数字がおかしい
配信を終えたのは深夜二時をまわった頃だった。
窓の外はしんと静まりかえり、アパートの一室に残るのはヘッドホンの微かなノイズと自分の呼吸の音だけ。
私はいつものように配信のアーカイブを確認し簡単にサムネイルを整えてから、ベッドに倒れ込むように横になった。
ASMR配信者——そう名乗るようになってもう二年になる。
顔も出さなければ、名前も本名ではない声だけの存在。
囁くように話しかけ、時には耳かきの音を立て時にはページをめくる音を届ける。
視聴者はそう多くはない。同時接続が二桁に乗れば御の字で、コメント欄も穏やかに流れていく。
それでよかった。誰かの眠る前。ほんの少しの時間に寄り添えたら。
そんな慎ましい願いだけを抱えて私はマイクの前に座り続けていた。
あの朝が来るまでは。
目を覚ましたのは携帯の通知が鳴りやまなかったからだ。
枕元で震え続ける端末を手に取り、半分眠ったまま画面を見る。
数字がおかしかった。いつもなら一桁の通知がなぜか三桁になっている。
フォロワーの数が目の前で増えていく。まるで蛇口をひねったように止まらない。
「……なに、これ」
呟いた声が、朝の空気に溶けていく。
私は慌てて配信アーカイブの再生数を確認し、そして——息を呑んだ。
前夜に投稿した動画の再生数が六桁に届こうとしていたのだ。
原因はすぐにわかった。
タイムラインを追えばある切り抜き動画が爆発的に拡散されていた。それは人気VTuberの配信のワンシーンだった。
画面の中で彼女は少しだけ声を潛めてこう言っていた。
「最近ね、寝る前に聴いてるASMRがあるの。すごく……優しい声で。なんていうか、安心するんだよね。あの声ずっと聴いていたいなって思う」
その配信の中で彼女は私の配信の名前を挙げたわけではなかった。けれど、リスナーは鋭い。
特定され切り抜きが作られて、私のところへなだれ込んできた。
「ば、バズってる……!」
声が裏返った。誰も聞いていないのにそんな言葉が漏れる。
スマートフォンを握りしめたまま私はしばらく動けなかった。心臓がうるさい。嬉しいのか怖いのか自分でもわからない。
——あの声が、私の声を。
——あの人が、私の囁きを、眠る前に聴いていた。
想像するだけで顔が熱くなる。けれど同時に底知れない不安も押し寄せる。
急に注目されて、期待されてその期待に応えられなかったら。囁き一つで誰かをがっかりさせてしまったら。
私はしばらくスマートフォンを伏せて天井を見つめていた。
それでも夜は来る。
配信を始めなければ何も変わらない。震える指で機材をセッティングし、ヘッドホンを装着する。いつものように深呼吸を一つ。
——大丈夫。いつも通りにやればいい。
配信を開始するといつもよりずっと多い視聴者が入ってくる。コメント欄が見たことのない速さで流れていく。
「はじめまして」「切り抜きから来ました」
私はマイクに向かっていつものように囁いた。
「こんばんは。今夜も、あなたの眠る時間に寄り添えたら嬉しいです」
声が少しだけ震えた。けれど、それでよかった。完璧じゃなくていい。ただ、届けばいい。
配信が終わる頃にはコメント欄が温かい言葉で埋め尽くされる。その中にぽつりとこう書かれていた。
「あなたの声で、今日も眠れそうです」
——ああ、これでいいんだ。
私は静かに配信を締めくくりヘッドホンを外した。窓の外はまた深夜の静けさに包まれている。けれどその静けさは、以前とは少しだけ違って聞こえた。
誰かの夜に私の声が届いている。
その事実が胸の奥で小さく確かに灯っていた。




