが避けてた時すごく辛かったの。私何かしたってずっと考えて。水族館で何か言い過ぎたかなって」
桜は一歩近づいた。肩が触れそうになる距離。
「でも違った。私も…」
彼女は一度言葉を切った。唇が震えている。
「私も本条さんのことが好き」
風が吹いた。桜の髪が頬にかかる。彼女はそれを手で直さなかった。ただ真っ直ぐに私を見ている。涙で潤んだ瞳が、夕暮れの光を受けてきらきらと光っていた。
「前から好きだった。看病した時から。いや、もっと前からかもしれない。一年生の時、本条さんが私を保健室に連れていってくれた時から。ずっと探してたの。あの時の優しい人って誰だろうって。でも本条さんはいつも一人でいて、誰とも話さなくて、だから声かけられなかった。教室の隅から見てた。ずっと」
「見てた?」
「うん。ずっと。本条さんってば気づいてないでしょ。私がいつもちらちら見てたの」
気づいていなかった。まさか太陽のような彼女が、影のような私を見ていたなんて。
「それでね、白雪しおりを見つけた時、あ、この人だって思ったの。あの声だって。本条さんだって。直感でわかった」
世界が音を立てて回転した。
「えっ」
「知ってたよ。本条さんが白雪しおりだって。ずっと前から」
桜は泣きながら笑った。
「だってね、配信の声って普段の声と少し違うけど、息の仕方とか囁く時のトーンとか、こう耳の奥に残る響きって変わらないの。私、白雪しおりの配信を毎晩聴いてたから。声の質なんてすぐわかる」
私は立ち尽くした。言葉が出ない。
「ずっと知ってたの?」
「うん。でも言わなかった。本条さんが隠したいって思ってるなら私がそれを暴く権利はないから。ただ待ってた。本条さんから言ってくれるのを。いつか言ってくれるって信じてた」
桜は手すりに寄りかかって私の方を向いた。風が彼女のスカートを揺らす。
「でもね、本条さんがなかなか言ってくれないから、私が言おうか迷ったの。でも言えなかった」
「星野さんが白雪しおりの配信聴いてくれてたこと、嬉しかったよ。星野さんの配信で私のこと言ってくれた時、本当に泣きそうになった。それが星野さんだったって知ったら、もっと嬉しい」
桜の目が大きく見開かれた。
「本条さん、星宮るなのこと知ってたの?」
「うん。途中から気づいた。声が似てた。仕草も」
「じゃあ互いに気づいてたの? ずっと?」
「うん。多分」
「ふふ、何なのこれ。二人して隠してたの。お互いに」
桜は大笑いした。涙がまだ頬に残っているのに笑っていた。太陽みたいに鮮やかに。
私も笑った。
可笑しかった。白雪しおりとして囁く私を、星宮るなとして笑う彼女が聴いていた。星宮るなとして語る彼女を、白雪しおりとして聴いていた。
互いに仮面を被ったまま、互いを好きになっていた。
「ばかだね私たち」
桜が言った。
「うん。ばかだね」
私は頷いた。風が吹いて桜の髪が私の頬を掠める。甘いシャンプーの香りがした。
「ねえ本条さん」
「なに?」
「付き合ってくれる?」
短い言葉だった。飾り気のない、真っ直ぐな言葉。
「いいの? 私みたいな人で」
「本条さんじゃなきゃだめ」
桜は手すりから離れ、私の前に立った。近い。息がかかる距離。あのカフェでの時と同じ距離。けれど今日は逃げない。
「私、本条さんの声が好き。白雪しおりの声も好き。本条真白の声も好き。全部好き」
「星野さん」
「桜って呼んで」
「桜」
名前を呼んだ瞬間に桜は笑った。今までで一番嬉しそうな笑顔だった。
「私も呼んでいい?」
「うん」
「真白」
名前で呼ばれた。胸の奥が熱くなる。
「真白。好き。大好き」
桜は私の手を取った。指を絡めた。恋人繋ぎだ。掌が合わさる。彼女の手は温かくて、少し汗ばんでいて、小さかった。
「私も。桜のことが好き。大好き」
言えた。逃げずに言えた。
「私ね、ずっと言いたかったの」
桜は繋いだ手を少しだけ強く握った。
「白雪しおりの配信で『おかえりなさい』って言ってくれるでしょ。あれ、私に言ってくれてるみたいで嬉しかったの。『頑張ったね』って。『もう休んでいいよ』って。あの声が私の夜を救ってくれたの。本条さんが救ってくれたの」
「桜……」
「だからお礼言いたかった。直接。白雪しおりにじゃなくて、本条真白に。あなたの声が、私の夜を変えてくれたって」
涙がまた溢れそうになった。けれど私は笑った。泣くのはやめよう。だって今日は笑いたい。
「私も。星宮るなの配信見てた。桜が私の声を好きだって言ってくれた時、嬉しくて泣きそうになった。それが桜だったって知った時はもっと嬉しかった。桜の声が私の昼を変えてくれた」
「真白の夜と私の昼が、互いを変えてたんだね」
「うん」
「ふふ、なんかすごいね。私たち」
「すごいね」
二人して笑った。屋上に笑い声が響く。風がそれを運んでいく。
桜は私の肩に額を預けた。あの日、熱を出した夜と同じように。けれど今日は熱のせいではない。
「温かい」
桜が呟いた。
「うん」
「このまま帰りたくない」
「帰らなきゃだめでしょ」
「もう少しだけ」
「もう少しだけね」
私は桜の髪にそっと触れた。柔らかい。指の間をさらさらと通り抜けていく。桜はくすぐったそうに目を細めた。
「真白」
「なに?」
「明日からどうしよう」
「何が」
「学校で。どう接すればいいか。今まで通り?」
「今まで通りでいいんじゃない」
「えー彼女って呼んじゃだめ?」
「だめ」
「なんで」
「教室で言ったら騒ぎになるでしょ」
「ふふ、そうだね。じゃあ二人だけの時は?」
「……いいよ」
「やった。じゃあ今から呼ぶね。彼女さん」
「やめて」
「彼女さん、好きです」
「もう」
笑いが止まらなかった。情けないくらいに幸せで可笑しかった。
日は完全に落ちていた。空が深い藍色に変わる。屋上の自動照明が点灯する。白い光が二人を照らした。
「そろそろ帰ろう」
桜が言った。
「うん」
けれど繋いだ手は離さなかった。階段を下りる時も。廊下を歩く時も。校門を出る時も。
「手、離れちゃうよ。誰かに見られたら」
「見られてもいい」
桜は強引に私の手を握り直した。
「もう隠さない。真白のことも、私のことも」
「桜……」
「あ、でも白雪しおりの正体は隠しててね。それは私も言わないから」
「当然でしょ」
「ふふ、じゃあ二人だけの秘密だね」
秘密。共有された秘密。それは以前の孤独な秘密とは違う。二人で抱える秘密は、温かかった。
駅までの道を並んで一緒に歩く。街灯が灯り始めている。人の波に紛れても、繋いだ手だけは離さない。
「ねえ真白」
「なに?」
「今夜の配信、楽しみにしてる」
「え、聴くの?」
「当然でしょ。彼女だよ? 毎晩聴くよ」
「彼女だからって特別なことはしないよ」
「いいのいいの。いつもの真白の声が聴ければそれでいい」
「白雪しおりの声でしょ」
「真白の声だよ」
桜は私の手を強く握った。
「真白の声が好き。白雪しおりも本条真白も、全部好き。これからもずっと好き」
「私も。桜のことがずっと好き」
「約束?」
「約束」
駅に着いた。改札前で立ち止まる。ここが分岐点。桜は左の方面、私は右の方面。帰る方向は違う。
「じゃあまた明日」
桜が言った。
「うん。また明日」
「明日の朝、教室で『おはよう』って言ってね」
「言うよ」
「待ってるから」
桜は手を振って、改札の中へと消えていった。
私は一人、駅の前に立っていた。胸の中が温かい。何かが溢れそうで、でも今度はそれが怖くなかった。
帰りの電車。窓の外を夜の街が流れていく。照明が線を引いて消える。スマホを取り出すと桜からのメッセージが届いていた。
『彼女さんへ。今日のことで一番嬉しかったこと、覚えてる? 真白が「桜」って呼んでくれたこと。あの時の真白の声、白雪しおりよりずっと優しかった。おやすみなさい。好き』
私は画面を見つめたまま長い間動けなかった。返信を打つ。
『桜へ。「おかえりなさい」って言う人に「ただいま」って言う人に出会えてよかった。おやすみなさい。好き』
送信ボタンを押して、スマホを胸の上に置いた。
アパートに帰ると、姉の茜が夕飯を用意して待っていた。
「おかえり、真白。何かいいことあった?」
「ある」
「聞かないけど、顔見ればわかるよ。ふふ、おめでとう」
「ありがとう、お姉ちゃん」
「明日は張り切って配信しなきゃね」
「うん。そうする」
夜。マイクの前に座る。ヘッドホンを装着して配信を開始する。
「こんばんは。白雪しおりです」
いつもの言葉。けれど今夜はその言葉の向こうに確かな意味がある。
「今日も来てくれてありがとうございます。……ねえ、今日ね、とても嬉しいことがあったんです。誰か大切な人に、ちゃんと気持ちを伝えられたんです。逃げそうになったけれど、逃げなかった。そしたらその人も同じ気持ちだったんです」
コメント欄が流れる。「何があったの?」「いいね」
「ふふ、秘密です。でもね、一つだけ言えることがあります」
私はマイクに顔を近づけた。いつもの距離。いつもの位置。けれど声の奥に宿るものは、今夜だけ特別だった。
「あなたの夜に寄り添う誰かがいるなら、その人にちゃんと言ってください。『ありがとう』でも『好き』でも。言えなくなってからじゃ遅いから。今、言える時に」
配信が終わった後、私は窓を開けた。夜の空気が流れ込んでくる。冷たく澄んでいる。
空を見上げると星が見えた。あの屋上で見たのと同じ星。
「桜、好きだ」
夜の空気に向かって小さく呟いた。誰も聞いていない。けれど、届いている気がした。
今夜はきっとよく眠れる。




