三尺の秋水
「で、ここは動詞が変形して……」
「なるほど、じゃあ、この問題も同じ?」
「うん、一緒」
「なるほどねえ」
顔を突き合わせて一つの机の上で教科書とノートを広げる女子が四人。その他にもパラパラと数人の生徒が放課後の教室に残って、勉強をしている。
色科高校、通称シキ高では、第三回目の定期考査が近づいてきていた。最初の科目は英語。
今日は全科目のテスト範囲が発表されたため、本格的に勉強を始める者が出始める頃である。どの教室も、教え、教え合う声が聞こえてくる。此処、一年五組も例外ではない。
「いやあ、助かったよ小空。アンタってなんでそんな英語得意なの?」
教科書から顔を上げた相澤 小麦は、正面に座っている小空を見た。ペン回しをして得意げになっているのが腹立たしいが、彼女のおかげで英語のテストは何とか点数を伸ばすことができそうなのだ。
「ま、将来は海外にも進出しないとね。ハリウッド女優を妻に迎えるのに必要なスキルは今のうちに磨いておかないと」
「ハリウッド女優ねえ」
小林 鞠亜が頬杖をついて半笑いをする。
「あー鞠亜ちゃん、なにさその表情! 良いじゃん、ハリウッド女優を奥さんにしたって! 海外の美女は凄いんだぞ! 何が凄いって、あの豊満な……!」
「あー、もう良い、わかった、わかった」
熱弁を始めようとする小空を押しのけ、鞠亜は教科書を閉じた。今度は数学の教科書を取り出す。
「さ、次は数学だね」
「よし、帰るか」
「待て、夏凪」
颯爽と鞄を背負う小空の腕を掴むのは、羽山 めい。彼女の剛力で、小空は再び席に戻される。
「あーん、めいちゃんの意地悪! 私はもう英語だけできりゃ良いの! 赤点だろうが欠点だろうが、もぎ取ってやろうじゃねえのっ!」
「何に闘志燃やしてんの」
「アンタ、そろそろ三回連続の欠点はまずいよ。数学の先生たちから目つけられてるんでしょ」
「別に痛くもかゆくもないもん」
小空は腕を組み、さらに足まで組んでふんぞり返った。
「先生たちには賄賂渡して、素点にプラス五十点してもらう予定だもんね」
「下手すりゃ退学だよ」
「間違いない」
小空が勉強を始める気が無いので、他の三人は教科書を開き始めた。この中で数学が飛びぬけて得意な生徒は相澤 小麦である。
彼女は鞠亜に数学の問題を教え、めいはそれを待つ間、ペットボトルを竹刀に見立てて小空の頭をパコパコと叩いていた。
「そういや、めいちゃんはまだ部活期間じゃないの?」
めいの素振りに素直に付き合いながら、小空はめいの直近のスケジュールを頭に思い浮かべていた。
彼女の頭の中には、一年五組の女子全員分の一か月分のスケジュールが叩き込まれているのである。
それに従えば、めいはまだ部活期間のはずだ。
シキ高では、テスト期間の少し前から部活停止期間に入り、生徒がテスト勉強に集中できるような環境になるのだ。
「ああ、それがね」
めいは顔に苦笑いを浮かべて、ペットボトル攻撃を止めた。
「剣道部の一年の半分が、何かしらの教科で赤点取っちゃって。ちなみに私は地学」
「なるほど」
「それで、先生がちゃんと勉強しないやつは、今度の大会に出さないって脅してきちゃってね。それで震えあがって、今こうして勉強しているってわけ」
「そりゃあ、大変」
小空が頷いたところで、廊下から「小空」と少年の声がした。其方を見ると、黒髪に緑のメッシュを入れた少年がひょっこり顔を覗かせている。
「嵐ちゃん」
「今日、部活無くなった」
「ほえ? なんでまた」
「前のテストで欠点者続出。勉強しろって、顧問が」
「君のところもかい」
*****
「おばちゃーん、アイス当たった」
「あら、すごいじゃない。小空ちゃんはラッキーガールなのね」
此処は深間商店。小空が三本目のバニラ味の棒アイスを片手に外のベンチに戻って来ると、嵐平は既に五つ目のカップアイスに木のスプーンを刺しているところだった。
「腹壊しても知らんよ」
「うん、大丈夫」
嵐平の口にアイスが吸い込まれるのを横目に、小空は棒アイスを齧った。
「またこの時期が来たなあ」
「定期考査?」
「うん。赤点、今回は何個かなあ」
教室では見栄を張っていた彼女も、慣れ親しんだ空間に来ると途端に素直になってしまうのだった。バニラアイスの吐息が秋の風に混ざる。
「三個……や、四個で止めたいね」
「自分に甘い」
「うるさいなあ。嵐ちゃんだって、そんぐらい取って……ないんだよな、これが」
いつもは無表情の彼の顔から宝石のような輝きが放たれるのが腹立たしい。
どうせ、バックでは雨斗が高級レストランのフルコースをにんじんのように竿で釣っているのだ。
嵐平の動かし方を、彼は熟知しているのである。
大体、納得がいかない。
何故、嵐平だけはテストで良い点を取った時のご褒美が用意されているのか。
隊長である自分には、何故「赤点取ったら、海外任務無し」だの「赤点取ったら、空飛べる期間短縮」だの、罰が用意されているのか。
何故、取れないという前提で約束を結ばれるのか。
「あまっちゃん、何で嵐ちゃんにだけは特別甘いのかね。裏でなんかしてんの君たち?」
「してない。雨斗は優しい。小空は期待されてないだけ」
「ひっでー」
あ、と小空はアイスの棒に目を落とす。
「当たっちゃった」
すかさず店内から「すごいじゃない」と出て来るのは、店主の深間 京子である。
「いや、おばちゃん、もう良いよ。これは次来た時に使う」
「そう? でもそうよね。食べ過ぎるとお腹壊しちゃうもの」
「例外も居るけどね」
小空はちらりと嵐平を見る。
「でも、いっぱい食べてくれるのはありがたいわ」
京子がアイスの棒をティッシュで丁寧に包んでくれる。
「最近は売れ行きがあまり良くないのよ」
「ふうん。少子高齢化ってやつかあ」
「みんなこの街から出て行っちゃうのよ。仕方のないこととは分かっているんだけれどねえ。子どもが減るのは寂しいものよね」
アイスの棒を受け取りながら、小空は商店の中を覗き込む。前に来た時と、お菓子の配置が大きく変わっていないように思われる。奥の方には埃を被っているものもありそうだ。
いつもうっすらと暗い深間商店だが、夏場はこの暗さがありがたい。
しかし、秋も深まって来るとこの暗さは何処か寂しさを帯びるのだ。
「ねえ、おばちゃん、商売やめないでね」
小空が京子を見上げると、彼女は目を丸くして小空を見下ろした。
「……やだ、心配させちゃったかしら。大丈夫よ。少なくとも、あなたたちが此処に来てくれる限りは、この店は大丈夫」
「こりゃあ、ますます離れられなくなっちゃうなあ」
ねえ、と小空は嵐平を振り返る。彼のアイスの最後の一口が、音もなく口の中に吸い込まれた。
*****
「日が暮れるの早くなったね」
夕暮れの終わりの色をした空の下を、二人は歩いていた。少し離れてしまえば、建物は全て黒い影になってしまう。
住宅街とは言えど人通りは少なく、街灯もぽつぽつと離れた間隔にあって、心もとないのだ。
小学生はおろか、この時期になると皆、明るい方の通りを選んで帰りたがる。
二人が此処を通るのは、パトロールのためだった。
「おばちゃん、本当にやめないと良いけど」
小空は、一瞬見せた彼女の驚きに満ちた表情を思い出していた。いつもの明るいトーンで言うべきが、切実が故に本音らしくなってしまったのだ。彼女に気を使わせてしまっただろうか。
「嵐ちゃん、今度行くときはアイス、今日の倍は買ってよね」
「お安い御用」
嵐平が答えた時、遠くの方で甲高い声が聞こえた。暗闇に包まれた通りの先からである。
「……聞こえた?」
「うん」
続いて、ドタドタとアスファルトを雑に蹴る音が通りの向こうから此方に向かってくる。小空と嵐平は目配せをした。足音は徐々に近づいてくる。焦りや興奮を綯い交ぜにした激しい息遣いを連れて。
暗闇から現れたのは、一人の男だった。手には小さな紙袋を持ち、雑な足運びが住宅地の壁に音を反響させている。
「ひったくりだ」
小空が呟くと、暗闇に慣れた目が男の向こう側の景色を映し出した。自転車と共に地面に横倒しになっている人物が居る。突き飛ばされたのだろう。痛みで立ち上がれない様子だった。
「嵐平っ、お前あっち!」
小空が男を指さし、嵐平が動き出す。小空が被害者の方へ向かおうとした、その時だった。
「うわっ!」
後ろで低い男の声がして、地面に激しく転がる音が聞こえてきたのだ。驚いて振り返ると、嵐平が男の手前でぽかんとしている。
男の傍に、もう一人居る。それは、中学校の制服に身を包んだ少年だった。手には竹刀袋。その竹刀袋が真横に構えられ、男の足をからめとったのだった。
「嵐平!」
小空の声に、嵐平がハッとした様子で、男の背中に飛び乗った。アイス七個分の重さに加え、駄菓子ニ十個の重さがプラスされた大きな体に、男は潰れた悲鳴を上げる。
「大丈夫ですか!」
小空は倒れている人物に駆け寄る。倒れていたのは高齢の女性だった。自転車の籠の中身はアスファルトの上に派手に散らばっている。
「ええ、大丈夫……」
「ひったくりは押さえました。怪我は……」
小空は女性を起こしながら、彼女の身体を確認するが、軽い擦り傷が見えるだけで大きな怪我はなさそうである。
ハンカチで傷口を抑えてあげながら、小空は嵐平の様子を振り返る。押さえつけながら警察に連絡したらしい。
その隣で、例の中学生の男子はおろおろとしている。咄嗟に出した竹刀袋は、既に地面とは垂直に彼の身体の傍に引き戻されていた。
「お手柄だったね」
小空が声をかけると、彼はハッとして此方にやって来た。地面に転がっている女性の私物を拾いながら、「大丈夫ですか」と走り寄って来る。長髪の少年だ。
「君、剣道部? やるじゃん!」
「あ、ありがとうございます」
彼女の自転車を直して、彼はその中に拾ったものを入れた。スタンドを下ろして、彼はいよいよすることが無くなったようだ。
「名前、なんていうの?」
「あ……朝飛です。葉室 朝飛」
「朝飛君ね。もう大丈夫だから、帰って良いよ。助かったよ、ありがとう」
小空が言うと、彼は一礼をして去って行った。
「今、警察の人来るって」
嵐平が男の背中の上で言う。「了解」と小空。
「なんだか大袈裟になってしまって、ごめんなさい」
「ひったくりは立派な犯罪ですよ」
「そうなのよね……でも」
女性がゆっくり立ち上がる。その顔には、恥ずかしそうな笑みが浮かんでいた。
「あの紙袋の中身……ワンちゃんの糞なの」
*****
「ただいまあ」
青空隊の玄関に一人の青年が入って来る。彼は玄関に靴が綺麗に並んでいることをチェックし、花瓶の花がまだ元気であることを確認すると、ようやく自分のスニーカーを脱いだ。
リビングの扉が開け放たれており、そこからテレビの音が聞こえる。ちょうど、夕方の情報番組が始まったところだ。
なるほど、駅前に新しいスーパーがオープンしたのか……。
青咲はテレビの方に意識を向けながら、リビングにやって来た。
「ただいま_____うわあっ!?」
リビングは足の踏み場のないまでに段ボール箱でいっぱいになっていたのだ。隊員たちはソファーの上に避難している。唯一、嵐平だけは床に下りて段ボールの開封作業に専念していた。
「えっと、状況が分からないんだけれど……」
家を出るときには、リビングの床は確かに何もなかったのだが。この一日で一体何があったというのだろう。最も事情に詳しそうな小空を見やると、彼女は肩を竦めるだけだった。
「私にもさっぱり」
「中身は何なの?」
「駄菓子」
嵐平がすかさず答える。
「駄菓子……」
青咲は最も近くに置かれていた段ボール箱を見る。宅配で届いたもののようだが、送り主は知らない女性だ。
「前に、学校帰りにひったくりを捕まえたって言ったでしょ。被害者の人が、助けてくれたお礼にって」
小空がそう言って、麩菓子を齧っている。
たしかに、一週間前、彼女と嵐平が帰り道にひったくりの現場に遭遇したという話を聞いていた。女性は無事だったらしく、またひったくりを捕まえる協力をしてくれたのは地元の中学生だったとも。見事な連係プレーの話を聞いて、感心したことを覚えている。
そして、小空たちが取り返した紙袋の中身が、犬の糞だったというのも驚きである。被害者の女性が、犬の散歩時にエチケット袋を忘れて、家に帰って一度犬を置いてから糞を拾いに行った帰りだったそうだ。
「でも、いくらなんでもこんなに送ってくれなくても……」
段ボール箱は全部で七つ。それぞれに駄菓子が入っているのだ。お礼にしても、これだけの量は多すぎる気もするが。
「ま、良いんじゃない」
小空は麩菓子を口に押し込み、次なる駄菓子に手を伸ばした。
「どこかの誰かの助けにはなってると思うから」
*****
「んー、テスト終わったあ」
テストの最終日、嵐平の隣で小空は大きな伸びをした。
「自信は」
「驚くほど無いね」
「俺はある」
「はいはい、どうせ三ツ星レストランのフルコースでも予約してあるんでしょ。雨斗とラブラブしておいで」
小空がベッと舌を出す。二人の目の前には深間商店。テスト終わりの打ち上げはサイダーと駄菓子に限る。
「おばちゃーん、こんちは」
小空が顔を出すと、店の中はがらんとしていた。棚の中からお菓子が消えており、奥の方でがさごそと音がするのだ。
「小空ちゃん!?」
奥の棚の陰から京子が顔を覗かせる。
「あれ、おばちゃん。まさか本当にお店畳んじゃうの?」
小空が大袈裟に顔を歪めると、「違うのよ」と彼女は慌てた様子で店の入り口まで小走りでやって来た。
「最近、大量にお菓子を買っていく人が居てね。お店に来て、段ボール一杯に駄菓子を詰めていくんだもの。業者から買った方が安いって伝えたのに、彼女が言うには、是非駄菓子屋さんから買わせてくださいって……幼稚園に寄付でもするのかしらね」
「その手があったかあ」
小空がぽつりと言う。
「えっ?」
「いや、なんでもないよ。でも良かったねえ、いっぱい売れたんでしょ? それなら、まだもう少しお店やってくれるよね」
「もちろん。それよりも棚にお菓子が無くなって大ピンチよ。小空ちゃん、嵐平ちゃん、これから少しお手伝いしてくれるかしら。もちろん、お礼は弾むから」
「タダで良いよ。ねえ、嵐ちゃん?」
小空が嵐平を振り返る。彼は頷いて、「アイス欲しい」と京子を見た。
「もちろん、半額にしてあげる」
「えー、破産しない?」
「しないしない」
さあやるわよ、と京子が腕まくりをして店の奥に戻っていく。仕入れた駄菓子の選別作業をしていたのだろう。
小空は彼女の生き生きした背中に微笑んだ。
「このお店潰れたら、どこでサイダーの飴買うのさ。ねえ、タカ兄」




