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明日

 午後の授業はすべて上の空だった。教室の空気を感じるだけで精一杯。


 気がつけば自分の部屋の中にいた。


 

「好きだ好きだ好きだ」


 言葉が止まらない。溢れて止められない。


 枕を握りしめて丸くなる。可笑しい。狂っている。水族館に行っただけでこうなるなんて。


 手をつないだわけでもない。キスをしたわけでもない。ただ一緒に歩いて魚を見てお揃いのキーホルダーを買っただけだ。それだけでこんなになるなんて。


 姉の茜が帰ってきた。ドアを開ける音が聞こえる。


「真白? まだ部屋にいるの? ご飯できたよ」


「後で食べる」


 声が沈んでいるのがわかったのか、茜はドアの前で立ち止まった。


「何かあった?」


「何もない」


「嘘ね。その声は嘘の時の声だよ」


 姉は容赦ない。


「……好きな人ができたかもしれない」


 沈黙。

 そして茜の声が柔らかく変わった。


「そっか。それで辛いの?」


「会いたくない。近づきたくない。でも会いたい。近づきたい」


「ふふ、それは恋だねえ」


「笑わないで」


「ごめんごめん。でもね真白、逃げてたら伝わらないよ」


「伝える気はない」


「どうして?」


「壊れたくないから。今の関係が壊れたら、もう戻れないから」


 茜はドアの向こうでため息をついた。


「壊れない関係なんてないよ。人はいつか変わるし関係も変わる。でもね真白、壊れない関係っていうのは壊れてもまた作り直せる関係のことなんだよ」


「お姉ちゃん」


「それに、逃げてたら相手も傷つくよ。真白が逃げたせいで相手は自分が何か悪かったんじゃないかって思い込んじゃう。それは優しくないよ」


 優しくない。

 その言葉が胸に刺さった。


「……明日、話す」


「うん。話しなさい。何も言わなくていいからただ傍にいてあげて。それだけでいいこともあるから」


 足音が遠ざかっていった。私は天井を見つめたまま動けなかった。胸の中で想いが荒れ狂っている。好きだという気持ちが、逃げたいという恐怖が、傷つけたくないという優しさが、全部混ざって渦を巻いている。


 ポケットの中のペンギンのキーホルダーを取り出した。隅っこで一人ぼーっと立っているペンギン。


「お前は一人で平気そうだな」


 声をかけてみた。もちろん返事はない。


 明日、桜に会う。話すと約束した。

 何を話せばいいのかわからない。けれど逃げないと約束した。


 夜、配信の時間が来た。マイクの前に座ってヘッドホンを装着する。


 配信開始。

「こんばんは。白雪しおりです」


 声がいつもより少し低かった。


「今日はね、ちょっとね、自分の中にしまっておきたいことがあって。でも、あなたたちの夜にはちゃんと寄り添いたいから、来てくれてありがとうございます」


 コメント欄が流れる。「大丈夫?」「お疲れ様です」「ゆっくりでいいですよ」


「大丈夫です。ただ、今日一日を振り返って思ったんですけど……」


 言葉が詰まる。

「誰かを大切に想う気持ちって、時々怖いんですよね。好きになればなるほど、失くすのが怖くなる。近づきたくて、でも近づいたら壊してしまいそうで。そういう気持ちって、わかりますか?」


 コメント欄が「わかる」「すごくわかる」で埋まる。


「でもね、逃げたら相手を傷つけるって。今日それを教えてもらいました。だから、明日はちゃんと向き合おうと思います。逃げないで。ちゃんと顔を見て」



 明日。明日こそ。

 

 ちゃんと桜の目を見て「おはよう」と言おう。

 それだけでも、今日よりは前進しているはずだ。

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