第1話 甘い匂いは、だいたいこわい
月白寮のお茶会は、月に一度だけ開かれる。
そう聞いたとき、わたしは「へえ」としか思わなかった。
政治家の娘とか、病院の跡取りとか、創業百年の和菓子屋のお嬢さまとか、そういう子たちが集まる寮だ。月に一度のお茶会くらい、そりゃあるだろう。
でも実際に出てみると、あれはお茶会じゃなくて、きれいに包んだ品定めだった。
制服のスカートの折り目。
笑うときの歯の見せ方。
紅茶のカップを置く音。
誰がどの席に座って、誰の話にいちばん早くうなずくか。
みんな、やさしそうに笑っているのに、ちゃんと見ている。
わたしはそういうのが苦手だ。
だから壁ぎわの席で、焼き菓子の皿ばかり見ていた。
「深町さん、それ三つ目よ」
向かいの同級生、小鳥遊ひなが小声で笑った。
「だっておいしいから」
「そういう素直なとこ、たまにすごいよね」
「それ、悪い意味?」
「半分くらいは」
ひなは明るい。誰とでも話せるし、空気も読める。
わたしと同じ奨学生なのに、ちゃんとこの寮に馴染んでいる。
わたしはと言えば、馴染む努力をする前に、だいたい匂いで疲れる。
香水。ヘアオイル。柔軟剤。ハンドクリーム。
甘い匂いが重なると、頭の中が少しだけ白くなる。
「平気?」
「うん。今日はまだまし」
そう答えたとき、部屋の空気がひとつ動いた。
三年生の白峰紗那先輩が入ってきたからだ。
その人は、びっくりするくらいきれいだった。
ただ顔が整っているとか、背が高いとか、そういう話じゃない。
いるだけで、まわりの子が少し声を小さくする。そういうきれいさだ。
黒髪はつやつやで、肌は白くて、目元は涼しい。
なのに、近寄りやすい感じはぜんぜんない。
寮長。生徒会副会長。成績はいつも一位。
ついたあだ名は“月白寮のお姫さま”。
でも、わたしはああいう人を、お姫さまとは思わない。
あの人はたぶん、自分で剣を持つ側だ。
「皆さん、楽にしてください」
そう言った声まできれいで、ちょっとだけ腹が立つ。
ひなが、こそっと耳打ちしてきた。
「見すぎ」
「見てない」
「見てるよ。珍しく」
「観察しているだけ」
「その言い方が可愛くない」
そのとき、テーブルの端で、一年生の子が立ちくらみみたいによろめいた。
名前はたしか、水城真帆。
先週入寮したばかりで、まだ何を言うにも少し緊張している子だ。
「あ……すみません……」
言い終わる前に、その子の体がふらっと傾いた。
カップが落ちる。
ソーサーが割れる。
悲鳴が小さく上がる。
わたしは先に足が動いていた。
「真帆さん!」
肩を抱くと、体が熱い。けど顔色は悪い。汗もいやに多い。
呼吸は浅くて、手が少し震えていた。
「保健室、呼んで! あと窓開けて!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。
みんなが一瞬だけ固まって、それからばたばた動き始める。
わたしは床に散った紅茶を見た。
ふわっと甘い匂いが立つ。桃のフレーバーティーだ。
でも、それだけじゃない。
苦いような、青いような、薬っぽい匂い。
わたしは真帆さんのカップを鼻先に寄せた。
ひなが目を丸くする。
「ちょ、なにしてるの」
「匂いが、変です」
「変って」
「これ、眠くなる薬が入ってるかも」
言った瞬間、空気がまた止まった。
「深町さん」
静かな声だった。
顔を上げると、白峰先輩がすぐそばに立っていた。
いつの間に来たんだろう。足音、ぜんぜんしなかった。
「根拠は?」
「たぶん、睡眠導入剤の一部。市販でもあるやつに似た匂いです。紅茶の香りでごまかしてるけど、少し残ってる」
「飲んだ量で、こうなるの?」
「空腹なら。あと、もともと体が弱いのなら、たぶん」
先輩はわたしをまっすぐ見た。
きれいな人に正面から見られると、落ち着かない。
なのにその目は、値踏みじゃなかった。
もっと冷たい。
使えるかどうか、見ている目だった。
「先生が来るまで、その子を横に」
先輩はそう言って、自分のカーディガンを丸め、真帆さんの頭の下に入れた。
動きが迷いなくて、少しだけ見とれた。
「誰がその紅茶を運びましたか」
その一言で、部屋の空気が変わる。
やさしいお茶会が、急に細い糸の上に乗ったみたいになる。
「た、たしか、給仕は一年生で……」
「でもポットは最初から厨房に」
「真帆ちゃん、自分で砂糖を――」
みんながしゃべる。
早口で。
自分は悪くないと、まだ誰も言っていないのに、先にそれを言っているみたいに。
わたしは床に落ちたティースプーンを拾った。
先のほうに、薄く白い粉がついている。
砂糖にしては、少しだけ粒が細かい。
「それ、触らないで」
白峰先輩が言った。
でも、もう遅い。わたしは見てしまった。
スプーンの持ち手に、薄いピンクの跡がついている。
リップだ。
けれど真帆さんの口紅は透明に近い色だった。
この寮で、あの青みのあるピンクを使っていたのは――
「深町さん」
また呼ばれる。
「今、何に気づいたの」
先輩の声はやわらかい。
やわらかいのに、逃がしてくれない。
わたしは少しだけ迷った。
ここで言えば、たぶん面倒になる。
わたしは面倒が嫌いだ。目立つのも嫌い。
静かに卒業したい。その気持ちは本物だ。
でも。
真帆さんの手は、まだかすかに震えていた。
「……誰かが、わざと混ぜた可能性があります」
「理由は?」
「スプーンに口紅がついてます。真帆さんのじゃない色です」
部屋の端で、誰かが息をのんだ。
ひなが、わたしの袖をつかむ。
やめなよ、という合図。
うん、わかる。わたしだってやめたい。
けど、白峰先輩は目を細めただけだった。
「続けて」
「粉は砂糖より細かい。たぶん、最初から混ぜたというより、あとから入れたんだと思います。真帆さんの席の近くにいた人が」
「面白いわね」
その言葉に、ぞくっとした。
面白い。
人が倒れた場で、そんな言い方をする人を、普通は怖いと思うはずだ。
でも不思議と、嫌じゃなかった。
たぶんあの人は、事件を面白がっているんじゃない。
人の本音が見える瞬間を、取りこぼさないだけだ。
「白峰先輩!」
保健の先生が駆けこんできて、真帆さんはすぐ医務室へ運ばれた。
お茶会は中止。みんな、自分の部屋に戻るよう言われた。
それで終わるはずだったのに。
廊下へ出たところで、後ろから声がした。
「深町さん、少しだけいい?」
振り向くと、白峰先輩が立っていた。
窓の外はもう暗い。廊下の電灯に照らされた横顔は、きれいすぎて、ちょっと現実じゃないみたいだ。
「……なんでしょう」
「あなた、普段からああいうことに気づくの」
「気づきたくて気づいてるわけじゃないです」
「便利ね」
「便利じゃないです。疲れます」
先輩はふっと笑った。
初めて見た笑い方だった。ほんの少しだけ、人間っぽい。
「そう。じゃあ、なおさら都合がいいわ」
「は?」
「月白寮には、表に出せない相談が多いの。なくし物、嫌がらせ、嘘、すり替え。大人に言うほどじゃない。でも放っておくと、ちゃんと傷になることが」
「いやです」
「まだ頼んでないけど」
「たぶん頼まれると思ったので先に断りました」
「先回りまでできるのね」
褒められてない。たぶん。
わたしは一歩下がった。
「わたし、静かに暮らしたいんです。本当に」
「そう見えないわ」
「見えなくても、そうなんです」
「なら、今日どうして口を出したの?」
その問いだけ、まっすぐ胸に入った。
どうしてだろう。
自分でも、はっきりしない。
見て見ぬふりをしたら、今夜はたぶん眠れなかった。
たったそれだけかもしれない。
「……嫌だったからです」
「何が?」
「甘い顔して、誰かが誰かを倒すのが」
先輩は少し黙った。
それから、すごく静かに言った。
「そういうの、私も嫌い」
風が吹いた。
廊下の窓が、かすかに鳴る。
その一瞬だけ、先輩の目が遠くなった気がした。
この人も、昔なにかあったのかなと思う。
でも聞けるほど、わたしたちは近くない。
「真帆さんの件、たぶんこれで終わらないわ」
「……ですよね」
「だから、あなたに手伝ってほしい」
やっぱりきた。
断ろうと思った。
ちゃんと、きっぱり、感じよく。
なのに次の言葉で、全部ずるくなった。
「もちろん、報酬は出すわ」
「報酬?」
「購買の限定いちごミルフィーユ、優先確保」
「やります」
先輩が目を見開いたあと、声を出さずに笑った。
くやしい。たぶん今、すごく安い女だと思われた。
「契約成立ね、深町さん」
「その言い方、ずるくないですか」
「ずるい方が、だいたい勝つの」
そう言って先輩は背を向けた。
長い黒髪が、さらりと揺れる。
三歩進んでから、ふいに振り返る。
「それと」
「はい」
「知らないふりが下手ね、あなた」
残されたわたしは、しばらくその場で立ちつくした。
心臓が、さっきから少しうるさい。
事件のせいなのか。
先輩のせいなのか。
そういうのを分けて考えられるほど、わたしはまだ器用じゃない。
ただひとつ確かなのは、静かな寮生活は今夜で終わったってことだ。
そしてたぶん――
あの甘い紅茶の匂いより、もっと厄介なものを、わたしはもう吸いこんでしまった。
人の秘密と、
自分でもまだ名前をつけられない気持ちを。




