四季の名
夜は、薫家の城を静かに包んでいた。
灯りの落ちた回廊を、夏輝は一人、足音を殺して進む。
懐には、母の簪。
それだけを確かめるように、指先でそっと触れた。
――これでいい。
春花たちに別れを告げたあと、すぐに外へ出た。
叔父である黄雀にも、これ以上心配をかけたくなかった。
城門が、もうすぐそこまで見えた、その時。
「……待て。」
低い声が、闇から落ちてくる。
夏輝が息を呑んだ瞬間、
背後から腕を掴まれ、地面に押さえつけられた。
「動くな。」
現れたのは、薫家の者ではなかった。
鎧の家紋。佩いた刀。
――牟岐の使者。
「夜中に城を抜け出すとは。
薫家の人間にしては、随分と怪しいな。」
「……離せ。」
「名は?」
夏輝は、一瞬迷ったが、嘘をつく意味はないと悟る。
「……夏輝だ。」
その名に、使者は眉を動かす。
「ほう。
では、ちょうどいい。」
牟岐の家当主、牟岐宗清の前に引き出されたのは、
夜が白み始める頃だった。
広間は静まり返り、
世間から英雄と称される男は、玉座に腰掛けている。
宗清は、四季の名を持つ薫家にいた子供、
夏輝を一目見て、微かに目を細めた。
(……似ている)
桔梗。志木原の当主の妻。
あの女に、よく似た顔。
(いや……)
すぐに視線を落とす。
体つき。背丈。
そして――年。
「……歳は。」
「十三。」
短い答え。
宗清は、内心で舌打ちした。
(志木原の姫の噂……)
(この子のもの、という線も考えたが……。)
噂の姫は、もっと幼い。
年が合わない。
――だが。
(似すぎている。)
このまま返せば、
「牟岐家が、薫家にいた桔梗に似た子を捕らえた」
そんな話が、どこから漏れるかわからない。
牟岐は、ゆっくりと立ち上がった。
「薫家とは、長年の友好関係にある。」
声音は、穏やか。まるで、本当に英雄のように。
「無用な疑いを生むのは、互いに不幸だろう。」
夏輝は、顔を上げた。
「……なら、帰してくれ。」
牟岐は、にこりと笑った。
「そうしたいところだがな。」
一拍。
「お前は、夜中に城を抜けようとしたんだろう。
それだけで、十分に疑わしい。」
使者に目配せする。
「世間に知られては、面倒だ。しばらく、預かろう。」
「……っ!」
夏輝が声を荒げる前に、
両脇を掴まれ、引き立てられる。
牟岐は、背を向けながら、淡々と言った。
「心配するな。命までは取らん。」
「私は--志木原の“英雄”だからな。」




