日曜日の約束
待ち合わせは午後一時、駅前の銅像の前だった。
前日に桜から送られてきたメッセージには「私服で来てね」とだけ書かれていて、それが妙に私を緊張させた。
学校の制服ならまだしも、私服となれば自分がどんな人間なのかを晒すようなもの。クローゼットを開けては閉め、また開けてを繰り返した昨夜。
結局白いブラウスに落ち着いた色のカーディガン、それに細身のパンツという無難な組み合わせに落ち着いた。
鏡の前で何度も確認したが、普段着ている服なのに今日はやけに他人行儀に見えた。
待ち合わせ場所に着くと桜の姿が見える。白いワンピースに薄手のデニムジャケット、足元はスニーカー。
道行く人が思わず振り返るような美少女。そんな彼女は私に気づくと大きく手を振った。
「本条さん! おはよう、じゃなくてこんにちは!」
「こんにちは」
近づくと桜は私の全身をじっと見てそれからにっこり笑った。
「いいね、その服。落ち着いてて似合ってる」
「あ、ありがとう……星野さんこそ、かわいい」
「えへへ、ありがと。今日は張り切って来ちゃった」
彼女はそう言ってぱんぱんに膨らんだトートバッグを揺らした。何が入っているのか聞くのは野暮な気がして私は黙って隣に並んだ。
電車に乗って二駅。私たちは窓の外を流れる街並みを眺めていた。桜は時々「あの店、前に行ったことある」とか「ここのカフェ、パンケーキが美味しいんだよ」とか小さな声で教えてくれた。
私はそれに相槌を打ちながら、彼女の横顔を盗み見ていた。教室で見せる笑顔とは少し違う、リラックスした表情。肩の力が抜けている。
降りた駅は初めて来る場所だった。駅ビルを抜けると細い商店街が続いている。
小さな雑貨屋や古本屋、カフェが並ぶ落ち着いた通りだ。「この辺、私のお気に入りなんだ」
桜はそう言って迷いなく一軒の古本屋に入っていった。
店内は紙とインクの匂いがした。天井まで届く本棚。隙間なく並んだ背表紙。桜は迷わず奥の棚へ向かっていく。
「本条さん、ここ来たことある?」
「ううん、初めて」
「だよね。私もたまたま見つけたんだ」
彼女は棚から一冊の詩集を抜き取った。表紙には月と猫のイラスト。頁をめくる音が静かな店内に響く。
「本条さんって、こういうの好きそう」
「どうして?」
「なんとなく。静かなもの、好きそうだなって」
図星だった。私は本を受け取りぱらぱらとめくった。短い詩が並んでいる。囁くような言葉たち。声に出して読みたくなるような、そんなリズム。
「これ、いいね」
「でしょ? 買おうかな」
桜は嬉しそうにレジへ向かった。私はその背中を追いながら、この人はなぜ私にこんなに優しいのだろうと考えていた。
ただの親切? それとも、何か別の理由があるのだろうか。
古本屋を出ると、今度は小さなカフェに入った。店内はアンティークの家具と柔らかな照明で満たされている。
桜は迷わず窓際の席を選んだ。外の商店街を見下ろせる特等席だ。
「ここ、チーズケーキが有名なの」
桜はそう言って迷わずチーズケーキと紅茶を注文した。私も同じものを頼んだ。
運ばれてきたチーズケーキは濃厚なのに後味がさっぱりしていて確かに美味しかった。紅茶の香りがふわりと鼻を抜ける。
「どう?」
「美味しい」
「でしょ? ここ見つけた時、絶対誰かと来たいって思ったんだ」
誰かと。その言葉が、胸の奥に小さな灯りをともす。私はその「誰か」になれたのだろうか。
「星野さんって、友達多いよね。一緒に来たい人たくさんいるんじゃない?」
「うん、まあそうなんだけど」
桜はティーカップを持ち上げ一口飲んでから、少しだけ目を伏せた。
「学校の友達とは、なんていうかそういうのと違うんだよね。みんなと一緒にいる時の私と、こうやって二人でいる時の私ってちょっと違うというか」
「どう違うの?」
「うーん……」
彼女はしばらく考えてからぽつりと言った。
「学校だと、みんなが楽しんでくれるのが嬉しいからついサービスしちゃうの。笑わせなきゃとか、盛り上げなきゃとか。でも本条さんと一緒にいるときは、そういうの考えなくていい。ただそこにいるだけでいい」
それは、私にとっては意外な言葉だった。クラスの中心人物で、いつも笑顔を振りまいている彼女がそんなふうに思っていたなんて。
「私も……」
口が勝手に動いた。
「私も、星野さんといると楽だなって思う」
「ほんと?」
「うん。私、人と話すの苦手だしクラスでもほとんど喋らないし……でも、星野さんとだったらなぜか言葉が出てくる」
桜は目を丸くしてそれからゆっくりと微笑んだ。それは、今まで見た中で一番柔らかい笑顔だった。
「嬉しい」
彼女はそう言ってフォークでチーズケーキを一口分すくい私の皿に乗せた。
「はい、お裾分け」
「えっ」
「私の奢り。今日はお礼の日だからね」
「お礼は私が……」
「いいのいいの。私がしたくてしてるだけだから」
そう言われると何も言えなくなる。私はおとなしくその一切れを口に運んだ。甘さが口の中に広がる。桜は満足そうに頷いた。
それから私たちはとりとめのない話をした。好きな食べ物のこと、苦手な科目のことや最近見た映画のこと。
話しているうちに時間があっという間に過ぎていく。気づけば窓の外は柔らかな夕暮れの色に染まっていた。
「そろそろ出ようか」
桜がそう言って立ち上がった。私も続く。会計を済ませて外に出ると商店街は橙色の光に包まれていた。
帰りの電車の中。私たちは並んで座り窓の外を眺めていた。会話は途切れ途切れで、でもその沈黙は気まずくはなかった。むしろ、それが心地よかった。
「今日、楽しかった」
私はぽつりと言った。桜は横を向いて、にこりと笑った。
「私も。また行こうね」
「うん」
駅に着き改札を出るともう夜の気配がしていた。街灯がぽつぽつと灯り始めている。
「じゃあ、また明日」
桜はそう言って手を振った。
「うん、また明日」
私も手を振り返す。彼女はくるりと向きを変え、人混みの中へと消えていった。
家までの帰り道、私はずっと考えていた。
星野桜は私の正体を知らない。白雪しおりが私だと気づいていない。でも、今日一緒に過ごした時間は確かに本物だった。彼女の笑顔も、言葉も沈黙も、全部。
もしも彼女が知ったらどう思うだろうか。その不安と、それでも今日の幸せを手放したくないという気持ちが胸の中で静かにせめぎ合っていた。
アパートに帰り着き、部屋の電気をつけるとスマホが震えた。桜からのメッセージだ。
『今日はありがとう! 今度は私のお気に入りのASMR配信者さんの話、もっとするね』
私はその文面を何度も読み返した。知っている。彼女が話したいと思っている配信者は私のことだ。
でも、まだ言えない。
もう少しだけこの距離を大切にしたいと思った。
『こちらこそありがとう。また誘ってね』
返信を送り、スマホをベッドに置く。窓の外にはきれいな月が出ていた。まるで彼女がくれた詩集の表紙みたいに。
今夜の配信ではいつもより少しだけ声に温かさが混ざるかもしれない。
それでもいいだろうか。
誰かにとっての白雪しおりではなく本条真白としての時間を少しだけ抱きしめながら。私はヘッドホンを手に取りスイッチを入れた。




