宴
千春は名残惜しそうに抱擁を逃れると、
緋色の帯を整え、まだ母の腕の中にいる弟、春政に視線を向けた。
「……春政。そろそろ行きましょうか。」
春政は同じく腕の中にいる末の妹、春花をもう一度撫でてやってから立ち上がる。
「姉上、兄上……いってらっしゃいませ!」
春花は目を輝かせて、きゅっと両手を握りしめる。
その無邪気さに、千春も春政も自然と緩んだ笑みを返した。
「春花、母上の言う事をきちんと聞くのよ。」
千春が穏やかな声で言うと、
「はいっ!」
春花は胸を張って応じた。
桔梗は二人の袖をそっと整え、優しく目を細めた。
「さあ……客間でお父上が待っています。行ってあげて。」
「うん、母上。行ってまいります。」
春政は軽く頭を下げ、
千春も深く一礼して母と妹の前を離れた。
二人が並んで歩き出す。
廊下には桃の香が漂い、春を告げるような淡い香煙が揺れていた。
「父上の顔、今日はよく晴れていましたよ。」
「ええ。きっと牟岐殿がいらっしゃるからでしょう。」
春政の言葉に千春は頷く。
数多ある同盟国の中でも、為春が特に信頼を寄せている相手だ。
そのため準備には並々ならぬ手が入った。
御殿を出て客間に続く回廊へ入ると、
遠くから笑い声と器の触れ合う音が聞こえてきた。
「さ、行きましょう。兄上も向こうで待っていますよ。」
春政がそう促すと、二人は肩を並べて回廊を抜け、
まっすぐ客間へと向かった。
千春と春政が静かに襖を開くと、
賑やかな笑い声と香のかすかな煙がふわりと流れ込む。
中央には当主である志木原為春が座し、
その隣には、凛とした立ち姿の志木原家長男、春道が控えていた。
母似の整った面差しを持ちながら、
穏やかな眼差しは父に似ている。
「千春、春政。よく来たな。」
春道は柔らかく微笑み、二人に席を促した。
「失礼いたします。」
「遅参いたしました。」
二人が膝をついたとき、
上座に並ぶ客の中から声がかかった。
「おお、これは志木原の二人目のご子息にご息女。
久しぶりであるな。」
声の主は、牟岐家の当主である、牟岐宗清。
大柄な体だが、身なりは整い、
人の良さそうな笑みを浮かべている。
だがその眼だけは、時おり鋭い光を宿していた。
「牟岐殿、お久しゅうございます。お会いできて光栄です。」
春政がしっかりとした声で挨拶する。
宗清は満足気に頷くと、ゆるやかな仕草で盃を置いた。
「いや、まこと賑やかな宴ですな。
志木原はいつ訪れても気が満ちている……
“福の神”でもおられるのかと思うほどです。」
その言葉に、千春が首を傾げる。
「福の神……で、ございますか?」
春政もどこか意外そうに眉を上げた。
しかし為春はぽんと手を打つ。
「ははあ、宗清殿。
それは“桃の木の神”の古い話のことでございましょう?」
宗清はわずかに目を細め、あいまいな笑みを浮かべた。
春道が続ける。
「ここ志木原、昔は桃の木一つしか無かった。
と、言われております。」
千春もそれかという様に頷き、にこりと笑った。
「ですが、その一つの桃の大樹にいらっしゃった桃の木の神と、
志木原の初代当主が結ばれて、今のように志木原全体に桃が香るようになったとか。」
宗清は盃をゆっくり回しながら言う。
「……なるほど。
では、私が耳にした“福の神が志木原にいる”という噂は、
その伝説が形を変えて語られているのでしょうな。」
「ええ、ええ! 志木原の者は皆、あの桃の木を誇りに思っております。
それが“福の神”などと言われるのでしょう。」
為春が嬉しそうに言うと、その横で春政が軽く肩をすくめる。
「ありがたい話ではありますが、あくまで昔話にございます。」
「だが実際、福の神、いや桃の木の神か?
そのおかげでこの志木原はいつでも豊かに栄えている!
それは素晴らしいことではないか!なぁ、為春殿。」
宗清は盃に残った酒をぐいっと飲み干して為春の背中をバシバシと叩く。
「えぇ、そうした伝説が語られるほどに
志木原が平穏である、という証でしょう。」
為春は静かに目を伏せた。桃の香りが外からふわりと入り込む。
宗清は、笑っているはずの目の奥に、
どこか測りかねる色をひそませた。
「いや実に……羨ましい限りですな。土地も肥え、人も穏やか。
桃が香り、福が満ちる。まさに……恵まれた地。」
柔らかい声でそう言うと、
ふと、部屋全体をひと巡りするように視線を流す。
そのしぐさは誰の目にも“感心して眺めている”ように映る。
――ただ、わずかに長い。その視線の滞りは、
まるで何かを確かめるようでもあった。
為春は笑い、盃を掲げる。
「誉めていただけるほどのものではありませんよ。
確かに桃の香りは志木原の自慢ですが……所詮、伝説の話。」
春道も穏やかな声で続けた。
「けれど、こうして遠方より客人を迎え、
皆で盃を交わせる――それこそが一番の福にございます。」
その言葉に、席のあちこちで笑いが生まれる。
宗清も口元だけは綻ばせたまま、盃を静かに持ち上げた。
「……左様ですな。福は形を持たぬもの。
だが、人の手に収まるなら……これほど価値のあるものはない。」
為春が聞き返す前に、宗清はすっと笑みを深めた。
「いや、つまらぬ独り言です。
さあ、為春殿、皆々様――盃を!」
「よし、皆の者、盃を取れ!」
為春が声を上げると、部屋中一斉に乾杯の音が広がった。
千春も春政も、春道も、
笑い合いながら盃を掲げる。
桃の香はますます濃く、
温かな宴気に混ざり合い――
――だがその香の奥、
宗清だけは別の風の匂いを嗅いでいた。
「福の神……。」
盃越しの瞳は灯火の揺れを受け、刃のように細く光った。




