予感
その頃、薫家。
黄雀は、すでにその動きを読んでいた。
「……来る。」
独り言のように呟く。
老家臣が、静かに問い返す。
「牟岐殿、でございますな。」
「はい。おそらく、“四季の神子”を理由に。」
黄雀は、袖の中で拳を握る。
「だからこそ、噂を“薄める”。」
老家臣が、頷く。
「例の――」
「ええ。」
黄雀は、低く命じた。
「城下に流せ。“四季の神子”は一人ではない。
争いを裁いたのは、土地土地の長老や古老。
娘たちは、ただその場に居合わせただけだ、と。」
「……姫の噂は?」
黄雀は、目を伏せた。
「“桔梗に似た娘がいる”だけに留めよ。それ以上は、語らせるな。」
老家臣は、一瞬迷い、
それから深く頭を下げた。
「……承知いたしました。」
人が去り、黄雀は一人静かな廊下に残る。
「私は、桔梗の娘を守る。」
その声は、誰にも聞かれない。
春花達のいる客間に隣接する棟。
障子一枚隔てた向こうで、
低く、しかしはっきりとした声が交わされている。
「……あれを使えばよい。」
「まだ子供だ。扱いやすかろう。」
「志木原の姫が本物かどうか、あれを近づけて探らせれば――」
湯呑みを探しに来ていた夏輝は、己を呼ぶ時の言葉に気が付き、足を止めた。
胸の奥が、ひやりと冷える。
「万が一、何かあったとしても構わぬだろう。
あれは薫の正統ではないからな。」
別の声が、軽く笑った。
「厄介事を呼ぶなら、ちょうどいい捨て石だ。」
それ以上、聞く必要はなかった。
夏輝は静かに踵を返し、真っ直ぐに叔父である黄雀の部屋へ向かう。
自分は、火種なのだ。
桔梗に似た顔。
そして、薫家の“外側”。
そのすべてが、
春花たちを危険に晒す理由になる。
夏輝は、唇を噛みしめた。
「……叔父上。」
黄雀は、机に向かっていた手を止め、
ゆっくりと顔を上げる。
「どうした。夏輝、こんな時間に。」
夏輝は、一礼し、視線を伏せたまま言った。
「お願いが、ございます。」
黄雀の眉が、わずかに動く。
「母の部屋に簪があったはずです……それを頂けませんか。」
黄雀は、すぐには答えなかった。
あの簪。
夏輝の母が、薫家にいた頃、
ただ一つ、誇りのように持っていたもの。
「それを、どうする。」
「……形見として、持っていたいのです。」
黄雀は、静かに立ち上がった。
「……来なさい。」
二人は、灯りを落とした廊下を進み、
かつて夏輝の母が使っていた部屋へ向かう。
埃を払われ、最低限は保たれているが、
そこにはもう、主はいない。
箪笥の奥。
布に包まれた一本の簪。
黄雀はそれを手に取り、しばらく黙って見つめた。
「……桔梗と、よく似た人だった。」
ぽつりと、漏れる。
「優しくて、何も望まないふりをして、
それでも、傷つく人だった……私は助けられなかった。」
黄雀は、簪を夏輝に差し出した。
「持っていけ。」
夏輝は両手で受け取り、深く頭を下げる。
「ありがとうございます。」
黄雀は、少しだけ声を低くした。
「……すぐに、ここを発つつもりだな。」
夏輝は、否定しなかった。
「はい。俺は、ここに居るべきではありません。」
黄雀は、何か言いかけたが、ただ頷いた。
「……気をつけなさい。」
「……ありがとうございます。」
夏輝は、簪を懐にしまい、もう一度、深く礼をした。
母の部屋を出たその足で、夏輝は春花たちの客間へ戻る。
襖が開くと、
春花、千秋、冬彦が揃って顔を上げる。
「夏輝、湯呑みなかったの?」
春花が、夏輝の手を見ながら心配そうに尋ねる。
夏輝は、苦笑して言った。
「報告があって。」
三人の前に座り、
一拍置いてから、続ける。
「……俺、ここを出る。」
空気が、張りつめる。
「俺を使って、あんたたちを探ろうとしてるやつがいる。俺は火種なんだ。」
千秋が、舌打ちをした。
「最悪。」
冬彦は、低く唸る。
「……やはり。」
春花は、じっと夏輝を見つめていた。
「それで……?」
夏輝は、懐から簪を取り出す。
淡く光る、母の形見。
「ここにはこれをもらいに来た。それだけで、十分だ。」
春花は、小さく息を吸い、
静かに言った。
「……あなたが、火種だなんて、思ってほしくありません。」
夏輝は、微かに笑った。
「でもさ。火があるなら、離した方がいいだろ。」
春花は、言葉を探し、
それでも、最後に頷いた。
「……また会いましょう。必ず。」
夏輝は立ち上がり、
三人に向かって、深く頭を下げた。




