小さな灯り
一時間目。数学。
先生が数式を黒板に並べていく。私はノートに写すふりをした。手は動いているけれど、心は教室の中央に置き去りにされていた。
休み時間。また彼女の周りに人が集まる。
「昨日のドラマ見た? あの展開やばくない?」
「見た見た! まじで泣いた」
「桜ちゃんは泣かないでしょ?」
「泣いたよぉ、いっぱい」
笑い声。明るい声。私の知らない世界の会話。彼女は私の前でテレビの話をしたことがない。
詩集の話をした。カフェのチーズケーキの話をした。眠れない夜の話をした。
それはきっと、彼女がここで見せているものとは違う側面で、それは私にしか見せていないものだと——思ってしまった。思ってしまったから余計に辛い。
だって、その「違う側面」を見せてくれている人が他にもいるかもしれない。私だけが特別なんて証拠はない。
二時間目。国語。
教科書を読む声。先生の解説。全てが遠い。窓の外では雲がゆっくりと流れている。教室の中の桜の声は聞こえないけれど、彼女が隣の席の女子と小声で話している気配だけが妙にはっきりと感じられた。
「ねえ、次の休み時間一緒にトイレ行かない?」
「いいよー」
日常。ごく普通の日常の会話。それなのになぜか胸がチクッとする。
三時間目が終わった昼休み。桜は委員会があると言って教室を出ていった。残された友人たちは「桜ちゃんいないと寂しいね」と言い合っている。教室の空気が少しだけ暗くなった気がした。
私がいなくなっても誰も気づかないのに…
弁当を机の上に広げる。姉の茜が昨夜詰めてくれたものだ。中身は卵焼きとブロッコリーと小さなハンバーグ。
「ちゃんと食べるんだよ」と言い残して出かけた茜の声を思い出す。
私は箸を割って卵焼きを口に運ぶ。甘い。いつもの味。けれど今日はどこか味が薄く感じられた。
窓の外を見れば校庭でサッカーをしている男子生徒の声が遠く聞こえる。体育館の方からはバレーボールの打つ音が響いてくる。世界中が動いているのに私だけが止まっているような感覚。
スマホを取り出して桜とのトーク履歴を開く。
『今日はありがとう! また誘ってね』
『明日学校でね!』
明るい文面にスタンプ。この画面の中の彼女は私にだけ向けられていたはずのもの。けれど教室の彼女は全員に向けられている。
弁当を食べ終わり机に伏せた。瞼の裏には昨日の桜の横顔が浮かぶ。カフェの窓際でチーズケーキを頬張りながら「本条さんといると楽だ」と言った時のあの柔らかい表情。
あれは嘘だったの?
嘘じゃないはずだ。彼女は嘘をつく人じゃない。
でも——。
「本条さん」
肩を叩かれた。
驚いて顔を上げると桜が目の前に立っていた。委員会が終わったのだろう。少し息が切れている。
「寝てた? ごめん起こしちゃって」
「ううん大丈夫」
「ふふ顔に跡ついてる」
彼女は何のためらいもなく手を伸ばし、私の頬に触れた。指先で軽く何かを拭う。その感触が一瞬で消えた。
「直った。ねえお弁当もう食べた?」
「うん、食べた」
「そっか。じゃあ昼休みあと少し、散歩しない? 屋上開いてるって」
周囲の目が集まるのがわかった。星野桜がまた本条真白の席に来ている。いつものことではない。クラスメイトたちが好奇の目を向けている。
「え、でも……」
「ちょっとだけ。新鮮な空気吸いたいな」
彼女は首を傾げて悪戯っぽく笑った。その笑顔は教室のみんなに向けているものと——いや、比べるのはやめよう。
「うん。行こう」
立ち上がった瞬間、胸の灰色が少しだけ薄くなった気がした。
屋上への階段を上がる。桜は先を歩きながら、何度も振り返って私を確認する。待ってくれている。私を。
屋上に出ると風が吹いた。春の風。少し冷たいけれど気持ちいい。
「いい天気だね」
桜はフェンスに手をかけて空を見上げた。私は隣に立つ。二人だけの空間。教室のざわめきが遠い。
「ねえ本条さん」
「なに?」
「私さ、今日委員会で言われたんだけど来月の文化祭の実行委員やらないかって」
「そうなんだ」
「やろうかなって思ってるの。でもそうしたら忙しくなって、本条さんと会えなくなるかも」
彼女は私を見た。
「寂しいかな」
その言葉を聞いて、胸の灰色が溶けていくのがわかった。じんわりと、ゆっくりと。
「寂しい」
素直に言えた。自分でも驚くほど。桜は嬉しそうに目を細めた。
「じゃあやめようかな」
「それはだめでしょ。星野さんがやりたいならやればいい」
「ふふ、じゃあやる。でもお昼はちゃんと本条さんと食べるからね」
「委員会がある日は?」
「その時はその時。また日曜日に遊べばいいし」
「うん」
風が吹いて桜の髪が揺れた。彼女は目を細めて空を見上げている。私はその横顔を見ながら、胸の奥に残った灰色の欠片をそっと握りしめた。
消えないものは消えない。彼女の周りに人が集まるのは当たり前で、私が独占できないのも当たり前だ。
でも——
「お昼、一緒に食べよう」
「うん。約束」
その約束だけは灰色の中で小さく光っていた。
予鈴が鳴る。私たちは屋上を後にした。階段を下りながら桜が鼻歌を歌っている。そのメロディがどこか白雪しおりの配信のBGMに似ていることに気づいた。
きっと気のせいだ。
教室に戻るとクラスメイトたちの視線が突き刺さる。でも今日は少しだけ平気だった。
席に座り四時間目の教科書を開く。胸の奥はまだ完全には晴れていない。
灰色はまだそこにある。でも、その中に小さな灯りがともった。
それだけでも、十分だと思った。




