桔梗
障子の向こうで、控えめな足音が止まった。
黄雀は、ゆっくりと顔を上げる。
「……待たせましたね。」
そう言って、立ち上がり、襖に手を掛けた。
「お入りください。」
襖が静かに開く。
外で控えていた冬彦と千秋、そして夏輝が、
一人ずつ部屋に入ってくる。
冬彦は一礼し、春花の無事を確かめるように目を向けた。
春花が小さく頷くと、胸の奥で張り詰めていたものが、
ほんのわずかに緩んだようだった。
千秋は部屋の空気を敏感に感じ取り、
いつもの軽口を飲み込んで、静かに座る。
夏輝は――
部屋に入った瞬間、足を止め、視線を黄雀に向ける。
黄雀は、その視線を正面から受け止め、
やや困ったように、けれど優しく微笑んむと、
春花たちの方を手で示した。
「こちらは……桔梗の娘御です。」
一瞬、部屋の空気が凍る。
夏輝が、ゆっくりと春花を見る。
「……え?」
春花は立ち上がり、
丁寧に、深く頭を下げた。
「志木原 春花と申します。」
夏輝は、言葉を失ったまま、
春花の顔をじっと見つめる。
「……」
やがて、小さく息を吐いた。
「……やっぱり。」
千秋が、ちらりと夏輝を見る。
「やっぱり、って?」
夏輝は、視線を逸らしながら言う。
「……似てると思った。」
黄雀は、少し言いづらそうに続けた。
「……桔梗の面影を知る者は、まだ城下に残っています。
特に……」
一瞬、言葉を切る。
「……夏輝の母を、知る者は。」
黄雀は、ゆっくりと腰を下ろした。
「……夏輝の母は、薫家の先代当主の妾でした。」
その声は低く、淡々としているが、
言葉の端にためらいが滲んでいる。
夏輝は畳を見つめたまま、何も言わない。
「身分は低く、家中でも居場所は狭かった。
ですが……聡い方でした。」
黄雀は、少しだけ目を伏せる。
「薬草に詳しく、読み書きもでき、
城下の病人や貧しい者に、密かに手を差し伸べていた。」
千秋が、ぽつりと呟く。
「……いい人じゃん。」
「ええ。」
黄雀は小さく頷いた。
「だからこそ、疎まれもしました。」
冬彦が、低い声で問う。
「……それは、薫家の内から?」
黄雀は、否定も肯定もせず、曖昧に笑った。
「家というものは、血を重んじます。
正しさよりも、都合を。」
その言葉に、春花の指先がわずかに震えた。
黄雀は続ける。
「やがて、桔梗が志木原に嫁いだ頃、
夏輝の母は……城を出されました。」
夏輝の唇が、きつく結ばれる。
「追い出された、って言えばいい。」
ぽつりと、夏輝が言った。
「病気になっても、戻れなかった。
俺を連れて、城下で暮らして……
それでも、薫の名を捨てなかった。」
黄雀は、胸の前で手を重ねる。
「……守りきれなかったのです。」
春花は、顔を上げる。
「では……なぜ、今になって、城下がざわついているのですか?」
黄雀は、はっとして春花を見る。
「……お気づきでしたか。」
「はい。視線が、重くて……。」
黄雀は、しばらく沈黙し、
それから、決意したように口を開いた。
「志木原が焼けた後、
“福の神を失った地は呪われる”という噂が広まりました。」
千秋が鼻で笑う。
「また噂。」
「ですが、噂は人を動かします。」
黄雀の声は静かだが、重い。
「志木原に縁のある者、
特に桔梗の血を引く者が現れれば、
“再び福を呼ぶ”のではないか、と。」
夏輝が、顔を歪める。
「ずっと、城下は居心地が悪かったんだ。
……俺は母さんよりも桔梗様に似ているから。」
春花は、ゆっくりと息を吸う。
「……母上は。」
全員の視線が、春花に集まる。
「母上は、福の神ではありません。
ただ……人を見捨てなかっただけです。」
その言葉に、黄雀の目が潤む。
「……ええ。桔梗は、そういう人でした。」
静かな沈黙が落ちる。
やがて、千秋が空気を破るように言った。
「ねえ。」
全員が顔を向ける。
「ここ、危ないんじゃない?」
冬彦が即座に頷く。
「……城下の視線が集まりすぎております。
このままでは、牟岐の耳にも届きましょう。」
夏輝が、歯を食いしばる。
「……俺のせいだ。」
春花は、首を振った。
「いいえ。」
真っ直ぐ、夏輝を見る。
「あなたがいたから、ここまで来られました。」
黄雀は、深く息を吐いた。
「……薫の城に、おそらく長く留めることはできません。
ですが。」
視線を春花に向ける。
「正式な客として、少しの間迎えることはできます。
それが、私にできる、せめてもの償いです。」
春花は、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。」
その瞬間、部屋の外で、かすかな足音がした。
城下のざわめきが、
少しずつ近づいてきている。




