旅人
朝の光が、山小屋の隙間から差し込んでいた。
千秋が一番に起き、外で何かを拾っている。
戻ってくると、得意げに掲げた。
「見て。まだ食べられそうな木の実。」
春花は目を瞬かせる。
「それ、昨日もありました?」
「うーん、昨日は無かった気がするね。夜のうちに落ちたんじゃない?」
冬彦は小屋の外で荷をまとめながら、静かに言う。
「……そろそろ、発ちましょう。長く留まるのは、よくありません。」
春花は頷いた。
「ええ。わかりました。」
千秋は肩をすくめる。
「はいはい。じゃあ次はどこ行くの?」
「……山を越えます。」
「へえ。じゃあ、誰かに会うかもね。」
その言葉は、軽く投げられただけだった。
山道を下る途中、
前方から一人の旅人が歩いてくるのが見えた。
年の頃は三十ほど。
荷を背負い、穏やかな顔をしている。
「おや、こんなところで。ご兄妹で?」
冬彦が一歩前に出る。
「ええ。山を越えて、親類を頼るところでございます。」
旅人は、春花と千秋を見て、にこりと笑った。
「それはそれは。お嬢さんたち、旅は大変でしょう。」
千秋が即座に答える。
「慣れてるよ。山は静かだし。」
春花は少し遅れて、丁寧に頭を下げた。
「お気遣い、ありがとうございます。」
旅人は不思議そうに春花を見たが、
それ以上は踏み込まなかった。
「最近は物騒でね。むこうの志木原が焼けてから、ろくな話を聞かない。」
春花の指が、袖の中で小さく動く。
「……というと?」
「志木原は元々、桃が国じゅうに香る、
まさしく桃源郷みたいな場所だったんだけどね。」
その香りを思い出すかのようにうーんと首をひねり、続ける。
「それがあの火事の後は、草一本も生えなくなった、なんて話で。」
旅人は苦笑する。
「本当は分かりませんよ?どこにでもあるでしょう、そんな話。」
冬彦は、静かに頷いた。
「……そうでしょうな。」
少し歩調を合わせてから、道が分かれる。
「では、どうかお気をつけて。」
「そちらも。」
旅人は振り返り、手を振って去っていった。
その背が見えなくなるまで、春花は黙って見ていた。
旅人の背が林の向こうに消えたあと、
しばらくは誰も口を開かなかった。
「……冬彦。」
春花が名を呼ぶ。
声は、いつもと変わらず穏やかだった。
「志木原は、本当に……草も生えぬ地になったの?」
冬彦は、すぐには答えられなかった。
「噂、でございます。ですが……」
「ええ。わかっています。」
春花は、空を見上げる。
「それでも。あの地で、人は生きていたのに……。」
千秋が、ちらりと春花を見る。
「……お城、取り戻す?」
「はい。」
春花が前を向いたまま答える。
「……」
春花は一瞬きょとんとして、
それから、はっと目を見開いた。
「ん、……?」
慌てて口を押さえる。
「い、いまのは…わ…!その、ちが……!」
千秋は、ゆっくりと顔を向けた。
にやり、とも笑わない。ただ、確信した目をしている。
「やっぱり。」
春花は、耳まで赤くなって俯く。
「……あの……」
「別にいいよ。」
千秋は肩をすくめる。
「今のはただの確認作業。」
千秋はそう言って、もう一度前を向いた。
春花はしばらく黙っていたが、やがて、小さく息を吸った。
「……千秋。」
名を呼ぶ声は、震えていなかった。
「わたし、あなたに嘘をついていました。」
千秋は驚いたように目を瞬かせ、
けれど何も言わず、続きを待つ。
「名も、立場も。全部、隠したまま……」
「うん。」
遮るように、千秋が言った。
「知ってた。」
春花が思わず顔を上げる。
「……え?」
千秋は肩をすくめる。
「最初から、ちょっと変だなって思ってた。
言葉の選び方とか、目線とかさ。」
それから、ちらりと冬彦を見る。
「……それに、夜。」
春花の胸が、ひくりと鳴る。
「山小屋で。あたしの狸寝入り、見てたでしょ。」
千秋は、わざとらしく欠伸をする。
「聞こえてたよ。“恨んでいないといい”とか、“小さい”とか。」
春花は、思わず俯いた。
「……ごめんなさい。」
「謝らなくていい。」
千秋は、柔らかく言う。
「でもさ。あたしが知りたいのは、そこじゃない。」
春花は息を呑む。
「取り戻したいのはさ、城? 土地?」
2人の視線がしっかりと絡まる。
「それとも――そこにいた人たち?」
春花は、しっかりと頷いた。
「……人、です。」
その声は、迷いがなかった。
「志木原は、城だけの名前ではないの。
あそこで暮らして、笑って、生きていた人たちの――居場所、だから。」
千秋は、ふっと息を吐いた。
「そっか。」
それだけ言って、立ち上がる。
「じゃあ、あたしも行く。」
春花が目を見開く。
「千秋……?」
「戻る場所を取り戻すなら、手は多いほうがいいでしょ。」
千秋は振り返って笑った。
「それに――」
少しだけ、声を低くする。
「燃えた場所の話、あたしも終わらせたいから。」
沈黙していた冬彦が、静かに一歩前に出た。
「……姫君。」
その呼び方に、春花は息を詰める。
冬彦は深く頭を下げた。
「志島柊士朗の息子として、また一人の臣下として--お供いたします。」
春花は、しばらく二人の顔を見回し、
それから、ゆっくりと頭を下げた。
「……ありがとう。」
林を渡る風が、三人の間を抜けていく。




