悪事吹き飛べ春疾風!! 前編
澤井 香苗はその日、バイトから帰るところだった。黄昏空に鳥が飛んでいるのを見ながら、まだ僅かに歩きなれない帰り道を行く。
この春から地元を飛び出して、新しい地で夢に向かうことを決めた彼女は、小さな町のアパートへと引っ越してきた。近所の人は皆優しく、利便も良いのでとても気に入っている暮らしだ。
バイト先はその地域で採れるものを使った料理を提供するレストランだ。最近できたようで、一度前に家族と来て雰囲気が好きだったためにそこで働くことを決めたのだ。
もう少し腕を高めて、将来自分で店を持つことを、彼女は夢見ている。親も背中を押してくれたので、何も不満はない一人暮らしだった。
が、ある日からそれは一変した。
バイト帰りの道はいつもと変わらないように思えた。
しかし、香苗は気づいてしまった。
背後から誰かがついてきているのだ。
バイト先までは徒歩で通っている。30分も歩けば到着するくらいの距離だ。自転車はあるが徒歩の方が運動にもなるだろうと思い、毎日歩いている。
バイト先を出て10分ほどだろうか。香苗は背後に違和感を感じた。
足音が多い。
自分の他にもうひとつ。
この時間帯なら犬の散歩、仕事帰りの人間でだいたい片付くのだが、それだけでは片付けられなかった。
香苗は一度振り返ってみたのだ。しかし、そこには誰もいない。
一瞬だけ嫌な予感を覚えた。霊感はない方だが、そういう能力に目覚めてしまったのかもしれない。
違和感を抱きつつも再び歩き始めるが、やはり足音は聞こえてくる。わざと歩幅を大きくしても、ゆっくり歩いてみても、足音は少しずれて少しすると同じスピードになる。
香苗は走り出した。
自分がストーカーに合うなど考えたことがあっただろうか。ましてやこんな都会でもない町で、そんなことに巻き込まれるなど。
だが、彼女はまだ知らない。これからこれ以上のことが身に起きるなど。
*****
次の日も、そしてその次の日も香苗は例の足音と共に帰宅することになった。振り返っても誰もいない。
やはり人間では無いのだろうか、と何度も震え上がったが、電柱の後ろにスニーカーの先っぽを見た時にはそれ以上に寒気がした。
やはり人間だ。そして、確実に追われている。
香苗は近くのコンビニに入った。此処ならば安全だし、もしかしたら犯人の顔が見えるかもしれない。
コンビニに転がり込んだ香苗は、最もレジに近いお菓子コーナーでお菓子を買いに来た客のフリをした。チラリと外を見ると、紺色のパーカーの男が店の外に立っているのが見えた。
彼処にはタバコの吸殻入れは無かったはずだ。ポスターを見ているだけか_____いや、ポスターの隙間から顔が見える。その視線の先に自分は居た。
香苗はスマホを取り出した。家族共通で使っているメールアプリを開いて、両親にメールを送ろうとして指を止めた。
家を出る時、両親が大袈裟なくらい応援してくれたことを思い出したのだ。両手に荷物いっぱいだというのに、食べ物をまだ持たせてこようとする母親。父は寂しそうにしていたが、香苗なら大丈夫だ、と笑っていた。
二人のガッカリ顔を拝むわけにはいかない。ストーカー被害に遭っているなんて言えば、きっと悲しませるに違いない。
香苗はスマホをしまった。再び外を見てみると、男は居なくなっていた。しまった、と思ってお菓子コーナーを見ると、最も奥の飲み物コーナーにあの紺色が見えた。香苗は背中に冷たい汗を感じた。
目の前にあったガムを掴んでレジに持って行った。何も買わずして出るのは失礼だと、この状況でも思ってしまう自分に笑ってしまいそうになる。店員は目の前に居る客がそんな状況だとは全く思っていないのか、手早く仕事を済ませていく。
香苗は今度こそ、と店を出た。
闇の中を、何度もつまづきそうになりながら。
*****
そんな日が一週間続いた。香苗は心身ともに疲れていた。仕事でも支障が出てきており、店長に話をすると警察に言った方が良いと言われた。確かにそれが一番の解決策だろう。コンビニの防犯カメラにも映っているだろうし、顔も何度か見ている。
だが、やはり気にしてしまうのは親の顔だった。あれだけの期待を背負っているのに、怯えて戻ってきたなんてことになったらどんな顔をされるか。
香苗は気が狂いそうだった。フラフラと覚束無い足取りで今日も背中に視線を感じながら歩いていた。
一切襲いかかってくる気配は見せないので心のどこかでほっとしているが、家の場所はきっとバレてしまっているのだろう。いつ家に入られるか分からない状態なのだ。
最近はそれを恐れて眠りも浅くなってきた。朝起きるとゾンビのような自分が鏡に映ることが増えてきたのだ。
逃げ道は用意されているのに、その先に結びつくのは悲しそうな両親の顔だ。
悲しませたくなどない。せっかく自立したのに。せっかく二人の負担を軽くしてあげられると思ったのに。
気づけば視界が揺れていた。黄昏空が涙の向こう側に見える。海の中にいるようだ。溺れ死んでしまいそうな程に息苦しい。
______誰か、誰でもいいから助けて欲しい。
そう願ったときだった。
「あのー......」
そんな声が聞こえてきた。香苗の前方からだった。
視界に二人の人影がある。背の小さな少女と、背の大きい少年だった。制服に身を包んでいるので学校帰りの高校生だろう。同じ校章がついているところを見る限り、同じ学校に通っているようだ。
恋人だろうか。何とも羨ましい。
どうやら声をかけてきたのは少女の方のようだ。
鎖骨あたりまで伸びた黒髪を後ろで小さく結んで、その先っぽがぴょこ、と後ろから覗いている。
彼女は不思議そうな顔をして香苗の顔を見ていた。
泣いているのがバレてしまっただろうか。
香苗は慌てて微笑んで「どうしたの?」と、問う。
「お姉さん、家どこですか」
「えっ!?」
突然の質問にぎょっとした。まさか、あの男とグルなのだろうか、と思ってしまったが少女は「あー、いや」と笑みを浮かべて、
「こんなに綺麗なお姉さん、人気のない道歩かせるのはちょっと怖いんで......送ってくっすよ。あー、全然、断ったっていいんですけど......」
最後は本当に申し訳なさそうな顔をしていた。香苗は泣きそうになった。
暗い迷路にゴールまで導く光が降ってきたようだった。彼女に希望の手が差し伸べられたのだ。
「いいの......? あの、隣の彼が......」
香苗はチラリと少女の隣に居る少年を見る。黒髪に緑色のメッシュがところどころに入れられている。眠そうな、ぼんやりと何処か遠くを見ているような虚ろな目をしていた。それにしても背が高い。少女が小さいので一際大きく見える。頭二個分も違うのだ。
「ああ、この人はめちゃくちゃ強いので、屈強なボディーガードだと思っちゃってください。なんなら女性の一人や二人くらい、小脇に抱えて走れちゃいますよ。なあ、嵐ちゃん」
少女が彼を肘で小突いた。彼は無表情で、
「小空は無理」
と言った。少女の顔がぴき、と固まる。
「ああ? お前喧嘩売ってんのお?」
彼に向かって今にも割れそうな笑顔で指をポキポキ鳴らす少女。少年は何も言わずにその場に突っ立っている。
「あの......」
香苗が声をかけると、少女はハッとした様子で振り返った。その顔には少年には向けていなかった笑顔が浮かんでいる。
「ああ、すみません! どうです? ご一緒に!」
「......」
香苗はチラリと後ろを振り返る。そこには誰もいなかった。もしかしたら、二人に自分の存在を打ち明けられたと勘違いしているのかもしれない。だとしたら、二人といた方が安全なのではないだろうか。
「......お願いしてもいいかな」
香苗は少女に言った。少女は大きく頷いた。
「任せてください!! 私は小空と申します! こっちは嵐平です!」
「私は香苗って言うの」
「香苗さん! 可愛い名前ですね!」
「......ありがとう」
どうやら悪い子たちではないようだ。
香苗は二人と肩を並べて歩き始めた。黄昏空がいつもの何倍も綺麗に思えた。
*****
本当に楽しい帰り道だった、と香苗は思った。小空と嵐平の掛け合いが聞いていて面白いし、今の高校生の流行りや、最近の愚痴など。気づけば彼女らと同じ歳になったのではないかと思うほど話は盛り上がった。
あっという間に家の前に居て、香苗はとても残念に思った。こんなことを思うのは本当に久々だ。
「着いちゃった......もう少しお話していたかったな」
心からの本音を漏らすと、小空が悪戯っぽく笑って、「じゃあお姉さんのお家に泊まっちゃいますよ?」と言った。むしろそうして欲しいが、香苗は笑って断った。
「本当にありがとう、凄く楽しかった」
「はい、私たちも楽しかったです! いやあ、最近はほんと怖いですよねえ。ストーカーとか」
香苗はハッとした。やはり、この子は気づいていた。香苗の背後にいる男に。口に出さなかったのは、彼を刺激しないためだったのだろうか。普通の高校生ができることだろうか。
「......小空ちゃん」
ありがとう、という言葉が上手くつっかえて出てこない。声が震えそうになるのを抑えるのに精一杯だった。すると、小空は制服のポケットに手を突っ込み、何かを取り出した。
「お姉さん、これ、私の番号です」
少女はそう言って香苗に小さなメモ用紙を差し出してきた。数字が並んでいる。彼女の電話番号らしい。
「誰にも言いづらかったらすぐ電話ください。絶対守ります。いつだって駆けつけるんで」
小空の目は真剣だった。さっきの悪戯っぽい笑みは浮かんでいない。
「......いいの?」
香苗は受け取ったはいいが困惑していた。彼女の顔と手の中の紙を交互に見る。
「はい。朝方でも、夜中でも。困ったことがあれば何だっていいですよ。映画を一緒に見る相手が居ないー、とか。お腹空いたから誰か夕飯作ってくれないかなー、とか。何でもしますよ! 可愛いお姉さんのためなんで!!」
再びあの笑みを浮かべていた。香苗は微笑んで頷いた。
本気にするわけではない。どうやら彼女も楽しくて、自分とまたこうして話をしたいだけのようだ。やはり普通の女子高生なのだ。
「分かった。沢山電話しちゃうね」
「やった!! 嬉しいです!!」
やがて二人は帰ってしまった。二人の姿が見えなくなるまで彼女は手を振り続けた。何とも言えない幸せな気持ちに包まれていた。
ストーカー行為はまだ続くだろう。しかし友達ができた。彼女らとまた遊ぶ為ならば、あの男には負けていられないような気がしたのだ。