井戸
「――こっち!!」
千秋が、低く叫ぶ。
関所の裏手、
崩れかけた石垣の陰に、丸い縁が口を開けていた。
苔むした、古井戸。
縄も桶もなく、ただ闇が沈んでいる。
「……井戸?」
夏輝が息を詰める。
冬彦が即座に頷いた。
「昔ここは城だったようで、逃げる為の道が作られていると。薫家の古い記録にもありました。」
――黄雀は、そこまで読んでいた。
背後で、足音が近づく。
「おい、牢の方から音が――」
「今しかない!」
千秋が先に縁へ駆け寄り、中を覗き込む。
「深いけど……水は、ある。」
春花は迷わなかった。
「私から行きます。」
「春花様!」
冬彦が止めかけるが、
春花はすでに縁に手を掛けている。
「大丈夫。
……落ちるだけですもの。」
一瞬だけ微笑って、
そのまま――落ちた。
ごぽん、という鈍い水音。
すぐに、下から声がする。
「……っ、冷たいけど、立てます!」
「よし!」
千秋が続く。
軽やかに、ためらいなく。
次いで夏輝。
最後に冬彦が飛び込む。
背後で、誰かが叫んだ。
「井戸だ!追え!」
だが、もう遅い。
井戸の底は、冬彦の腰ほどの水位。
春花や千秋にいたっては、胸あたりまで浸かっていた。
そこから少し小上がりになった所に、石の道が続き、
大人ひとり分くらいの幅がある。
天井は低く、湿った空気が肌にまとわりつく。
「……こっち。」
冬彦が、壁の刻印を確かめる。
「下流へ向かえば、森に出ます。」
水を蹴り、冬彦は少しかがんで進む。
後ろから、井戸に石が落ちる音がする。
追手が覗いたのだろう。
だが、道はすぐに曲がり、音はくぐもっていく。
暗闇の中で、
夏輝が小さく息を吐いた。
「……来てくれたんだな。」
春花は、歩きながら答える。
「もちろん、友達ですから。」
「……捕まるかもしれないって、分かってたのに?」
「ええ。」
少し間を置いて、続ける。
「でも、置いていく理由の方が、ありませんでした。」
水音の中で、
夏輝は何も言わなかった。
ただ歩く速さが、
ほんの少しだけ速くなった。
やがて、
水路の先に、淡い月明かりが見えてくる。
「出口です。」
冬彦の声が、わずかに弾む。
石の裂け目を抜けると、そこは森だった。
湿った土、夜露に濡れた草。
関所の灯りは、もう見えない。
春花が、そっと息を吐いた。
「……外。」
自由だ、と言う代わりに。




