続々・異世界転移したけど、とりあえずBBQだ ~テキサスの男はサンクスギビングを分かち合う~
頭を空っぽにしてお読みいただけると幸いです。
異世界に来て、一ヶ月が経っていた。
ビリー・"ピットボス"・ジョンソンの一日は、相変わらず火と煙で回っていた。
夜明け前に起き、スモーカーの温度計を確認し、薪をくべて肉を焼く。
違うのは、空に月が二つあること、行列に並ぶ客の耳に特徴があることくらいだ。
草原のBBQピット──いや、もはやそれはピットという規模を超えていた。
ルウ率いるキルシュ狩猟団が魔物を狩り、ドワーフの鍛冶師たちが鉄を組み、エルフが森から香りのいい薪を運び、村の連中が芋を掘り、子供たちが走り回る。
草原の一角には、いつのまにか石組みの炉が並び、長テーブルが据えられ、樽が転がり、煙の絶えない一つの集落のようなものが出来上がっていた。
人はそこを「スモーク・フィールド」と呼び始めていた。
牛の日──インデペンデンス・デイ。
豚の日──グローリー・サンデー。
二つの祭りが根付き、ビリーの肉は、この地方の伝説になっていた。
だが、ビリーはふとした拍子に空を見上げる癖がついていた。
二つの月を見上げて、それから目を細める。
テキサスの空には、月は一つしかなかった。
****
その朝。
ビリーはスモーカーの前で、珍しく手を止めていた。
ルウがエールの木樽を転がしてきて、その隣にどっかりと腰を下ろした。
銀色の狼耳。鋭い金色の瞳。
この一ヶ月でその目はずいぶん柔らかくなった。
「どうした、ビリー。火が泣いてるぞ?」
「火が泣く、か。嬢ちゃんも上手いこと言うようになったな」
ビリーは笑った。
だが、いつものニカッとした笑いより、少しだけ薄かった。
ルウの耳が、ぴくりと動いた。
この一ヶ月、ずっとこの男の横にいた。
ヒゲの奥の口角がどれだけ上がるか──ルウはビリーの機嫌を匂いと同じくらい正確に読めるようになっていた。
「何かあったのか」
ビリーは薪を一本、ファイアボックスにくべた。
オレンジの火が、ぱちりと爆ぜる。
「元居た世界だと、今日があの日かと思ってな」
「何の日なんだ?」
「サンクスギビング」
ルウは首を傾げた。
聞いたことのない言葉だった。
「アメリカの祝日でな、感謝祭ってやつだ。」
「また祝日か。お前の国は祝日だらけだな」
「ああ。だが、サンクスギビングは、独立記念日とはちょっと違う」
ビリーは、エールを一口飲んだ。
しばらく煙の向こうを見つめていた。
「独立記念日は国の誕生日だ。派手にやる。花火を上げて、ビールを浴びるほど飲んで、国中で肉を焼いて、わぁっと騒ぐ祭りだ」
ビリーの声が、少し低くなった。
「だが、サンクスギビングはもっと静かだ。十一月の末、寒くなり始めた頃にな。遠くからでも家族が帰ってくる。一年に一回、テーブルを囲むためだけにみんな帰ってくるんだ」
ルウは黙って聞いていた。
「デカいテーブルに、デカいターキーを一羽どんと置く。家族みんなで手を繋いで、この一年の恵みに感謝して、それから食う。腹がはち切れるまで食う。それがサンクスギビングだ」
ビリーはエールの木のジョッキを両手で包むように持っていた。
「うちはな、じいさんがデカいターキーを焼くのが恒例だった。じいさんが死んでからは俺が焼いた。親父も、おふくろも、妹も、妹の旦那も、甥っ子姪っ子も、みんな集まって。家にぎゅうぎゅうに詰まってな」
ビリーは、ふっと笑った。
その笑いの中にルウは初めて、この巨漢の寂しさを見た気がした。
「今頃、向こうも──いや」
ビリーは首を振った。
「向こうは今、何月だろうな。時間の流れが同じかも分からねえ。だが、まあ──」
エールを飲み干した。
「向こうのことを考えてもしょうがねえ。俺は今、ここにいる」
ルウは、しばらく考えていた。
それから、おもむろに立ち上がった。
「ビリー、そのターキーってのは──デカい鳥か」
「ん?ああ。アメリカのターキーは、デカいやつで二十ポンド(約9キロ)はある。丸々太ったごちそうの鳥だ」
「ふぅん」
ルウの口角が、にやりと持ち上がった。
犬歯が、朝の光にきらりと光る。
「デカい鳥なら心当たりがある」
****
ルウが連れてきたのは、狩猟団の精鋭五人だった。
全員、目が据わっていた。
この一ヶ月で、彼らはすっかりビリーの肉のために命を懸ける連中になっていた。
「ビリー」
ルウが地図を広げた。
獣皮に描かれた、この地方の地図だ。
「ここから北。霧立つ峡谷。そこに、コカトリス・ロックの群れがいる」
「コカトリス・ロック?」
「巨鳥の魔物だ。体長十三フィート(約4メートル)。空を飛び、脚は牛を一蹴りで殺せるほど強い。だが──」
ルウは、ごくりと喉を鳴らした。
「肉は白くて柔らかい。ニワトリに似てる。狩るのが難しいから滅多に食卓に上らないが、一度食えば忘れられないって言われてる。問題は空を飛ぶことだ。地上の魔物と違って突進してこない。上空から急降下して、蹴って、また飛び立つ。フルパーティの冒険者でも矢が当たらずに撤退することが多い」
ビリーは地図を見つめた。
その目が──変わった。
ルウはもう、何度もこの目を見ている。
戦士の目でも、冒険者の目でもない。
ピットマスターの目だ。
「白くて柔らかい肉……」
ビリーが立ち上がった。
帽子のつばを持ち上げ、にやりと笑う。
「サンクスギビングには、ターキーが要る。ひと狩り行くぞ」
****
霧立つ峡谷。
深い谷の両側に切り立った崖がそびえ、その底を冷たい霧が流れている。
崖の中腹には無数の岩棚があり、そこに巨大な鳥の巣が点在していた。
コカトリス・ロック。
灰褐色の羽毛に覆われた、ダチョウとニワトリを混ぜたような巨鳥。
鋭い嘴と岩を砕く鉤爪。翼を広げれば、その影が谷の底まで届く。
一羽が、岩棚から飛び立った。
風を切り、谷の上空を旋回し──こちらを見ていた。
「来るぞ!」
ルウが叫んだ瞬間、コカトリス・ロックが翼を畳んで急降下した。
弾丸のような速度。狙いはビリー。
ビリーは膝をつき、レミントン700を構えた。
元アメリカ海兵隊。砂漠でライフルを握った男。
だが──。
「速ぇ……!」
スコープの中で、急降下する巨鳥が捉えきれない。
地上を突進してくるグラン・ビーストやガルガン・ボアとは、まるで違う。
動きが三次元だ。
上下左右、そして奥行き。
狙いが定まらない。
ビリーは引き金を引いた。
銃声が谷にこだまする。
しかし、弾丸は巨鳥の翼をかすめただけだった。
コカトリス・ロックが鉤爪を伸ばし、ビリーの頭上をかすめて、再び舞い上がった。
爪が帽子を弾き飛ばした。
あと数センチ下なら、頭が砕けていた。
「ビリー!」
ルウが駆け寄った。
ビリーは尻もちをついたまま、舞い上がる巨鳥を見上げていた。
帽子を拾い、土を払いかぶり直す。
「……こいつぁ、勝手が違うな」
ビリーは、自分のライフルを見た。
地上の的には強い。
だが、空を飛び回る相手には向かない。
「ルウ。あれに矢を当てられるか」
「正面からは無理だ。速すぎる。だが──」
ルウは、自分の弓使い──山猫耳の女を見た。
「あいつが一発、翼に当てて飛行を乱せれば。落ちてくる瞬間なら私の大剣が届く」
「飛行を乱す、か」
ビリーは、しばらく考えていた。
それから、ふと自分の足元──道具箱に目をやった。
チェーンソー。ライフル。スライスナイフ。ボーニングナイフ。
そして、その隅に丸めて突っ込んであった一枚の網。
バーベキュー用の金網の予備だった。
ビリーの目が、きらりと光った。
「閃いたぞ」
まず、ルウたちの槍と剣の柄、それに森から切り出した若木を組み合わせ、巨大な投擲網を作る。
骨組みにビリー私物のグリルの金網を縫い合わせ、四隅に重し代わりの石をくくりつけた。
テキサスの牧場でも、暴れる家畜を捕らえるのに似たような網を使う。原理は同じだ。
「いいか。俺がライフルで威嚇して、あいつを低空に誘い込む。低く飛んだところを弓使いが翼を狙え。狙うのは墜とすためじゃねえ。一瞬、バランスを崩させればいい」
「それで?」
「バランスを崩して低空をふらついた瞬間、お前らがこの網を投げる。脚と翼を絡める。地面に落ちたらこっちのもんだ」
ルウは、ビリーを見た。
この男は、ライフルでもチェーンソーでもなく、網と仲間の手で、空の魔物を狩ろうとしている。
「ビリーは、戦士より戦術家だな」
「BBQも狩りも、段取りが九割さ。火を入れる前に勝負は決まってる」
****
巨鳥が、再び舞い上がった。
今度は二羽。番だ。
ビリーがライフルを構え、わざと外して撃った。
弾丸が崖を削り、火花を散らす。
怒ったコカトリス・ロックが、咆哮を上げて急降下する。
ビリーは身を低くし、岩陰へ走った。
低く、低く、誘い込む。
「今だ!」
山猫耳の弓使いが、矢を放った。
ひゅう、と風を切る音。
矢は、急降下する巨鳥の右翼の付け根に突き刺さった。
悲鳴とともにコカトリス・ロックが体勢を崩し、ぐらりと傾いて低空でよろめいた。
「網!」
ビリーのデカい声。
ルウと槍使いと盾持ちの大男が、息を合わせて投擲網を投げ上げた。
網が、空中で大きく広がった。
石の重しが弧を描き、ふらつく巨鳥の翼と脚に、ばさりと絡みつく。
コカトリス・ロックが、もがいた。
網が翼の動きを封じ、飛べない。
巨鳥が、谷の底に向かって落ちていく。
地面に叩きつけられる寸前、ルウが跳んだ。
大剣を振りかぶり、落下する巨鳥の首筋へ。
一閃。
鋭い刃が、確実に急所を断った。
どさり、と巨体が地に落ちた。
羽毛が舞い、霧が渦を巻いた。
ビリーが、岩陰から歩み出た。
倒れた巨鳥のそばに膝をつき、その胸に掌を当てた。
分厚い胸肉。指が沈むほど、たっぷりとした白い筋肉。
脂は少ない。だが、繊維はきめ細かく、しっとりしている。
ビリーの口角が、ゆっくりと持ち上がった。
「コイツは最高のターキーだ」
汗を拭い、息を整えながらルウが、大剣を肩に担いで歩み寄ってきた。
「網で空の魔物を狩るなんて、聞いたこともない」
「テキサスの男は、手持ちのカードで勝負するもんさ。ライフルが効かねえなら、頭を使う」
ビリーは立ち上がり、番の片割れが、岩棚の上からこちらを見下ろしているのに気づいた。
ビリーは、ライフルを下ろした。
番の片方を、その鳥に向けて手を振った。
「もう一羽は、見逃してやれ」
「……いいのか?あれも良い肉だぞ」
「サンクスギビングはな、感謝の日だ。命を全部獲り尽くす日じゃねえ。一羽分けてもらえりゃ、それで十分だ」
岩棚の巨鳥は、しばらくこちらを見ていたが、やがて翼を広げ霧の奥へと飛び去っていった。
ルウは、その背中を見送るビリーの横顔を黙って見ていた。
****
解体は、いつも以上に丁寧だった。
ビリーは、まず巨鳥の羽根をむしり、湯を沸かして産毛を処理した。
次に内臓を抜き、首と脚を落とし、巨大な胴体を露わにした。
「鳥ってのはな」
ボーニングナイフを動かしながら、ビリーはルウに語った。
「牛や豚と違って、嘘がつけねえ肉なんだ」
「嘘?」
「牛は脂が多い。豚はもっと多い。だから多少火が強くても脂が肉を守ってくれる。多少失敗してもごまかしが効く。だが、鳥は脂が少ない。胸肉なんざ、ほとんど脂がねえ」
ビリーは、巨鳥の胸肉を指で押した。
しっとりとした白い肉。
「火が強すぎりゃ、あっという間にパサパサになる。一瞬で水分が抜けて、おがくずみたいになる。鳥を焼くってのは、刃の上を歩くようなもんだ──だから、面白い」
ビリーは、にやりと笑った。
「ごまかしの効かねえ肉を完璧に焼く。それができて初めて一人前のピットマスターだ。じいさんがそう言ってた」
****
草原に戻ると、ビリーはすぐにある作業を始めた。
巨大な木桶を用意させ、そこに大量の水を張った。
塩をこれでもかと溶かす。
さらに村の砂糖、潰したガーリック、黒胡椒、そしてエルフが森から摘んできた香草を数種類。
ルウが覗き込んだ。
「これは……スープか?」
「ブラインだ」
「ブライン?」
「塩水漬けさ。鳥を焼く前に、こいつに何時間も漬け込む」
ビリーは、巨大な胸肉と腿肉をその塩水にどぶんと沈めた。
「鳥は水分が少ない。だから焼く前に水を飲ませてやるんだ。塩水に漬けると肉が水分を抱え込む。塩が繊維の構造を変えて水を逃さなくなる。そうすりゃ長時間焼いてもパサつかねえ」
ルウは、感心したように尻尾を揺らした。
「焼く前に……仕込みがあるのか」
「ドライラブが『外側からの愛』なら、ブラインは『内側からの愛』だ。鳥には両方が要る。外も内もしっかり愛してやらねえと、すぐにヘソを曲げる。繊細な野郎なんだよ」
ビリーは、木桶の上に大きな葉で蓋をした。
「四時間、漬ける。その間にピットの準備だ」
****
ピットの準備をしながら、ビリーはいつもと違うことをしていた。
道具箱から取り出した、いくつもの小瓶。それを地面に並べていく。
ルウが、それを覗き込んだ。
「今日は、ずいぶん瓶が多いな」
「ああ。今日は、特別な日だからな」
ビリーは、瓶を一つずつ手に取りながら語り始めた。
「なあ、嬢ちゃん。アメリカのBBQってのはな、一つじゃねえんだ」
「一つじゃない?」
「広い国だからな。州が違えば、流派が違う。同じBBQでも土地ごとに全然違う味になる」
ビリーは、最初の瓶を掲げた。中身は、塩と粗挽きの黒胡椒。
「これがテキサス。俺の故郷だ。塩と胡椒だけ。肉そのものの味で勝負する。シンプルイズベスト。男の中の男のスタイルだ」
次の瓶。
赤褐色の酸っぱい匂いのする液体。
「これがカロライナ。お前さんもプルドポークの時に食ったろ。ビネガーが主役。酢で脂を切って後味を軽くする。さっぱりした粋なスタイルだ」
三つ目の瓶。
とろりとした濃い赤褐色のソース。
「で、こいつがカンザスシティ。トマトとモラセスで作る甘くて濃いソース。肉にべったり塗って、テカテカに照り焼く。アメリカで一番有名な『BBQソース』ってのは、大体これだ。子供が大喜びする味さ」
四つ目。
パプリカを中心とした赤いスパイスの粉。
「最後がメンフィス。豚のリブをソースを使わずにこのスパイスだけで仕上げる『ドライリブ』が名物だ。スパイスの香りで攻める、ちょいと通好みのスタイルだな」
ルウは、四つの瓶を見比べた。
「同じ『BBQ』なのに、こんなに違うのか」
「ああ。それぞれの土地に、それぞれの誇りがある。テキサス人はテキサスが一番だと思ってるし、カンザスの連中はカンザスが一番だと思ってる。みんな自分のじいさんとおふくろの味が一番だと思ってる」
ビリーは、ニカッと笑った。
「でもな。サンクスギビングってのは、家族が集まる日だ。遠くからバラバラに散らばってた連中が、一つのテーブルに帰ってくる日だ。だったら──」
ビリーは、四つの瓶をぐるりと両手で囲うように抱えた。
「今日は、アメリカ全部をこのテーブルに集めようと思ってな。テキサスも、カロライナも、カンザスも、メンフィスも。バラバラの流派を一羽の鳥の上で、全部一緒にしてやる」
****
四時間後。
ブラインから引き上げられた巨鳥の肉は、見違えるほど艶やかになっていた。
塩水をたっぷり吸い込み、しっとりと張りのある白い肌。
ビリーはそれを丁寧に拭き、部位ごとに分けていった。
胸肉。腿肉。手羽。
そして巨大な骨付きの背肉。
ビリーは、それぞれの部位に、違う流派を施していった。
胸肉には、テキサス。塩と粗挽き黒胡椒だけ。
一番淡白で繊細な部位。余計なものを足さず、ブラインの恵みと煙だけで勝負する。
腿肉には、メンフィス。パプリカ、ガーリック、黒胡椒、ブラウンシュガーのドライラブをたっぷりと。
脂と旨味の濃い部位をスパイスの香りでさらに引き立てる。
手羽には、カンザスシティ。トマトとモラセスのソースを何度も塗り重ねる。
子供たちが一番喜ぶ、甘くてテカテカの味。手づかみでかぶりつく楽しい部位。
そして骨付きの背肉には、カロライナ。焼き上がりにビネガーソースをまとわせる。
脂を切って、最後をさっぱりと締める。
ビリーの大きな手が、肉の一片一片を撫でていく。
まるで、遠く離れた家族の一人一人を順番に抱きしめるように。
「全員、違う味だ。だが、全員、同じ鳥だ」
ビリーは、独り言のように呟いた。
「サンクスギビングってのは、そういうもんだ」
****
ピットに火が入る。
今回の薪は、エルフが運んできた甘い樹液の広葉樹。
だが、ビリーは火加減をこれまでとは変えた。
「鳥は、牛や豚みたいに長時間は燻さねえ。長く焼きすぎるとパサつく。それに──」
ビリーは、ファイアボックスの炭の量を慎重に調整した。
「鳥は皮が命だ。パリッとさせたい。皮がぐにゃっとしてたら台無しだ。低温でじっくり中まで火を通して、最後にちょいと火を強めて、皮をパリッと仕上げる。この『最後のひと押し』が、鳥の腕の見せ所だ」
巨鳥の各部位が、グリルの上に並べられた。
胸肉は火から遠く。腿肉は中ほど。
手羽は、ソースが焦げないように、さらに遠くへ。
煙が、立ち上り始めた。
最初は白く、やがて薄い青に変わる。
甘い樹液の煙に、ブラインと香草の香りと、四つの流派のスパイスの匂いが混じり合う。
テキサスの黒胡椒の鋭い香り。
メンフィスのパプリカの甘い香ばしさ。
カンザスのトマトソースがカラメル化する濃厚な甘い匂い。
そして、ふわりと漂う鳥肉そのものの優しい香り。
四つのアメリカが、一つの煙になって異世界の草原に立ち上っていった。
「あとは待つだけだ」
「今回は何時間だ?」
ルウが、恒例になった質問をした。
前回は十八時間。その前は十二時間。
さて今度は──。
「──六時間」
「六時間!?短いな!」
「鳥だからな。長けりゃいいってもんじゃねえ。肉によって向き合い方は違う。牛には十二時間、豚には十八時間、鳥には六時間。その肉が一番輝く時間を見極める。それがピットマスターの仕事だ」
****
六時間の火の番の間、ビリーはいつものように、ピットの前を離れなかった。
しかし、その火の番は、これまでとは少し違った。
ビリーは合間を縫って、別の鍋を仕込み始めたのだ。
サンクスギビングには、ターキーだけでは足りない。
サイドメニューの数々こそが、感謝祭の食卓を完成させる。
一つ目。
村人が掘ってきた紫がかった芋を大量に茹で、潰し、バターとドワーフが分けてくれた山羊の乳を混ぜ込んだ。
マッシュポテト。なめらかで温かい。
二つ目。
巨鳥の骨と内臓、香味野菜を煮込んで濃厚な出汁を取った。
それを煮詰めて、とろりとしていてコクがある茶色の液体に仕上げる。
グレイビーソース。マッシュポテトにも、ターキーにも、何にでもかけるサンクスギビングの魔法のソース。
三つ目。
この世界の赤くて酸っぱい木の実──クランベリーに似た実──を、砂糖と一緒にコトコト煮詰めた。
ルビー色の甘酸っぱいジャム。
クランベリーソース。ターキーの淡白な肉に、甘酸っぱさを添えるサンクスギビングの定番だ。
「鳥には、酸味と甘味が要る」
ルビー色のソースをかき混ぜながら、ビリーは言った。
「淡白な肉だからな。引き立て役が要る。甘酸っぱいやつが口の中をぱっと明るくしてくれる」
四つ目。
パンをちぎって巨鳥の出汁と香草、炒めた香味野菜を混ぜ込み、焼き上げた。
スタッフィング(詰め物)。本来はターキーのお腹に詰めて焼くものだが、今回は鍋で別に焼いた。
ルウは、その作業をずっと横で見ていた。
「ビリー、肉のとき以上に楽しそうだな」
「……バレたか」
ビリーは、手を止めた。
それから少しだけ照れたように笑った。
マッシュポテトをゆっくりとかき混ぜる。
「サンクスギビングの料理はな、全ておふくろが作ってた。マッシュポテトも、グレイビーも、クランベリーソースも、スタッフィングも。俺は鳥を焼くだけで、あとはおふくろの仕事だった」
ビリーの手が、優しく動く。
「俺は、これを作るのは初めてなんだ。おふくろの隣で見てただけだったからな。味は覚えてる。匂いも覚えてる。だからそれを頼りに作ってる」
ビリーは、マッシュポテトを少しすくって口に運んだ。
目を閉じて味わう。
「……ちょっと違うな。おふくろのはもうちょっと、なんつーか──」
ビリーは、しばらく考えていた。
「……まあいい。近づいてはいる」
ルウは、何も言わずにビリーの横で、ルビー色のソースをかき混ぜるのを手伝った。
二つの月が、ゆっくりと空を渡っていった。
****
匂いが風に乗った。
甘い樹液の煙と、四つの流派のスパイスと、グレイビーの濃厚な香りと、クランベリーソースの甘酸っぱさ。
それらが渾然一体となって草原を越え、村を越え、森を越えて広がっていく。
例によって、客が集まり始めた。
最初に来たのは、村の住人たち。
次に商人。馬車を三台連ねてきた。
エルフの一団が、いつもより正装で現れた。森で摘んだという花を髪に挿している。
ドワーフの鍛冶師たちが、樽をずらりと並べてやってきた。
空には、ワイバーンが旋回している。竜騎士が、その背から手を振っていた。
今日はいつもと、少しだけ違った。
集まった連中が、それぞれ「何か」を手に持っていたのだ。
村の老人は、自分の畑で採れた野菜を抱えていた。
商人は、遠い国の珍しい果実を籠に入れて。
エルフは、森の蜂蜜の壺を。
ドワーフは、樽いっぱいの自慢のエールを。
子供たちは、野原で摘んだ花や川で拾った綺麗な石を。
ビリーが、目を丸くした。
「お前さんら、それは……?」
村の老人が、照れたように笑った。
「いやな。ルウの嬢ちゃんから聞いたんじゃ。今日はビリー殿の故郷の『感謝の祭り』だと。一年の恵みに感謝してみんなで分け合う日だと」
老人は、抱えた野菜をビリーに差し出した。
「わしらは、いつもビリー殿に肉をもらってばかりじゃ。今日くらいは、わしらの恵みも分けさせてくれ」
ビリーは、ぽかんと口を開けた。
それからルウを見た。
ルウは、そっぽを向いていた。しかし、その尻尾はふわふわと揺れていた。
「……お前さんが、言ったのか」
「ビリーが教えてくれたんじゃないか。サンクスギビングは感謝の日だと。みんなでテーブルを囲む日だと」
ルウは、ぼそりと続けた。
「だからみんなに伝えただけだ。今日はビリーに感謝する日だぞ、ってな」
ビリーは、しばらく何も言えなかった。
集まった連中が、それぞれの「恵み」を長テーブルに並べていく。
野菜が、果実が、蜂蜜が、エールが、花が。
テーブルが、彩りで埋まっていく。
ビリーは、テキサスの空を思い出していた。
狭い家に、ぎゅうぎゅうに詰まった家族。
親父も、おふくろも、妹も、甥っ子姪っ子も。
みんなで手を繋いで一年の恵みに感謝した、あの食卓を。
ビリーの目に、じわりと熱いものが滲んだ。
慌てて帽子のつばを下げて、隠した。
「……ったく」
ビリーは、ぐいと腕で目元を拭った。
「お前さんらは……」
声が少し掠れていた。
「……最高の家族だな」
****
そして六時間が経った。
日が傾き、二つの月が、また空に昇り始めた頃。
長テーブルの周りには、人間と亜人が集まっていた。
全員が、そわそわとピットを見つめている。
ビリーが、立ち上がった。
エプロンは煤と脂と、四つの流派のソースで、虹のように染まっていた。
顔は煤だらけ。その目は、爛々と輝いていた。
「出来たぞ」
その一言で、全員が息を飲んだ。
ビリーは、グリルの上の巨鳥の各部位を次々と引き上げていった。
胸肉。
テキサススタイル。表面は黄金色に焼け、薄く煙の色がのっている。
ビリーがスライスナイフを入れると、しっとりと白い肉が現れた。
パサついていない。それどころか、断面からじわりと透明な肉汁が滲み出す。
ブラインの魔法だ。淡白な胸肉が、信じられないほどジューシーに仕上がっていた。
腿肉。
メンフィススタイル。パプリカのラブが焼きついて、深い赤褐色の殻を作っている。
骨を持ってひねると、ほろりと肉がほぐれた。
脂と旨味の濃い腿肉に、スパイスの香りが幾重にも重なっている。
手羽。
カンザスシティスタイル。トマトとモラセスのソースが何度も塗り重ねられて、漆黒に近いテカテカの照りを放っている。
子供たちの目が、その手羽に釘付けになった。
骨付き背肉。
カロライナスタイル。焼きたての肉にビネガーソースがじゅわっとかけられ、酸っぱい湯気が立ち上る。
そして巨鳥の各部位が、長テーブルの中央にどんと盛られた。
その周りをマッシュポテト、グレイビー、クランベリーソース、スタッフィング、そして村人たちが持ち寄った恵みが、彩り豊かに囲んでいた。
サンクスギビングの食卓だった。
ビリーはテーブルの上座に立ち、集まった全員を見渡した。
村人、狩猟団、商人、エルフ、ドワーフ、竜騎士、ワイバーン、そして子供たち。
種族も、立場も、バラバラの連中が一つのテーブルを囲んでいる。
「みんな、聞いてくれ」
ビリーの声が、草原に響いた。
いつもの大声ではなかった。
静かで穏やかな声だった。
「俺の国にはな、サンクスギビングって祭りがある。一年に一回、家族が集まって、一年の恵みに感謝して、みんなで飯を食う日だ」
全員が、静かに耳を傾けていた。
「俺はこの世界に来て、家族とはぐれちまった。テキサスの家族とは、もう会えねえかもしれねえ。でもな、ここを見てると思うんだ」
ビリーは、テーブルを囲む全員をぐるりと見渡した。
「俺は独りじゃねえ。新しい家族がここにいる」
ルウの尻尾が、ぴくりと動いた。
エルフが、長い耳をわずかに伏せた。
ドワーフが、赤ヒゲの奥でぐっと唇を噛んだ。
子供たちが、きょとんとビリーを見上げていた。
「アメリカじゃ、サンクスギビングには、みんなで手を繋ぐんだ。そんで一年の恵みに感謝する──やってみるか?」
ビリーが両隣に立つルウと、村の老人に手を差し出した。
ルウがおずおずと、その大きな手を握った。
老人も、反対側の手を握った。
長テーブルをぐるりと囲んで、手と手が繋がれていく。
二つの月の光が、白と青の光をその輪に降り注いでいた。
「今年も──いや」
ビリーは、笑った。
目に、また熱いものが滲んでいた。
今度は、隠さない。
「この一ヶ月、この出会いに、この恵みに、この家族に、感謝する」
ビリーは、空を見上げた。
二つの月のさらに向こう。
じいさんが、おふくろが、見ているかもしれないその空へ。
「サンキュー」
誰かが繋いだ手をぎゅっと握り返した。
ルウだった。
ビリーを見上げて、ニカッと笑っていた。
「さあ──」
ビリーは、繋いだ手をゆっくりと離した。
そしてトングを構え、巨鳥のローストを指し示した。
「──食おうぜ。腹がはち切れるまで。それがサンクスギビングだ」
歓声が爆発した。
****
宴はこれまでで一番、賑やかだった。
ルウがテキサススタイルの胸肉を一切れ口に運び、膝から崩れ落ちた。
「……っ、なんだこれは……鳥なのに……こんなにしっとり……パサついてない……むしろ肉汁が溢れて……!」
ブラインの魔法に、ルウは震えていた。
淡白なはずの胸肉が、噛むたびに肉汁を溢れさせる。
塩と黒胡椒のシンプルな味付けが煙の香りと相まって、鳥肉そのものの旨味をどこまでも引き立てていた。
「テキサスだ。シンプルが一番強い」
ビリーが、ニカッと笑った。
子供たちは、カンザスシティの手羽に殺到していた。
甘くてテカテカのソースに両手と顔をベタベタにしながら、夢中でかぶりついている。
「あまーい!」
「おいしー!」
「もっとー!」
子供の一人が、手羽を持ったままビリーに駆け寄ってきた。
顔中をソースまみれにした女の子。
以前、プルドポーク・サンドイッチを最初に食べた子だ。
「おじちゃん!これ、あまくておいしい!」
「だろう?そいつはな、カンザスシティってとこの味だ。子供が一番好きな味さ」
「カンザスシティ!」
女の子が覚えたての言葉を嬉しそうに繰り返した。
エルフはメンフィスの腿肉と、カロライナの背肉を交互に食べ比べていた。
いつもの氷のような無表情は、とうに崩壊している。
「……信じられない。同じ鳥なのに、部位と味付けでまるで別の料理だ。このスパイスの香りと、この酸味……どちらも捨てがたい……」
エルフは数百年生きた知性を総動員して、悩んでいた。
「結論が出ない。これは……両方ともおかわりするしかない」
「それでいい」
ビリーが笑った。
「全部食え。それがサンクスギビングだ」
ドワーフはグレイビーソースをかけたマッシュポテトに、号泣していた。
「この……茶色いソース……鳥の骨から、ここまでの旨味を引き出すとは……!そしてこの芋のなめらかさ……!肉だけではない……サイドメニューまで完璧だと……!」
商人は例によって、ひっくり返っていた。
今度は起き上がる前に、隣のエルフにクランベリーソースの交渉を始めていた。
竜騎士のワイバーンは、巨大な腿肉を丸ごと一本、一口で飲み込んでいた。
そして喉の奥から、グルルルルル、と猫のような音。
巨大な尻尾が、草原をなぎ倒した。
「……例のごとくおかわりを所望している。腿を十本ほど」
「十本?足りるか?三十本いっとけ」
****
宴の途中。
ビリーは、マッシュポテトとグレイビーを盛った皿を持ってテーブルの隅に座っていた。
ルウがその隣に来て、どさりと座った。
手には、テキサス胸肉のサンドイッチを持っている。
「なあ、ビリー」
「ん?」
「お前のおふくろの味には、近づけたか?」
ビリーはマッシュポテトを一口、食べた。
目を閉じてゆっくりと味わう。
テキサスの狭い台所。エプロンをつけたおふくろの背中。コンロから立ち上るグレイビーの湯気。隣でターキーを焼くじいさん。
窓の外の一つだけの月。
ビリーは、目を開けた。
「……まだ、少し違うな。でもな、これはこれで──」
ビリーは、笑った。
二つの月を見上げた。
「俺の味なのかもしれねえな」
ルウは何も言わずにビリーの皿からマッシュポテトを一口、勝手に食べた。
「うまいぞ、これ」
「おい、勝手に食うなよ」
「家族だろ。分け合うんじゃないのか?」
ビリーは、ぽかんとして──それから腹を抱えて笑った。
「ハッ、違いねえ!」
草原にビリーの笑い声が、轟いた。
鳥が数羽、飛び立っていった。
****
翌朝。
ビリーが目を覚ますと、いつもの行列はなかった。
代わりに長テーブルの周りで、たくさんの人間と亜人が雑魚寝していた。
昨夜、腹いっぱい食べて、エールを飲んで、歌って、笑って、そのまま眠ってしまったのだ。
村の老人が、子供を抱いて寝ている。
普段は犬猿の仲のはずのエルフとドワーフが、背中合わせで寝ている。
商人が、空の皿を抱きしめて寝ている。
ワイバーンが、竜騎士を翼の下に庇って丸くなっている。
ビリーは、その光景をしばらく眺めていた。
ルウが、毛皮のマントを羽織って横に立った。
「みんな、すごい寝相だな」
「ああ」
ビリーは、笑った。
「サンクスギビングの翌朝は、いつもこうだ。食い過ぎて、飲み過ぎて、みんな動けなくなる。テキサスでも同じだった」
ビリーは、スモーカーの温度計を確認した。
火は、まだわずかに残っている。
「ルウ。「残ったターキーで何作るか、知ってるか?」
「いいや」
「サンドイッチだ」
ビリーは、にやりと笑った。
「サンクスギビングの翌朝はな、残ったターキーをパンに挟んで食うんだ。クランベリーソースと、スタッフィングと、一緒にな。これが──実は一番うまい」
ビリーは、立ち上がった。
帽子のつばを直し、虹色に染まったエプロンの紐を結び直す。
そして薪を一本、ファイアボックスにくべた。
煙が朝の青空に、まっすぐ昇っていく。
「さて──」
トングを構えた。
「火を起こすか」
その匂いに雑魚寝していた連中が、一人、また一人と、鼻をひくつかせて目を覚まし始めた。
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こうして異世界の草原に、三つ目のBBQ文化が根付いた。
牛の日は「インデペンデンス・デイ」。
豚の日は「グローリー・サンデー」。
そして──鳥の日は、住人たちが異邦人の言葉を真似て、こう呼んだ。
『サンクスギビング』
ただ、この祭りだけは他の二つと少しだけ違った。
この日は、ビリーが肉を振る舞うだけの日ではなかった。
この日ばかりは、住人たちがそれぞれの恵みを持ち寄り、みんなで手を繋ぎ、一年の感謝を分かち合う日になった。
そして後の世まで、この地方には、こんな言葉が残ったという。
──一度目はもてなし。
──二度目なら、もう友達。
──そして共に手を繋いで感謝を捧げたなら、もう家族だ。
なお、ビリーが元の世界に帰りたがっているかは、相変わらず不明。
ただ、サンクスギビングの夜だけ、ビリーが二つの月の向こうを見上げて、小さく「サンキュー」と呟くのをルウは知っている。
その横顔が、寂しさよりもずっと穏やかな何かに満ちていることも、ルウは知っていた。




