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ボルダリングに出会った日のこと

作者: みれい

 一日一日、一歩一歩と進み続けることで、乗り越えられる壁がある。


 そのスポーツに出会ったのは、テレビでオリンピックを見ていた時のことだ。壁についた突起を掴み、時には飛びつき、時には押さえつけて、ゴールを目指す。ボルダリングという名称と内容は、少しずつ市民権を得てきているところだった。ある選手は力強く、またある選手は華麗に登る姿に、ミズキの心は躍った。登れたら得点、駄目なら無得点。そんな単純なルールも分かりやすくてよかった。見事登りきってガッツポーズを見せる選手は、応援しているであろう関係者やファン以上に、本人が嬉しそうにしている姿が印象的だった。


 ある日のこと、近くにボルダリングが出来る施設があるので行ってみないか、と同級生が声をかけてきた。ジムと呼ばれるそれは、一般的なスポーツジムとは異なりボルダリングだけを行う施設らしい。テレビで見たような壁がそこにあって、自分自身で登ることが出来るという。壁といっても画面の中にあったそれは、見るも複雑な形をしている上に、手前に倒れている……つまり垂直よりも傾いていたり天井のようになっていて、ぶらさがるだけでも至難と思われた。素人がとても登れたものじゃないだろうと返すと、中にはそういうジムもあるが、初心者や初級者向けの壁が多く設えられているジムがほとんどだそう。そういうことであれば、運動は体育の授業程度しか経験のない自分でも、あの感覚を体感出来るかもしれない。


 週末、駅前で同級生と待ち合わせたミズキは、スポーツウェアに身を包んでいた。ジムのホームページには動きやすい服装でと書いてあったので、部屋着として使っているジャージの上下を着てきたのだ。似たような服装の同級生と、ジムまでの道を歩く。果たしてどんな施設なのだろうか。どんな人がボルダリングをしているのだろうか。


元は何かの倉庫だったであろうそのジムは、殺風景な見た目をしていた。ジムの名称がデザインされた看板が飾られていなければ、前を通り過ぎていたかもしれない。恐る恐るドアを押し開けて中に入ると、目の前には高くそびえる壁が広がっており、色とりどりの突起が無数に取り付けられていて、何人かが登っていた。これがボルダリングジムか。


「いらっしゃい、初めて?」呆気に取られたかのように壁を眺めていた二人に声をかけてきた男は、日に焼けた肌にヒゲをたくわえ、長いドレッドヘアーを一つに束ねた容姿をしており、スポーツからは全く程遠い印象だったが、どうもジムのスタッフらしい。このジムに来るのも、ボルダリングを経験するのも初めてであることを伝えると、ボルダリングの基本的なルールやマナー、ジムでの決まり事について教えてくれて、専用のシューズを貸し出してくれた。少しキツい、先の尖ったゴムソールの靴。これを履くとあんな壁が登れるのだろうか。


 ボルダリングは、壁に取り付けられたホールドと呼ばれる突起を手で持ったり足で乗ったりして、スタートからゴールまで決められたホールドだけを使って登るスポーツだ。どのホールドをスタートにして、途中でどのホールドを使って、どのホールドでゴールするかの一連の流れを決めたものを課題と呼び、初心者向けの課題は、課題で指示されていないホールドに足をおいても良い課題が多いため、バランスを取りやすかったり、無理な姿勢を取らなくて済むことが多いが、徐々に足を置いてよいホールドが限定されてきて難しくなることが多い。そうなるとオリンピックで観たような、大きく飛び出して腕だけでホールドをつかんだり、今にも滑りそうな足元を頼りに絶妙なバランスで先に進んだりするようになる。


当然ミズキたちは初心者向けの課題から登ることになった。初心者は壁の傾斜も緩やかなところから始めることが多く、そのほとんどは垂直だ。従って、感覚としては変わった形のハシゴを登っている感じになる。公園にあるような大きな網をよじ登る感覚に近いかもしれない。始めのうちは、特別運動をしているわけではない彼らでもそこまで苦労せずとも幾つかの課題を登ることが出来た。しかし次第に指や腕が痛くなり、休み休み登ることになった。休んでいる間は他の人が登っている様子を眺めていたが、傾斜の強い壁を登っている人たちを見て、自分たちもあんなことが出来るようになるのだろうか、ああなるにはどれほど登ればいいのだろうか等と好奇と羨望の視線を送るのだった。


痛みが治まってきて再び登りだす。少し傾斜の強い壁に挑んでみると、足に体重をかけにくくなり必然的に指や腕への負担が増してきた。また休み、しばらくして登って、また休んで……。そうやって繰り返し挑戦していると、指や掌が悲鳴を上げ、腕はパンパンになった。どうも限界らしい。スタッフに声をかけて終わる旨を伝えシューズを返すと、「どうでした、疲れたでしょう」と見た目に似合わない温かい声をかけてくれた。みんな初めは誰でもこんな感じですよと慰めてくれたが、本当にそうだろうか。この疲労感はそうそう味わえるものではない。


 案の定、翌日は全身が筋肉痛で起き上がるのも辛かった。指や掌の皮膚は赤くなり、今にもはち切れそうだ。楽しかったのは最初だけで、後半はひたすら辛かっただけのようにも思う。一緒に登った同級生と他のクラスメートに感想を伝えながら、もうボルダリングはいいかななんて話していたが、少しだけ引っかかることがあった。最後に挑んでいた課題、あと少しでクリア出来そうだったけど、昨日は腕が辛くてダメだったが元気な時に登ればあるいは……


 次の週末、再び例のジムに現れたのはミズキ独りだった。同級生はもう勘弁とつれない返事、少し怯んだが課題クリアへの思いが上回り、ひとり足を運んだのだ。受付には先日とは違うスタッフがいたが、二度目であることを伝えると説明は必要ないですかね、と笑顔で送り出してくれた。今日こそは。


軽くラジオ体操めいた準備運動を行って、腕慣らしに先日も登った初心者向けの課題を幾つか登る。同じ課題でも易しく感じるのは、少しは上手くなったからなのか、まだまだ元気だからなのか。気を良くして少し難しい課題に挑戦し始めたミズキは、ついに先日クリア出来なかった課題にたどり着いた。この課題は足を置くホールドは自由なものの、途中でどうしても身体を強く傾けざるを得ないところがあり、バランスを取ることが難しい場面だったのだが、ちょうど足を置きたいところにはホールドがなく、上手く登れないのだった。


今日はまだ元気だし、登り方も分かってきているのだし……と挑戦したが、やはり例の場面で進めなくなってしまう。しばらくしがみついて色々と試してはみたが、腕が耐えられなくなって落ちてしまった。しばらく壁を見つめながら休憩して再び挑んだが同様だった。自分にはこの課題は登れないのだろうか。


課題は必ず順番に登らないといけないわけではなく、好きな壁の好きな課題を自由に登ってよいので、気分転換にその次の課題を登ってみることにした。多少てこずったものの、数度のチャレンジで登ることが出来た。さっきの課題と何が違ったのだろうか。また戻ってみてチャレンジしたが、敗退の数を重ねるだけになってしまった。


「そこは足を入れ替えないと難しいんだよね」と声をかけてきた人物がいた。先日受付をしてくれた、ドレッドのスタッフ。今日は先日と違って名札をぶらさげていた。どうもタケルという名前らしい。「足自由課題なんだけど、ちょっとテクニックいるよね」とタケルは言いながら、実際に登って見せてくれた。なるほど、足を入れ替えずに次のホールドを掴もうとするとバランスが悪いが、入れ替えることで無理なく手を出すことが出来るようだ。ミズキも同じようにやってみると、最初は慣れない動きに戸惑ったものの、コツをつかんだのか無事に進めるようになり、クリアすることが出来た。「ナイスー!」と声をかけてくれたタケルが握りこぶしを差し出してきたので、自分も同じように拳を差し出すとグータッチしてくれた。どうもボルダリングを嗜む人々に共通のエールらしく、先日もジムのあちこちでグータッチするシーンを見てはいたが、自分がやるとなると少し気恥ずかしいものだった。


タケルに礼を言うと、「初心者向けの課題だけど難しいよねこれ。でもこのテクニックは憶えておくと役に立つよ」とのこと。ボルダリングには色んな技術が必要らしい。何も知らないまま観ていた時は気が付かなかったが、皆そうやって色んな工夫をしながら登っているのか。ジムには初心者向けのガイドブックが置いてあるので、休憩がてら眺めてみるといいよと言い残してタケルは受付に戻っていった。


その後は更に難しい課題に挑戦したり、タケルに教わったガイドブックを眺めてみたり、他の人が登る様子を眺めながらあれはどういうテクニックなのだろうか等と考えてみたりしつつ、先日のように身体が音を上げるまでがんばってから帰路に着いた。今日は疲労感だけでなく達成感も一緒に。


 その後もミズキは一人でジムに通い続けた。上手くなっていくと共に顔見知りも増えて、タケルや他のスタッフを交えて談笑することもあった。タケルは20歳で高校生であるミズキよりは少し年上だ。いかつい見た目のせいでもっと年上かと思っていたが、そういえば笑った時は自分とそう違わない雰囲気になる。ボルダリング歴は5年というので、今の自分の年齢ぐらいから始めたことになる。5年経てば自分もタケルのように上手くなるのだろうか。


ジムでは上手い人もそうでない人も、皆それぞれの課題に挑んでいる。難易度こそ違えども、自らの限界に挑み、工夫したり身体を鍛えたりして、解決していくことは同じで、その達成感や苦労もまた共通だ。だからこそみんな頑張ってる人に対して「ガンバ!」と応援の声をかけたり、クリア出来たら「ナイスー!」とエールを送る。そこにベテランも初心者もない。そういう人と人との垣根の低さもまた、ミズキには心地よいものだった。


 ある日のこと、いつも通っているジムが休みの日に、他のジムでも登ってみたくなったミズキは少し離れたジムに遠征することにした。普段のジムとは壁の作りや使われているホールドの傾向、課題のクセなどが異なっていて、同じようには登れなかった。いつも挑戦している課題より少し難易度の低い課題に手こずっていると、馴染みの声が聞こえてきた。


「あれ、ミズキ君も来てたんだ」そう声をかけてきたのはドレッドヘアーが目立つタケルだった。仕事が休みの日に時々登りにきているらしい。「課題づくりの勉強も兼ねてね」そう答えたタケルはウォーミングアップを済ませると、ミズキが挑戦している課題よりはるかに難しい課題に挑み始めた。タケルにはタケルの挑戦があるようで、なかなか登ることが出来ない様子。見ているばかりではせっかくの遠征が勿体ないので、自分の課題に再び取り掛かった。散々苦労した挙げ句ようやくクリアすると、一息いれていたタケルが拳を差し出してくる。


「ナイスー。やったじゃん。俺もミズキ君に負けてられないな」そう言うとタケルは課題に飛びついていく。しかしそうそう登れるものではないようで、毎回同じところで跳ね返されている。繰り返し挑む姿に、観ていたミズキも熱くなり「ガンバガンバ!」と声援を投げかける。挑むタケル、応援するミズキ。ようやく難所を乗り越えたタケルに一際大きな声をかけた。「ナイス!行ける行ける!」


ついにクリアしたタケルが壁から飛び降りて、ミズキの元に駆け寄ってきた。拳を差し出して待ち構えたミズキは、まるで自分がクリアしたかのような喜んだ表情で「ナイスー!!!」とタケルを出迎えたのだった。そこにはスタッフと客という関係や、ボルダリングの先輩と後輩という関係はなかった。自らの限界に挑戦する者たちだけが通じ合える世界だけがあった。


その後も二人はお互いを励まし合い、共に悔しがり、共に喜び、ボルダリングに打ち込んだ。まるで昔からの友人のように、キラキラした目で課題を見つめて。いつもと違うジムで二人は心強い仲間同士だった。


 今はまだ、タケルには遠く及ばない。しかし向き合っている壁は同じで、その背中も遠く霞んでいるわけではなく、大きくとも目の前にある。一日一日、一手一手と進み続けることで横に並べる日は近づくのだろう。挑戦と達成。ミズキはすっかりボルダリングの世界の住人になってしまっていた。


初投稿作品です。ボルダリングをテーマに書いたので、説明が長くなってしまいました。

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― 新着の感想 ―
[一言] 経験者目線ではありますが ボルダリングを初めて経験した時の記憶が蘇ってくるような 「そうそう、こういう感じだった」 と思わしてくれる内容でした。 それまで見知らぬ相手でも 同じ課題に取り組…
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