色なき風に、われから色を。 後編
「ただいまあ」
小空が家の扉を開けると、玄関の靴置きが随分寂しい。今日は買い物代行をしてからの帰宅だったので、この時間帯ならば玄関が靴まみれのはずなのだが。
「天ちゃん、どっか行ったん」
リビングに入ると、例のごとく雨斗と透真が各々忙しなく機械に向かって手を動かしていた。
「青咲兄さんも居ないじゃん。今日は早番じゃなかったっけ」
壁にかかったカレンダーには、律義に青丸がついている。あれは、青咲が早番である印なのである。大抵、夕食の材料を買い込んで、午後の二時前後には戻って来るのだが____買い忘れでもあったのだろうか。
「天助と出かけたぞ」
透真はコントローラーを握ったまま答える。「こんな時間に?」と小空はソファーに寝転がった。
「出かけたのは三時くらいだったな」
雨斗が壁の時計を見やった。
「三時て。もう六時になるんですけど」
小空はメールアプリを開いたが、それらしい連絡は入っていない。
「隣町まで買い物に行ったんかな。今日の夜ご飯、そんなに豪勢になるんかね」
「青咲は天助についていっただけだぞ。任務が入ったから」
けらけら笑う小空に対して、透真はコントローラーを握り直しながら答えた。
「あらー。そりゃ大変だ。どんなゴミ屋敷の掃除をさせられてるんだろうね、青咲お兄さんったら」
小空は言いながら、ネットサーフィンを始める。そして、その指をはたと止めた。
「……うん?」
もう一度、透真の言ったことを考える。
「青咲お兄さんが、天助についていったって言った?」
「そうだけど」
「え? 任務が入ったのは青咲じゃなくて?」
「天助」
小空はがばっと起き上がった。涼しい顔でキーボードを叩く雨斗に、「ちょっと!」と四つん這いで近づいた。
「天ちゃんに任務あげたの!?」
「ああ」
「えっ、なんで急に!?」
「別に、本人にピッタリの任務が来たからだけど」
「どんな任務だよ! リコーダーの演奏会に誘われたとか?」
小空はリコーダーを片手に家を出て行く天助を想像した。小学校の音楽会で極度の欠員でも出なければ、とてもじゃないが何でも屋にリコーダーの奏者は依頼しないだろう。誰でも良いなんて条件もないだろう、その小学校の児童であるべきだ。天助は中学生なのだ。
「なに、アホなこと言ってんだよ」
透真は呆れ顔を向けて来る。ゲーム画面が止まっているので、試合は終了したらしい。「YOU WIN」の文字が派手な金色のフォントでクルクル回っている。
その時、リビングの扉が開いた。入って来たのは、スマホを片手に持った嵐平である。
「青咲から伝言。ピザ十人前テイクアウト____じゃなかった、夜ご飯ちょっと遅れるって。肉じゃがにするって」
*****
青咲は、窓の外を見た。壁一面がガラス張りになったそこからは、大通りが見える。街灯には明かりが灯り、行きかう車がヘッドライトをつけ始めた。
部屋の中に目を戻すと、遠くのテーブルには近所の学生らしき子供たちが難しい顔をしてノートにペンを走らせている。仕事終わりのサラリーマンが、カウンターでやり取りをしている。子を連れた母親が、出入り口の壁に貼られた市内のホールで行われるコンサートのポスターを見つめている。
天助の姿は、本棚の隙間にあった。育児本が並ぶコーナーで、さっきから手に取った本を開いては戻している。その顔はこの図書館内の誰よりも真剣である。
昨晩、寝る前に雨斗から彼にひとつの依頼が来た。今まで一度も指名の依頼を受けたことが無かった天助にとっては、天と地がひっくり返る大事件だった。
そして、今朝、その依頼の内容が明らかになったのだ。
依頼主は遠い場所に住む夫婦からだった。近々二人の間に子供が生まれるのだそうだ。その名前を何か月間も考えているのだが、一向に決まらず困っているらしい。そこで、青空隊に依頼が来たのだ。
雨斗がそれを受け、まだ依頼を受けたことが無い隊員が居ると伝えたらしい。
初めての仕事を、彼に受けさせてやりたいのですが____。
夫婦はそれを快く許してくれた。ピュアな少年が考えてくれる名前だ。きっと素敵な名前をつけてもらえるだろう。
天助は顔を輝かせて、その依頼の話に耳を傾けていた。ただし、と雨斗は彼に対して厳しい口調で言った。
「名前を決めるというのは、それ相応の責任が必要な行為だ。その人の人生を決めかねない。きちんと考え抜いた名前をプレゼントしないとならないんだからな。生半可な気持ちであげた名前で、その人が幸せになれるとは俺は思わない」
学校に出かける直前の玄関で、彼はいつにも増して固い表情をしていた。
天助も、事の重大さには気づいたようだ。青空隊のメンバーがいつも貰ってくるような簡単な仕事ではないことを察したようだ。「うん」と頷く彼の横顔は、石のようだった。
「でも、天助が適当な仕事をしないってみんな信じてるから」
雨斗は表情を緩めてそう言った。
天助はそれから、自分の任務遂行のためにいろいろな案を考えたらしい。青咲が家に帰って来た頃、彼はメモ帳いっぱいに書かれた複数の名前を見せてきた。
「どうかな」
彼はどれも納得していないようだった。助けを求めてきたので、青咲はアドバイスをあげたのだ。世の中にはいろいろな名前がある。それを一気に目にできる場所に行くのはどうだろう。
そして、やって来たのが図書館だった。本の背表紙がずらりとならんでいる。そこにはたくさんの本の著者の名前が書いてある。育児本のコーナーには、名づけの本も置いてある。天助は司書に聞いて、それを探し出したらしい。二時間も前から、ずっとあの調子で本と睨めっこしているのだ。
青咲は彼を邪魔しないように、離れた位置で料理本を捲っていた。天助の初めての仕事。なるべく、自分の力で解決できるようにしてあげたいのだ。雨斗には、目でそのように訴えられた。他の隊員も、何となくその空気を察したらしい。
彼はどんな名前をつけるのだろう。彼に名付けられた子供は、どんな人生を歩んでいくのだろう。
ページを捲った時、青咲の頭に声がかかった。
「青咲」
顔を上げると、天助が立っている。手にはシャープペンとメモ帳だけがあった。
「そろそろ閉館時間?」
「ああ、そうかもね」
時計を見ると、それくらいの時間である。周囲の状況を見て気づいたようだ。
「そろそろ帰ろうか。良い名前は見つかったの?」
天助はもじもじとメモ帳に目を落としている。俯いた彼の顔にさす影の濃さで、青咲は彼の行き詰まり具合に気が付いた。
「何か美味しいものでも買って帰ろっか」
*****
川沿いの土手を歩きながら、二人はたい焼きを齧っていた。天助はつぶあん、青咲もつぶあんだ。
天助が喋り始めるまで、青咲は遠くに揺れる犬のしっぽを眺めていた。大きな白い犬だ。老犬なのだろう、飼い主の斜め後ろをゆっくりと歩いていた。飼い主も歩くスピードを合わせているようだ。若い女性だった。
「青咲って、なんで青咲って名前なの?」
天助が口を開いた。彼の手にはたい焼きのしっぽが残っていた。
「なんでだっけなあ」
青咲は残ったたい焼きを口に押し込む。
小学生の頃、自分の名前に込められた思いについて両親に聞いてくるという課題が学校から出たことがあった。それを参観日に発表するのだが、彼はその時の記憶を鮮明に頭に思い浮かべることができた。母親は、その日来なかったのだ。
「青々とした、元気いっぱいな花のように、いつまでも健康で明るくあってほしい……みたいな感じだったかな。元気な花って、見ていて明るい気持ちになるでしょ」
天助はたい焼きのしっぽを咀嚼していた。飲み込むと、また口を開いた。
「自分の名前、好き?」
前を歩いていた犬が立ち止まった。飼い主も立ち止まる。土手は狭いので、その後ろを歩く二人も自然と立ち止まった。老犬は呼吸を整えたかったらしい。三十秒もすると、またのそのそと歩き始めた。
「天助は、どうして天助って名前を付けてもらったの?」
「最初は、いろんなコーホがあったんだって」
天助はポケットの中でメモ帳をいじっていた。
「でも、おばあちゃんが、おてんと様みたいに、みんなを助けてくれる存在であってほしいって思ってつけたんだって」
「そうなんだね」
「俺ね、昔の人みたいであんまり自分の名前好きじゃなかったんだけどね、小空が名前のこと誉めてくれたんだよ。そこから、自分の名前好きになったんだよ」
犬は階段を下りていった。家の近くまで来たのだろう。住宅街に入ったのだ。
階段が好きなのだろうか。今まで飼い主の後ろを歩いていた犬は、階段に差し掛かると、我先にと下り始めたのである。老犬じゃなかったのかも、と青咲は彼らが見えなくなるまで目で追っていた。
「だから、俺が名前を付ける子にはね、自分の名前を好きになってもらいたいんだ」
「そっか。天助なら、きっと良い名前を付けられると思うな」
「ほんと?」
「うん、本当」
天助は笑った。前歯に、つぶあんの皮がぴったりくっ付いていた。
*****
次の日も、その次の日も天助は図書館に足を運んだ。閉館時間が近づくと隊員の誰かが彼を迎えに行ってあげた。
「名前ってね、ホーリツジョー十四日以内に決めないとならないんだって。本に書いてあったの」
天助はメモ帳とシャープペンを両手に持ちながら、今日も土手を歩いていた。今日の隣は小空である。
「そうなんだ。よく知ってんね」
「うん」
「それで、名前は決まったわけ?」
「うんっ」
おっ、と小空が天助を見る。運動会の行進のように、手を大きく振って堂々と歩いている少年の姿が夕暮れの空をバックに浮かび上がっている。映画のポスターのようだった。
「良かった良かった。天ちゃんが決めたんなら誰も文句は言わないさ。そんで、どんな思いを込めたわけ?」
「えっとね」
天助はメモ帳を持っている手に、シャープペンを持ち直し、片手を空にした。順々に指を折り曲げていく。
「まず、自分の名前を好きになってもらいたい! そして、自分のこと大事って思ってほしい! 周りに大好きな人がいっぱい居てほしい……」
「多いなあ」
小空が笑いながら、五本で足りなくなって、また順々に伸ばされ始める彼の指を見た。
「でも一番は、」
天助は七つ目まで喋ったところで、手を下ろした。
「俺みたいに、幸せいっぱいになってほしい!」
*****
二人が家に着いたのは六時半だった。通りにはカレーの匂いが立ち込めている。天助が「カレー!」と玄関を開けた時、リビングから雨斗の声がした。
「天助、電話」
「電話?」
天助が靴を脱いで走っていく。小空が散らばった靴を直しながら、彼に続いてリビングに入る。
かかってきたのは固定電話だった。ほとんど使われていない電話である。
「もしもし、天助です____あっ、パパーっ!!」
天助の顔がパッと晴れる。手に持っていたメモ帳が落ちたが、本人は気にも留めていないようだ。
リビングでは、雨斗と透真が定位置に、嵐平は珍しくキッチンで青咲の手伝いに勤しんでいるようだった。時折悲鳴が聞こえてくるので、上手くは行っていないようである。
「うん、元気、うん……えっ、生まれたの!?」
天助が目を丸くして電話を持ち直す。
『そう、十分も経ってないと思うな』
リビングに青咲が入って来る。助っ人を呼びに来たらしい。誰も腰を上げたがらなかった。
「ねえ、男の子? それとも女の子?」
『弟だよ』
「弟……」
天助はぎゅっと目を閉じた。口の端が持ち上がるのを我慢できない。全身に血が勢い良く回って、暑くて仕方がない。
ハッと目を開いた。
「ねえっ、ママは? ママは元気っ? ママの声聞きたい」
『まあ、落ち着いて。元気だから』
「そうだっ、名前は!?」
リビングには天助の声だけが響いていた。ゲーム音は、いくらか小さく絞られている。
『……うん。実はね、名前の事なんだけど、事前にあるところに頼んでいたんだよ』
「へえ! なんてところ?」
『青空隊っていうんだけどね』
「あおぞら____」
天助はそっと後ろを振り返った。
小空はソファーに座ってニコニコしている。雨斗はパソコンの画面に目を落としているし、透真は新しく始まったゲームに忙しそうだ。
青咲がエプロン姿で扉から顔を覗かせている。その顔には、優しい笑みが浮かんでいた。
『それで____どんな名前になったんだい?』
父の声は柔らかい。天助は口をパクパクと動かした。
自分に依頼をくれた、遠い場所に住む夫婦の正体が、電話の向こうに居るのだ。その真の依頼者が、今母親の腹の中から生まれたのである。天助もかつて居た、その腹から。
「でも」
天助は床に落ちているメモ帳を何とか拾い上げた。電話を持っている方の手が震えている。
「俺、弟の名前って知らなくて____男の子っていうのも知らなくて。もしかしたら、好きになってくれないかもしれない……」
天助はメモ帳を見つめた。何百個とひねり出した名前の中に、何重にも丸が付いたものがあった。
電話の向こうで父は黙っていた。奥の方で、赤ん坊の泣き声がした。弟の声だった。
「ハル」
天助はその声の主を呼んだ。
「空が晴れるの、ハル。晴れるって書いて、晴」
『晴』
父が繰り返した。
『うん。とっても素敵だ』
電話から少し離れたところで、「晴」と呼ぶ父の声がした。
『うん、とっても良い名前だよ』
「本当? 晴、気に入ってくれてる?」
『うん。喜んでる』
天助はぎゅっと目を閉じた。耳が痛くなるほど子機を押し付ける。
『青空隊に頼んで良かったよ。天助さん、ありがとうございました』
その言葉を聞いた時、天助は床に崩れた。
任務は成功したのだ。自分の力で、依頼主を満足させることができたのである。
*****
天助はそれから、青空隊に来る回数がぐんと減った。今までは毎日だったのが、今では週に二回、あるかないかである。
「寂しいなあー」
小空はソファーの背もたれに足をかけ、座面に背中を乗せながらスマホをスワイプしていた。画面には、隊にすっかり馴染んでいる天助の写真が映っている。青咲の隣で料理をしたり、玄関の掃き掃除をしたり、ぼーっとテレビを見ていたり、雨斗のパソコンを覗き込んだり。
この二か月間で、すっかり天助の存在は隊に溶け込んでいたのだ。
「まあ、完全に来なくなったわけではないから」
青咲がリビングの棚のほこりを叩きで落としながら、小空を振り返る。
「あーあ、ああいう癒しキャラは隊にはもっと必要だよ。ねえ、あまっちゃん、そう思うでしょ」
小空は定位置でパソコンを睨む雨斗を見る。ヘッドフォンをつけているので聞こえないだろうと思ったが、彼はすぐに片耳を浮かす。
「思わないけど」
「ええっ、アンタと透真が一番かわいがってたくせに!」
人には絶対に触らせないゲームを、天助には触らせていた透真と、天助が欲しいと言ったものが次の日には雨斗のネットショッピングのカゴの中に入っていたのを、小空は知っているのだ。
雨斗は涼しい顔をしてヘッドフォンの位置を戻した。
「新しい隊員でも、大々的に募集しようかなあ」
「これ以上増やさなくて良いよ。また天助みたいに、勝手に連れてこられたら困りますからね」
床に落としたほこりを吸着シートで拭き取りながら青咲が口を開く。
「まあ、天助みたいな可愛い子なんてそんじょそこらに居るわけじゃあないからね」
小空は笑って、スマホのスワイプをやめた。ネットサーフィンに戻るのだ。しかし、検索欄の履歴には自然と天助の文字を探してしまうのだった。
*****
「一年、声出せっ」
「はいっ!」
「二年、気合小さいっ」
「はいっ!!」
ある中学校の体育館。半面をバレー部、もう半面はさらに二分割されて、卓球部ともうひとつの部活で使っている。
ダンッ、と床が強く踏みしめられる。パチン、と力強く当たる竹の音。それをかき消す大声は、体育館中に響いていた。
「腹から声出せ! 遅い、そんなんじゃ振り向いた瞬間取られるぞ!」
頭を後ろからグッと押された少年は、卓球部との仕切りとして使っているフェンスに突っ込んだ。派手な音を立てて倒れて来るその少年に、卓球部も、そしてその奥で監督をしていた顧問の教師もぎょっとした様子で視線を寄越す。
しかし、少年を突き飛ばした張本人は、涼しい顔をして、少年には既に背を向けてしまっていた。
「だ、大丈夫ですか」
卓球部の一人が、倒れている少年に近づいていく。黒い覆いのせいで、倒れている少年の表情は見えない。もしかしたら苦悶の表情を浮かべているのかもしれないのだ。
「大丈夫っす、すみません」
少年は面の中からそう答えた。ぴょん、と立ち上がって、倒れたフェンスを卓球部員よりも先に直す。
「朝飛ぃ!! 早くしろ!」
「はいっ!」
突き飛ばした張本人の怒声に、朝飛と呼ばれたその少年は急いで戻っていく。
「あんまり手を貸さなくて良いから」
ぼんやりとする卓球部員に、先輩の卓球部員が近づいてくる。
「日常茶飯事だからさ」
「そうなんですか」
また激しい音がした。今度は外に吹き飛ばされたようだ。アスファルトの上を小石のように転がっていくさっきの少年の姿が見える。グラウンドに居たソフトボール部は、皆ぽかんとした顔で、飛び出てきた少年を見つめていた。
「剣道部、今すごくピリピリしてんの」
練習に戻るように言われ、その卓球部員は球拾い用のネットを置いた。
「後継者争いってやつ?」
ボールを打った先輩の表情は、呆れ顔であった。
「アンタはこっちに集中しな。集中できないかもだけどさ」
また雷のような音が轟いたが、その卓球部員はボールだけを追いかけることにした。




