美しい女の姿をした何かに愛されている謎の多い青年の話
「実は僕、命を狙われているんだ……」
好きな人との初めてのデートで、お酒を飲みながらそう打ち明けられた。
(どうしよう。シルくん、顔が真っ赤だわ。そんなに飲んでないはずなのに……)
少ししか飲んでいないはずだが、もっと酒の量や彼の様子に気を配っておくべきだったか。
メリーナ、21歳。この街のギルドの受付で勤務していて、目の前の青年ともそこで出会った。その青年の名前はシルといって、仕事を紹介しているうちに彼の優しさに惹かれ、メリーナは気が付いたら好きになっていた。
一見地味で記憶に残りにくい顔をしているシルだが、彼はメリーナより歳下だ。成人はしているがまだ幼さが少し残る顔付きをしている。
そんな彼はふらりとこの街に現れ、ギルドを通じて淡々と仕事をこなしていった。
最初はあまり自分のことを話さず、依頼も必ず一人でこなし、周囲と必要最低限のことしか話さない彼を、皆も警戒していた。しかし、さすがに一年も経つと、彼の仕事の出来や強さ、人柄も自然と伝わっていった。積極的にコミュニケーションをとる性格ではないだけで、彼は優しいし強いことを今ではギルドのほとんどは知っているし、密かに人気もある。うちのギルドの稼ぎ頭の一人と言っても過言ではない。
そんな彼とメリーナはようやくデートに持ち込めたのだ。ようやく!
勿論、シルはメリーナのことなんてなんとも思ってないだろうし、今だってデートとすら思ってないだろう。
メリーナが働くギルドはこの街の警備隊では手が回らない治安維持なども担当している。そのため、ギルドで受付嬢として働くメリーナも新しくできた店の偵察や軽い依頼などは受けている。今日は最近出来た店の様子見だけしに来たのだが、なんとかシルとお近づきになるためにそれを利用して、メリーナの警護役として依頼して彼に付いてきてもらっていた。
シルが自分のことをなんとも思っていないことは重々承知しているが、少しでも異性として意識してもらうために髪も巻いてメイクもいつもより念入りに時間をかけてきた。
(〜〜だってだって! 普通に誘っても断られることはわかってたし! 確実に今後に繋げるために、今日は『依頼』として新しくできた店の偵察の同行としてお願いしたんだもん!)
メリーナは自分自身に対して必死に言い訳をしながら、シルに水を勧めた。
「シルくん、お水飲んで」
「……『おみず』って言い方可愛いですよね」
「えぇ」
酔っている、彼は確実に酔っている。
それでも胸がドキンと高なる。暗い店内の紫やら薄紅やらの淡い照明に照らされるシルは、いつもより大人びて見える。そんな彼が顔を赤らめて、こちらをじっと見つめて「可愛い」なんて舌ったらずに言えば、彼に下心を持っているメリーナはドキドキしてしまうではないか。例え、彼の可愛いが『おみず』という言葉に向かっていると知っていても。
「も、もう、そんなことよりお水飲んで」
照れながらもシルに水を飲ませようとするが、いつもの寡黙さはどこへやら。シルは、メリーナの華奢な手を握った。
「それより、さっきの続き! 聞いてよ、メリーナさん!」
「んんっ」
惚れた弱みだ。好きな人に手を握られているだけで、ときめいてしまい、水を飲まずに酒をもっと飲みたいシルに簡単に誤魔化されてしまう。その証拠に彼はメリーナの手を握っている反対の手で、ジョッキを掴みゴクゴクと飲み干していた。
「あのさ、僕ね、小さい頃から今まで世界各地の集落を回って魔物を倒したりダンジョンを巡ったりしてきたんだ」
「世界各地ですか?」
初めて聞くシルの過去の話に耳を傾ける。
「うん。僕は世界中を回ることがずっと夢だったから。だから毎日楽しく過ごしてたんだけど、ある時大きなミスをしてしまって、それから命狙われるようになっちゃったんだ……」
好きな人が過去の話を自分に打ち明けてくれているという嬉しさと、強く、確実に仕事をこなすシルがミスをしたという話に興味が湧く。
「ここの街の人たちはさ、僕みたいな訳ありの人間にも優しく接してくれてさ。本当に感謝しているよ」
「それはシルくんが頑張ってるからだよ。だから皆もシルくんを認めるし、優しくするんだよ」
「へへ、そうかな」
眉と目尻を緩く下げて、シルはメリーナに優しく笑いかけた。
息が止まるかと思った。
初めてだった、彼の笑った顔を見たことは。
誰だろう、この人を冷たい人だと言っていたのは。いや、メリーナだって最初はシルのことを冷たい人間だと思っていたのだ。あまり人と話さず、フードで顔も隠して、人を寄せ付けない雰囲気を放っていたから。
でも、彼の行動や言葉の端々から滲み出る人の良さに周りの人間は絆されていった。メリーナもそのうちの一人であり、その上恋愛感情という、厄介なものまで抱いてしまったのだ。
「だからこそ、だめなんだ。皆に迷惑をかけるわけにはいかないんだ。」
「さっきの命を狙われているってお話?」
「うん。僕は誰かと仲良くなってはダメなんだ」
「どうして? 皆シルくんと仲良くしたいと思ってるよ」
メリーナも含めて、シルを慕う人たちの代弁をする。
「そう言ってくれて嬉しい。でも、ダメなんだ。殺されてしまう、皆。……僕はね、とある場所でミスを犯してしまって、そこの人に命を狙われているんだ」
「そんな……。それならみんなで対策を考えてーー」
「それはできない」
この優しく笑って、人懐っこそうで、ゆっくりと穏やかな声で話す、今が彼の本当の姿だとしたらーー、そう思ったメリーナの言葉をシルは緩く首を振りながら遮った。
そして、ジョッキを握っていたもう片方の手もメリーナの手に当てて両手で優しく振れると真摯に頼み込んできた。
「その代わりメリーナさんにお願いがあるんだ」
「なんでも言って、シルくん」
あなたのお願いならなんでも聞く。厄介な客に絡まれた時助けてくれたあの時からーー。
「ある人を見つけたら教えてほしい。そして、逃げてほしい」
「ある人? どんな人なの?」
「それは、」
真剣な顔をしながらシルが言葉を繋げようとした、その時。
チリン、と店の扉についている心地の良い音がする。
メリーナはシルからの真剣な話の途中のため、誰か入ってきたな、程度にしか思っておらず視線はシルから離さなかった。
しかし、シルは音のする方向にチラリと一瞬目線を動かして、固まった。そして、みるみるうちに顔色は青ざめていく。
周りの客もざわざわとし始めたため、メリーナも少し不思議に思い、今入ってきたであろう客の方を振り返り言葉を失った。
それは絶対的な存在感だった。存在しているのに儚いような、すぐにでも消えてしまうような雰囲気の美女がいた。しかし、雰囲気とは打って変わって、圧倒的な美しさから溢れるオーラは周りを押しつぶしてしまうほどだった。メリーナも可愛らしい顔と平均より身長も胸も大きいほどだが、同じ女でも比べることもできないほどにその長身の女は美しかった。白い肌に切長で大きな瞳、豊満な胸に、細いくびれ、ハリの良さそうな臀部からほっそりとした長い脚。あまりにも女としての格が違った。
漆黒でありながら艶がある長い髪を靡かせて、スラリと伸びる細い脚で優雅に歩きながらメリーナたちの方に近づいてくる。
顔は穏やかな顔をしているのに、何も感情を感じ取れないような印象を受ける。笑っているのに笑っていない。ただ、口角を上げているだけのような、初めて会った人なのにこの人は死ぬ程怒っていてもこんな顔ができるのだとメリーナが思ってしまうような表情だった。
ついにメリーナの前でその女は止まった。いや、厳密にはシルの前か。
変わらずシルは体は微動だにしなかった。しかし、顔は引き攣り、歯をガチガチと鳴らし青ざめていた。
そして、女はふわりと浮き上がるとシルにぎゅうと抱きついた。
「会いたかったぞ、シル。妾を置いてどこにもいくなと言ったはずであろう」
豊満な胸は谷間にシルの頭を固定したことでふにゅりと形を変え、女はそれをよしよしと撫でる。女は嬉しそうにしばらくシルに触れ続けると、やっとメリーナに気が付いたのかギョロリと目をやった。そして、いまだに触れていたシルとメリーナの手が目に入った途端、メリーナは呼吸ができなくなった。
いきなり現れた黒いモヤのような、確実に実態のあるそれに首を絞められ息ができない。そしてそれによって体ごと上に上げられ、体中をモヤに絡め取られてしまった。
「この泥棒猫が。妾の夫に手を出そうとするとは死に値する」
ギギギっとさらにモヤの首を絞める力は強くなり、もうダメだとメリーナが思った時だった。
「辞めてくれ!」
シルの叫び声によってモヤは動きをピタリ止めた。
「彼女はなんの関係もない。ただ話をしていただけだ」
「何も関係ない女と手を繋ぐと?」
「僕が礼をするときに、一方的に握ってしまっただけだ、本当にそれだけだ。信じてくれ」
美女はそれでもメリーナを離そうとしなかった。苦しそうなメリーナを横目にシルは覚悟を決めたように、改めて女に向き直った。
「……この人を下ろしてくれたら君の言う通りにしよう」
すると女はぱぁっと笑った。
「はは! そうか。よかろう、その下等生物は見逃してやろう。……本当に何にもしていないみたいだしな」
すんすん、と女はシルの匂いを軽く嗅いだ。そして、酒の匂いも感じ取ったのだろう。急に女は心配しうな顔をした。
「飲んだのか? 主は酒に弱いだろう?」
「それより早く彼女を下ろすんだ」
その瞬間、思い出したかのようにぽいと黒いモヤはメリーナを捨てたため、メリーナは尻に衝撃を受けた。
「いたっ」
「大丈夫ですか?」
シルの声がする方にメリーナが目線をやると、女は凄まじい形相でシルの後ろから睨んでいた。
メリーナは恐怖で凍りつく。
女の顔がさっきまで見ていたものではなかったからだ。それは女の顔をした人間ではない何かだった。そんな、何かのお気に入りであるシルの気を目の前でメリーナが引こうとしていると判断されたのかもしれない。
何かは、艶かしい足をシルに巻き付け、体を固定させると胸を顔に押し付け、必死に気を引こうとした。
「あぁ、シル。妾の願いを聞いてくれるとのことだが、そんなことはしなくて良いぞ? 妾たちは伴侶、そのようなものがなくとも主の願いはなんでも叶えようぞ。だから主も妾の望むことは変わらず守ってくれるな?」
気がつくとそれは元の美しい女の顔に戻っていた。
「そうでなければ妾は悲しくて悲しくて、この雌どころか、街全体を焼き払ってしまうかもしれんからなぁ」
メリーナは悟った。なぜシルが必要最低限しか誰かと仲良くしようとしないのか。いつも周囲と壁を作っていたのか。シルが言っていた『大きなミス』『命を狙われている』とは。
(こんなの叶うはずない……)
それが全て、この恐ろしいほど美しい何かから私たちを守るためだったとしたら。
「それにしても本当に会いたかったぞ、シル。安心しろ、主に前頼まれたものは用意したからのう」
シルは一見無表情に見えた。しかし、怒りか恐怖からか彼の拳は震えていて、握り締めすぎた拳からは血が流れていた。
「手に入れて戻ってきたら主がおらぬから本当に探したぞ。妾がどれだけ寂しい夜を過ごしたか主は知らんのだろうなあ」
何かは血のついたシルの手を自分の顔に持ってきて、顔を赤らめ、この世で誰より一番幸せだと言わんばかりの嬉しそうな顔で艶かしく笑った。
「これからはずっと一緒だぞ」
シルの顔は圧倒的な何かに命を狙われ、人生に絶望しているもののそれだった。