太陽と向日葵
作中の色について
HTMLカラーコードは
若葉色
#b9d08b
青褐
#242550
です
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ご参考までに
癖のない艶やかな栗色がほつれて風に遊ぶ。裾長のドレスは大人しい暗緑色だ。壮年にはもう少しだが、娘時代はとうに過ぎ去った落ち着きがある。
何気なく見上げた若葉色の垂れ目が、穏やかな青褐に出会う。晩春の午後はどこかしら艶いて、川風を迎える草原の花がざわざわとさざめき合う。
「寒くありませんか、オルタンス」
気遣う紳士のシンプルな灰茶の上下は、少し出てきたお腹をゆったりと包んでいる。紳士は、解れた栗毛を愛おしそうに形の良い耳へ掛けてやる。オルタンスの若葉色をした垂れ目が嬉しそうに細められた。
「ふふっ、大丈夫ですわ。ありがとう、ルネ」
「そろそろ帰りますか?我が麗しき奥方様?」
「ええ、帰りましょうか。私の可愛い旦那様」
オルタンスは灰色レースの手袋で、ルネの銀青に耀く髪に触れる。やや骨ばったしなやかな指先を緩く撫でつけた短髪に差し入れた。
「髪油がついてしまいますよ」
「あら、魔法コーティング糸ですから、ご心配なく」
「おや、新作でしたか」
「まあ、お気づきになりませんでしたの?」
オルタンスは揶揄うように、若葉色をキョロリとさせた。その様子にルネは青褐を細める。スッと腰を屈めると、妻の柔らかな唇に優しく自分の唇を合わせた。
「相変わらず研究熱心ですね」
「新らしい糸の開発はいくつになっても楽しくて」
「一途に打ち込む貴女は素敵ですよ」
愛を囁かれた妻は照れくさそうに目を伏せると、指先で夫の首元に触れる。レースの網目から覗く細長い爪先は、染粉の色が抜けずに黒っぽい。触れた先には鹿子編みの蝶タイがあった。ルネの瞳とお揃いの灰色がかった濃紺だ。
「これも試作品よ?」
ルネは銀青の眉を下げ、困ったように笑った。
「ははっ、どうにも鈍いな、私は」
「うふふ、変わらないわねえ」
「君の悪戯な笑顔も、あの夏の夜と変わらない」
2人は満ち足りた笑みを交わす。ルネは妻の腰を支えて川辺から離れた。
この川は草原を蛇行して、険しい岩山の麓を回り込む。急流となって峡谷を抜ける間に、山から落ちる滝の水も合流する。ここは難所である。荷船の船頭は熟練の技を競うのだ。
再び広野へと出れば、川幅もひろくなる。ゆったりと微睡むように流れてゆく。やがて川は、ルシエル王城のある都パラプリュイへと流れ込む。
一方上流には魔法水晶の鉱山がある。水源となる鉱山には、昔水晶を食べる龍が住んでいたそうだ。龍はルチルースと呼ばれた。その名をとって、この地方はルチルースと名付けられたのである。
川の名前もルチルース川、流域にある村々と首都とを結ぶ水運の要だ。荷船の運休日には、船遊びにも使われている。
「あれからもう20年も経ちますのねぇ」
オルタンスはしみじみと言った。ルネはハッとして目を見開いた。丸みのある頬と真っ直ぐな鼻の上で、青褐の瞳が陽射しを受けて煌めいた。
「そうか、そんなに経つか」
「ええ、経ちましたわ」
「そうかあ」
「はい」
にこにこと受け答えるオルタンスは、斑駒が繋がれた立木へと向かう。愛馬の灰色っぽい白全体に、黒ずんだ灰色が斑らに散っている。
「君はあの日も、こんな斑の馬に乗っていたね」
「まあ、良く覚えていらっしゃるのね」
「当たり前だろ?君は忘れてしまったの?」
「んふふ、覚えておりますとも」
馬の首を軽く叩いてやり、オルタンスは斑駒の引き綱を解く。20年前とは別の馬である。毛並みに拘りがあるのか、或いは偶然なのだろうか。馬は先代の話題を気にする様子もなく、女主人に円らな瞳を向けている。
オルタンスはドレスだというのに、夫の手を借りずヒラリと横乗りに収まった。繊細な銀の縁飾りがついた優雅な鞍である。
歩き出した蹄の裏で、頑丈な蹄鉄が午後の陽射しを照り返す。綱を引くルネの半身に光の筋が踊っていた。
「君は女神のようで、しかも勇者のようだったよ」
「あなたは龍に襲われる姫君のようでしたわ」
「はは、面目ないねぇ」
馬の背でピンと背筋を伸ばしたオルタンスは、悪戯な笑顔を地上に向けた。
「しかし、あの夏のルチルース川は水量が増して、本当に龍が暴れているようだったなあ」
「あんな川に船を浮かべるなんて、無防よ」
「仕方なかったんだよ。崖崩れで山路は塞がっていたから」
「いくら火急の用だからって、あんな濁流を昇るなんて。下るのだって危なかったのに」
当時を思ってかオルタンスは、呆れ顔で目を細める。
「第一、濁流どころか本当の龍だって暴れていたのに。蛮勇って申しますのよ、そんなのは」
「手厳しいな」
「ほんとにルネは。大人しそうな顔をして無茶なんだから」
「ルチルース地方に名高いシャトー・エロン・ダルジャンの銀鷺騎士団が、最後の希望だったからね」
「あの時、念のため峡谷まで足を延ばしてよかったわ」
オルタンスは蔵を飾る銀の縁模様を撫でた。ルチルースの天敵とされる銀色の鷺が、長い脚を畳んで天翔る姿が透かし彫りで表現されている。
「あんな炎と嵐の夜にも空を巡視するなんて、君の実家は本当に勇敢で飛び抜けた実力があるよね」
「今じゃ、魔法加工糸のしがない製造者ですけどね」
「でも、鍛錬は欠かさないだろう?」
ルネはややふっくらとした手を、オルタンスの骨ばった手に重ねる。愛おしそうに見上げる青褐は、昔日の夜嵐に渦巻いた一面の炎を思い出す。
◆
その真夏の夜に、遠く岩山の向こうでは、惨劇の幕が切って落とされた。折しも吹き荒れる大嵐の中、家々は窓に毛皮や板を打ちつけて厳重な戸締りをしていた。
「暑い」
「何?何の音?」
灼熱に驚いて目を覚ました牧童や農民たちは、真っ赤な視界と耳をつんざく咆哮に戸惑った。閉じていた筈の窓は焼け落ち、石造りの屋根は炎で炙られていた。家の中は蒸し風呂である。
「燃えてる!」
「逃げなきゃ」
「息が苦しいよぅ」
「えっ?何?なんなの?」
何処からともなく現れた魔龍の集団が、広野も畑も焼き尽くした。大雨は降る側から蒸発する。辺りは豪炎と煙、そして靄に包まれてゆく。魔龍の広げた黒々とした羽は巨大な蝙蝠のようだ。その影は豊かに波打つ麦畑をすっぽりと覆う。炎はその巨大な生き物たちの口から吐かれていた。
「ひいいっ、凄い牙だよ。喰われちゃうよ」
「いいから黙って走りなさいっ」
人々は逃げ惑い、山や川を目指した。一部は街へと走る。城壁を守る物見の兵士が城に魔法の伝書を飛ばす。それを受けて駆けつけた二ュアジュドール王国騎士団は、城門を開けて国民を迎え入れた。国王の対応は迅速で、通常夜間は閉じられている門を自ら出向いて開かせたのである。
しかし、王国の中心、ルシエル王城も安全ではなかった。小高い丘の上に建つこの城は、戦に向く造りではない。貿易と外交で名を馳せた初代ニュアジュドール国王ロワゾーⅠ世は、国の外縁に砦をめぐらせた。反面、中央には客人を楽しませる瀟洒な城を構えたのである。
城下を囲む外壁は堅牢だ。とはいえ、いきなり王国の中心部に現れた謎の生物に対抗できる力はない。炎の舌は岩壁を舐め回し、家々を呑み込んでいった。護りに向かない王城は頼りない。それでも他に行く当てもなく、人々は城へと逃げ込む。
国史資料室の研修生だった16歳のルネ少年は、その日資料室の宿直で城にいた。寝苦しい真夏の真夜中、ふと目が覚めて窓の外を見れば、空は真っ黒で城外の広野は煌々として真昼のようだ。
ルネ少年は、そんな大火を見たことがない。
「何だろう」
彼にはそれが龍と炎だとは分からない。そもそも、突如襲来した生物の群れに、呼び名はまだなかった。事態が収束したのちに魔龍と名付けられたのである。
「ルネっ!地下に早く!」
宿直室のドアが激しく叩かれ、顔見知りの騎士が叫ぶ。
「急げよ!」
騎士の足音は騒々しく遠ざかり、ルネが部屋を飛び出した時にはもう背中も見えなかった。
「翼竜ルチルース?」
建国より100年、今より遡ること300年の大昔のこと。岩山の彼方水晶窟付近で、魔法の力を持つ銀色の鷺達がルチルースと戦った伝説がある。吟遊詩人が遺した唄には、ちょうど今のような空が描写されているのだ。
ルネ少年の目では、魔龍が大群であるとは見分けられなかった。ルチルースは巨龍と伝え聞く。一頭で無数の魔龍と同じ被害を出したのだ。それを下した銀鷺の群は、どんなにか勇壮であったことだろう。
ルネ少年は、好奇心に駆られた。資料室に志願する程の少年である。歴史的大事件を逃す手はない。指示された先の地下室へと走ることなく、物見の塔へと続く渡り廊下に急ぐ。
彼は物事を整理して分類し提供しやすくする事より、中身に対する興味のほうが強かった。分類学者ではなく、歴史家に近い興味で資料の側にいたかったのだ。資料室員としては、些か難ありとも言えるが。
「うわあっ」
頑丈な石壁で守られた渡り廊下には、敵に弓の雨を降らせる狭間が無数にある。その穴からチロチロと炎の舌が襲って来たのだ。
「魔法の鎧!」
ルネは生まれて初めての魔法を使った。声に出して魔法の名称を唱えつつ、ややふっくらした指先で空中にその名称を書く。忽ち文字が銀色に光り、線は解けてルネの周りで踊る。
休憩時間に読み齧った魔法書を咄嗟に想い出したのだ。魔法を使える国民は少ない。書物は高価だ。それどころか、一般国民は文字も知らない者が多い。そのため、特殊用語の多い魔法の勉強が出来ないのである。実は意欲さえあれば、魔法は誰にでも覚えられるのだった。
◆
ルネは製紙職人の三男坊である。この国の紙は、獣皮を加工して作る高価な製品だ。書物の材料は何もかも高く貴重だ。それ故に書物は宝物のように扱われる。
ルネの実家が抱える顧客の殆どは、城や神殿の職員であった。ある日、城の資料室員が記録用の紙を求めてルネ少年の実家を訪ねてきた。
「保存魔法加工は出来るかね?」
「出来るにゃ出来ますが、外注になりますんで、追加料金がかかりますが」
父が特殊加工の説明をする。4歳だったルネはクスリと笑ってしまった。
「紙屋が魔法なんか使えないよー!おじさん、そんなこともしらないのぉ?」
子供らしい無邪気さで、ルネは資料室員に威張った。
「はは、坊主、威勢がいいな」
幸い資料室員は穏やかな人物だった。
「だがな?魔法は学べば誰にでも出来るんだぞ」
「ええっ?ほんと?ぼくもやる!」
ルネは眼を見開いて叫んだ。
「はは、そうか。まずは文字を読めなくてはな」
「文字?普通の人が読むと危ないって聞いたよ?」
4歳の額に皺がよる。
「そりゃ、神官文字だ。半端に覚えてうっかり間違えたら神罰がくだるからな」
「うん、神官様もそうおっしゃった」
ルネは不安そうに頷いた。
「魔法に使うのは、もっと簡単な文字なんだよ」
「ほんとう?違う文字があるの?」
「あるさ。この世の中にはな、沢山の文字があるんだぞ」
「へーっ!」
「坊主、知りたいかね?」
「うん!ぼく知りたい!」
資料室員は満足そうに眼を細めると、ルネに言った。
「そしたら、少し待ってなさい」
注文を終えた資料室員は、工房の外で小石を拾った。
「ほら、これが王国文字の第一番だ」
「王国文字の第一番」
「それ、書いてみろ」
「うん、簡単だね!」
「うん、うん、上手だぞ」
2人の眼がキラリと光って交わった。
「坊主、名はあるか」
「うん。あるよ。ルネ。おじさんは?」
「ジェラールだ」
歳の差を超えて同類の臭いを嗅ぎ分けた瞬間である。ルネはその時、五つの文字と読み方を習った。
数日後、資料室員ジェラールがまた訪ねて来た。
「おや、追加注文ですかい?」
「いや、今日はルネに用がある」
「ルネに?」
「この前教えた王国文字を覚えているか様子を見に来たんだ」
「ああ!そのことですかい。毎日嬉しそうに書いてますよ!お陰さんでうちのもんはみんな第一番から第五番まで、書き方と読み方を覚えちまいましたぜ」
資料室員は驚いた。家族仲良くしている為に、子供の落書きでも覚えてしまったのだろう。
「こりゃ、たいそうな血筋じゃないか」
「へっ?」
「子供の遊びと捨ておかず、家族のしていることを自然に覚えられるのは、すごいことだ」
「ははは、自然に覚えちまうほどルネが繰り返してたんでさあ。こっちは別に興味もねぇんですがね」
「そうか。それは残念だ。それはそうと、ルネはいるかね?」
製紙工房の親爺は、職人にしては愛想よく頷いた。
「ルネ!旦那さんがお呼びだぞー!」
奥の部屋に声をかけると、4歳のルネが転げるように飛び出して来た。
「ジェラール!やっぱり!声でわかったよ」
「はは、ルネ。ごはん食べてたのか」
ルネの口には真っ白いミルクの髭が出来ていた。庶民の食べる硬いパンを、慌ててミルクで流し込んだようだ。
それから時々新しい文字を習ううちに、半年が過ぎていた。ルネはもう、簡単な文なら解るようになっていた。
「どうだ、ルネ。国史資料室に来ないか?文字は魔法の他にもいろんなことに使えるんだぞ」
「ふーん、ぼく、知りたい」
「どうだね、親爺さん?」
「ル、ネが、お、城、に?」
親爺は驚きのあまりブツ切れの言葉を発した。
「ああ。覚えも速いし正確だ。賢い子だよ。お城でも充分にやって行けるさ」
思えば、紙工房の注文記号も特殊文字のような物だ。数種類を組み合わせて使っている。この家には、もともと識字の下地があったのである。
こうしてお城に上がったルネは、12年の間に色々なことを学んだ。何もかもが面白く、文字を覚え、言葉を知り、歴史を彩る文化を知った。あっと言う間の12年間だった。初めの目的である魔法については、読んではいても試したことがなかった。ついつい面白くて、練習する前に先を読んでしまうものだから。
◆
「やった!成功だ」
ルネの周りを揺れながらぐるぐると回る光の筋は、ミュルトゥリエールから襲う魔龍の炎を見事に弾く。
その時、物見の塔から伝令が駆けて来た。服は煤けて焦げている。物見係の制服には防護魔法がかけられているのだが、防ぎきれなかったようだ。
「魔法騎士殿!お勤めご苦労様です!」
「え?ぼく、国史資料室研修生ですけど」
「え?は?や、そんな?」
伝令は足を止めて戸惑いを隠せない。
「魔法騎士団が出撃したんですね?それなら、もう安心ですよね!」
「え、いや、その」
伝令の顔色が悪い。
「あの、もしかして、劣勢ですか?」
「あっ、いえ、こうしちゃいられない!」
伝令は我にかえって、城の本館へと猛スピードで去った。ルネはしばらく考えていたが、ひとつ小さく頷くと、再び物見の塔を目指した。
「魔法騎士殿、お勤めご苦労様です!」
ルネが塔のてっぺんに到着すると、3人ほどの物見係が声を揃えて頭を下げた。
「えっ、違うよ。ぼくは国史資料室の研修生です」
「へっ?」
「資料室員は魔法を使えるんですかっ!」
「物見係の護衛ですねっ?」
物見係たちが嬉しそうに言った。ルネは苦笑いである。
「ごめんなさい。違うんです。ここに来れば、何が起こってるのか解るかと思って」
「や、え、その」
「はぁ、違うのか」
「なんだよ、期待させやがって」
三人三様の反応を見せて、物見係はくるりと背中を向けた。ルネは気まずそうに空を見上げる。
絶望的な状況が繰り広げられていた。ルネは悲しそうに3人を見る。それから、大きく息を吸い込んだ。魔法の鎧に護られているので、ルネの吸う空気は清浄であった。目の前に立つ3人は、制服の防護魔法がうまく機能せず、息苦しそうである。
「ラルミュールマジーク、貴方に」
ぼそりとつぶやきながら、ルネは3人それぞれに向かって文字を書く。すると、魔法の鎧が物見一人一人を覆う。
「おおっ!」
「これはありがたい」
「なんだ、出来るんじゃねぇか」
「ははっ、良かった。成功しました」
「なんだと?」
「え、失敗するかもしれなかったんですか?」
「何にせよ、ありがとう」
防護服がそろそろ限界だったらしく、不満な男も不審がった女も感謝した男も、みな一様に安堵した。
「あの、どういう状況でしょうか?」
眼下の城下町は燃えている。大きな梁や馬車が熱風に巻き上げられて竜巻のようになっていた。人々の悲鳴は高い物見の塔にまで轟く。
「どうって、見ての通りだろ」
「魔法騎士団も壊滅状態だよ」
「伝令が騎士団本部に避難許可を貰いに行ってる」
物見係は、勝手に逃げてはいけないのである。
「魔法騎士団もお手上げ……」
ルネは眉間に縦皺を寄せて真っ黒な空を睨む。
「そうだ!銀鷺騎士団!シャトー・エロン・ダルジャンには、援軍を頼みましたか?」
「そんな暇はなかった」
「そういや、聞いてない」
「だけど今更」
「何で!ルチルースみたいな奴がこんなに飛んでるのに?ルチルースといえば、銀鷺でしょう?」
ルネは興奮して詰問した。目が慣れてきて、黒い塊が無数の生物が群れをなしているのだと分かってきた。蝙蝠のような羽とギザギザの歯や恐ろしい爪を持つ生物だ。牙を剥いて炎を吐き散らしている。
「ちっ、うるせぇな」
「伝説とは違うんだ」
「銀鷺騎士団は伝説から名前を貰っただけで、銀鷺を使うわけじゃないんだよ」
ルネはぐっと唇を一文字に引き結ぶ。ルチルースだって伝説だ。今、目の前に龍のような生き物が押し寄せて来たではないか。龍がいるなら、天敵の銀鷺だっているはずだ。
「ぼくが行く」
「え?」
「何?」
「どこへ?」
物見係たちの困惑を尻目に、ルネは城内にとって返した。
「走ってたら間に合わない。銀鷺の城は遠く険しい岩山の向こうだ」
城の長い廊下を走り、曲がりくねった階段を駆け下りながらルネの頭は休みなく働く。読んだ限りの歴史書や魔法書を思い出す。
「ええと、魔法のロバ」
城の裏庭に出て唱えれば、光の文字は銀灰色のロバになる。ルネは馬には乗れないが、ロバならしがみついていれば何とかなりそうだ。
混乱の最中、裏門は開いている。門番は逃げ込む国民を誘導するので手一杯だ。ルネは魔法のロバによじ登り、誰にも見咎められることなく、火の海へと乗り出した。
魔法で作った生き物だけあって、乗り心地は良い。しかも速い。そこらの農耕馬より力強く走ってゆく。
「ああっ、無理か!」
峠に差し掛かると、龍の羽ばたきが生む風や炎で崖崩れが起きていた。岩山とはいえ僅かながらに木も生えている。たくさんの魔龍が口から炎を吐き出せば、山火事も起きる。
苔が燃えて火の玉になった大岩が降ってくる。燃える大木が落ちてくる。城下町や平原はなんとか抜けて来たのだが、これは流石に越えられそうにない。ルネの魔法は初歩的なものだ。燃える崖崩れは、とても防ぎきれないだろう。
ルネは崖下に眼を向ける。濁流が怒り狂った龍のように峡谷を駆け下るのが見えた。ルネは一瞬怯んだ。しかし、一瞬だけ。ごくりと唾を飲み込んで、覚悟を決めた。温和な丸顔に緊張が走る。
「降りるよ!」
掛け声に従って、魔法のロバは切り立った崖を真っ逆さまに降りてゆく。
「魔法の小船!」
急流に飛び込む瞬間、ロバの首元にルネは指先を走らせた。光の文字はロバの姿を小船へと変えて空に浮く。ルネは魔法の小船に飛び乗った。小船は急降下して坂巻く波頭を切り裂いた。ルネは激流に揉まれながら、シャトー・エロン・ダルジャンへ向かう。
「まあっ、アハハハ!なんてかた!」
突然、頭上から華やかな笑い声が響いて来た。見上げれば、白銀に輝く甲冑姿の女騎士がいる。羽もないのに天翔る斑駒にも、白銀の額当てや胴を覆う防具が着せられていた。
「何なさってんのよ?あなた!」
空飛ぶ馬に乗る人の短い栗毛は少年のようだが、女性らしいしなやかな身体つきをしている。鞍に見える銀鷺の透かし模様は、その人に良く似合う。
「女神様……」
「やあだ!ただのオルタンスよ!」
乙女オルタンスの快活な笑い声に、ルネの心は忽ち解れた。不安が嘘のように溶けてゆく。
「ぼく、ルシエル王城の国史資料室研修生です。シャトー・エロン・ダルジャンに援軍を求めて参りました!」
「んまあ!お一人で?アハハハ!凄いのね」
「凄いですか?へへっ」
ルネは照れて頭を掻いた。もうすっかりオルタンスのペースである。
「褒めてないわよ、いや、褒めてもいるんだけど」
オルタンスはまるで魔龍などいないかのように、屈託ない笑顔をルネに向けた。
「それで、今夜の嵐も押し除ける龍っぽい奴らの群れは、王様のお城も襲ってますの?」
「はい!そりゃもう」
「ふうん、そしたら、救けに行かなくちゃね!」
「君は銀色だけど、太陽の勇者様みたいだ」
ルネはぼうっと見惚れて、オルタンスを伝説の勇者に準えた。太陽の勇者は、銀鷺の群れを率いたと謳われるシャトー・エロン・ダルジャン初代城主だ。ルネが憧れる伝説の大賢者である。
「まあっ!貴方は暴れる水の龍に襲われてるお姫様かしら?アハハハ」
「へへっ、救けてください」
「あら、自分で何とかなりそうですけど?」
オルタンスはニヤニヤと悪戯な流し目をよこす。若葉色の垂れ目が乙女らしい清廉な艶を見せる。思わず綻びるルネの口元に、オルタンスはふと目尻に朱を奔らせた。
「仕方ないかたね。うちのお城にいらっしゃい」
にこっとしながら手を差し延べて、オルタンスはルネを馬上に引き上げた。魔法の小船は銀色に輝く光の糸になり、解けて消えた。
「なんて美しく単純な魔法なの!資料室の魔法って便利なのね?」
明るく話しかけながら、オルタンスは魔龍を蹴散らしてシャトー・エロン・ダルジャンに帰城する。異様な光景のはずなのに、ルネにはちっとも不思議ではなかった。出会ったばかりではあるが、オルタンスならこんなこと出来て当然だと感じてしまう。
「今日初めて試したから、単純なのしか出来ないんです」
穏やかながらも快活で物怖じしない返答に、オルタンスは頬を染めた。
「初めてですって?本当になんてかたなのよ!アハハハ!」
「いや、へへ。それより、この馬はどうやって飛んでいるんです?どんな魔法でしょうか?」
「魔法生物なのよ!気がつかなかった?」
「魔法生物!本当にいたんだ」
ルネは魔龍の咆哮に消されない会話にも、疑念を抱かない。銀鷺の実在も信じてやって来た。それなのに、魔法生物の実在には驚嘆した。
「まあ!そんなに魔法がお上手なのに、魔法生物は信じてらっしゃらなかったの?わが銀鷺の城に着いたら驚くわよ!」
「魔法生物がたくさん居るのですか?」
「ええ。魔法の馬も、魔法の鷺も」
ルネは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をした。
「あっ、そうか!銀鷺も魔法生物だった」
「ええっ?ほんとに、アハハハ!あなた、素敵よ!ルネ!」
「えへへ、面目ないなぁ」
◆
銀鷺騎士団は無事出撃し、悪夢の一夜は過ぎ去った。復興まで10年もの月日が費やされたのだが、国は滅びを免れたのである。その日から、はや20年。シャトー・エロン・ダルジャンの入婿となったルネは、あの日出会った太陽の女神様に嬉々として付き従う日を送っている。
そう、まるで、太陽を追いかける向日葵のように。
お読みくださりありがとうございます