拝啓、校庭の穴惑い
体育祭の名残がまだところどころに残っている。校庭の白線、トラック、校舎の外壁にぶら下がったままのロープ。校庭で、たまたま会った部活の仲間たちと写真を撮り終えた鹿島 桃美は、自分の教室_____一年五組に戻って来た。まだ体育祭の余韻に浸る生徒が残っており、既に帰った者も居たが、半数以上は撮りためた写真をSNSにアップする作業で忙しそうだ。部室が開くのを待っている者も居るようで、泥臭い香りが教室には充満していた。
「あっ、お疲れ。鹿島」
佐上 駿が窓辺に集まっている男子の群れの中から此方を振り返る。
「安藤先生、今日の部活は五時から始めてくれだって」
「分かった」
陸上部の簡易的な業務連絡が行われる。さっきから、スマホのアプリ内の部活のトークルームが活発に動いている。顧問も入っているルームなので、情報交換は全てスマホ上で行われるのだ。
「にしても、六組の先輩たちの追い上げやばかったよな」
「日比野先輩がアンカーなのは正解だったよね。あれは絶対に誰も勝てん」
三年生のリレーの話をしているようだ。今年の体育祭の一位は六組に捧げられた。一年六組では、リレーのエースと、担任の胴上げが行われたらしい。五組のホームルーム中、隣のクラスからは物凄い喚声が聞こえていたのだ。「うちらもやりましょうよ」とクラスの男子が言ったが、此方の担任はあのような盛り上がりは苦手らしい。高級アイスで手を打たれた。
桃美は自分の席に戻って、部室に行く用意を始めた。体育祭が終わった直後とは言え、秋は大会が多いので練習をしない日は無い。市が開催するマラソン大会の日にちも迫っている。
一年生からは、桃美と駿が選ばれていた。二年生に流行り風邪による欠員枠が出たため、仕方なく一年生から人を持ってきたのだ。人が少ない色科高校の陸上部。桃美は高跳びの選手で、長距離に特化したメニューは普段していないが、顧問に懇願されて仕方なく引き受けた。駿も、短距離走の選手だが、長距離を走るのは嫌いじゃないと言って、自分から引き受けたのである。
荷物をまとめた桃美は、ポケットからスマホを取り出す。さっきから通知が止まないアプリは、五組の生徒との連絡先が入っているトークアプリ。五組で撮った集合写真や、五組の写真部が撮った体育祭中の写真が次々とアップされているのだ。他にも、個人的な写真や先生たちの昼休憩の現場に乗り込んだ写真も上がっていて、カオスなトークルームが出来上がっている。男子の渦からも時々弾けたように笑いが起こり、その会話の中身から考えて皆、今はこのトークルームに夢中なのだろう。
桃美も一つ見てみようと、最新の写真を開いた。職員室での教師らの昼食休憩の場面の写真だ。職員室全体が映るようになっており、各々のデスクで教師たちがポーズを決めている。中には眉を顰めている先生も居るので、写真を撮った張本人はこの後叱られたのだろう。職員室でこういうことができるのは、はっちゃけっている男子か、女子では夏凪 小空くらいしか思い浮かばない。
写真を遡ると、一体いつ撮ったのだろうという絶妙な瞬間のものが次々と出てきた。優秀なカメラマンが居たようだ。伝説と言われた故意に落馬する小空や、徒競走でファンサービスを決める山吹 円香、五組の応援席側の写真まである。応援席で固唾を呑んで試合を見守るクラスメイトの顔は、言葉にしがたい緊張感が漂っていた。
(楽しかったな)
桃美はスクロールしながら何度も思った。小学生でも中学生でも体育祭はあったのに、クラスの輪から外れてるという経験すらなかったのに____今回の体育祭は、そんなネガティブな気持ちが生まれる隙を見せない面白さだった。常に感情が揺さぶられた。自分の番が近づくのが楽しみで仕方が無かった。皆の盛り上がり様が、まだ心に残っているのだ。これがあと二回も楽しめる。あと二回しか楽しめない。今日のような日が、もう二度と来ないような気がして、桃美はスクロールを止めた。
五組のトークルームを出て、続いて部活のトークルームを開く。部室の鍵の情報や、今日の練習メニューなどの業務連絡が飛び交っている。簡易的な返事が連なっていて、桃美もそれに便乗した。時計に目をやると、まだ部活が始まるまでは時間がある。今度はトークアプリを閉じて、皆が写真のアップロードに勤しんでいる写真投稿アプリに移動しようと、ホームに戻った。
アプリを探していると、
「うわっ」
「おおっ」
クラスの中で小さなどよめきが起こった。窓辺に集まった男子の中だけでなく、教室に散らばっていた他のクラスメイトからも上がったので、限られた者だけに起こったことではないらしい。
桃美も気が付いた。ちょうど、自分が座っている位置の上だ。蛍光灯が点滅しているのだ。
そう言えば、昨日、授業中に何度か点滅していた。周りで授業を受けていた生徒たちも時々煩わしそうに天井を見上げていたのだ。
「まだ変えてなかったんか」
「なー」
パチン、パチン、とガラスを爪で弾いたような音がする。桃美はじっとそれを見つめる。二回、三回の点滅が繰り返されると、元の状態に戻った。桃美が顔の向きを戻すころには、誰も蛍光灯の方など向いていなかった。一瞬、一つになったクラスの視線は、また銘々のスマホに吸い取られてしまっていた。
*****
「お疲れさまでした」
「はーい、お疲れ」
校庭の隅から暗闇が迫っている。秋になって日が短くなってくると、それに伴って部活の時間も短くなってくる。大会が近い部活の生徒たちは、まだ練習したいという気持ちを抑えて校庭を後にしなければならなかった。桃美も当然その一人である。
「帰るかー」
同じ部活でも、とりわけ高跳びの仲間は仲良しだ。秋の大会で引退する三年生は二人。二年は居らず、一年は桃美と、一組の女子のみだ。
三年の大竹 美由は高跳びのマットに勢いよく倒れ込んだ。それを見た三年の浦田 葉奈が眉を顰める。
「やめなよ。せっかく新品になったのに」
そう言って、彼女は美由の腹を叩いた。「そっちもやめろ」と美由が笑いながら体を起こした。
美由が今乗っているマットは、体育祭の一週間前に新品になった。それまでのマットは、何年も使い込まれたもので、横の穴から中のスポンジがあふれ出ていたのだ。飛ぶたびにそのスポンジが外に出てきて、部活終わりのマット周辺の掃除は必須だったくらいである。
「でも本当に良かったよね。綺麗なマットになってさ。すっごくボロボロだったもん」
二人の先輩の慣れ合いを横目に、一年の高崎 日菜子は桃美の耳元で囁いた。桃美も、大穴から見えていた中の黒ずんだスポンジを思い出す。三年の先輩が入学した当初からあのような凄惨な傷を抱えていたというのだから、一体いつから使われているのか。そんなものにゴロゴロ転がっていたとは考えていたくないが、新品になると何だか汚すのが申し訳なくて上手く飛び込んでいく気にならない。それを伝えると、日菜子は「それ何となくわかる」と苦笑した。
「新しいマットに変わってから飛び方変えちゃったもん。たかがマットなのにねえ」
ランナーで言えば、靴が変わったくらい重要なことなのかもしれない。桃美は、ようやくマットから降りた美由を見た。
「さ、満足満足。新しいマットって気持ちいよねえ。普通にベッドとしてほしいレベル」
「前の惨状を知っていたら、昼寝ぐらいに留めておくのが良い気がするなあ」
葉奈がそう言って、美由と肩を並べて歩き始める。桃美は、彼女たちの後を追いかけながら、前のマットの大穴をやはり思い出していた。気づかないうちに新品に変わっていたマット。前の古びたマットは、誰が捨てたのだろう。顧問からはマットに関する話を全く聞いていなかったのだ。
*****
答えは、そう日を置かずに明らかになった。その日の体育は外でハードルをすることになっていた。五組と六組で合同の体育となるが、ハードルの正しい設置をできる生徒は陸上部の桃美しか居ないということになっているらしい。「鹿島、倉庫の鍵開けて、ハードル持ってきて」と、体育教師に鍵を渡された。不憫に思ったらしい夏凪 小空が後ろからついてきてくれた。
「校庭の倉庫って、開けたことないやー。中に誰かエロ本隠してたりしてね」
「無いでしょー。陸上部は割と使うからなあ」
「ざんねん」
小空は笑いながら、先を行く。小動物のように素早い彼女は、体育祭で大活躍だった。特に騎馬戦。前から信じられない跳躍力を持っていたとは思っていたが、あの時の飛距離は人間ならば絶対にありえなかった。誰もが彼女に問いかけようとしたが、体育祭の放課後、彼女はそそくさと教室を逃げるように出て行ったのだ。
今ならば聞けるだろうかと、桃美は鍵をに差し込む。べこべこ音を鳴らしながら倉庫を開くと、かび臭い空気が埃と共に肺を攻めてきた。
「うわ、暗い!」
「電気はないからね。あ、それ。そこにあるのがハードル」
非力に見えたが、頑張って抱えてくれている。桃美もそれを手伝いながら、視線は倉庫の奥に向かった。何か今、見慣れたものが見えた気がしたのだ。そもそもどうしてこんなにカビと埃の臭いがするのだろう。それは、おそらく奥に鎮座した存在から放たれているらしかった。
「どうしたの?」
先に外に出た小空が聞いてくる。
桃美は「あっ」と小さく声を上げた。知っている質感と匂い。倉庫の奥に眠っているのは、部活で長い間使っていた高跳びのマットだったのである。しかし、高跳びのマットは此処にしまうようなものではない。それに____まだ捨てていなかったのか。
「なになに? やっぱエロ本?」
「違うって。マット。部活で使ってたマット、最近新しくなってさ。あそこに置いてあるのが前に使ってたやつなの」
桃美は小空に奥のマットの存在を教えてあげた。「ああー」と納得した様子だ。
「それね。白倉さんが言ってた。中のスポンジが有能なんだって」
「白倉さん?」
聞いたことのない名前に、桃美は首を傾げる。
「用務員さん。知らない? よく廊下の水回りとか掃除してくれている女の人」
女の用務員。たしかに、何度か見かけたことがある。いつもというわけではないが、時々廊下や校庭に現れては、何か作業をしているのだ。話しかけたことは無いが、いつもなんとなく隣を通り過ぎるくらいで、印象は非常に薄い。そう言う人が居たな、という認識くらいで顔なんかまともに思い出せない。
小空はどうやら彼女の名前まで知っているようだ。よっぽどのことが無ければ話さないのではないか、用務員など。それに、あの用務員はかなりの高齢だったはずだ。どれだけ守備範囲が広いのだ、と桃美は苦笑した。
「白倉さんっていうんだ、あの人」
「うん。私もなかなか話しかけられなくてさ。大抵、作業してくれるのは授業中だからね。授業を抜け出さない限りはナンパもできないわけよ」
「ナンパするなよ」
年齢で言えば、この学校では最年長になるのではないだろうか。小空の中では何歳までがオーケーになるのだろう。寧ろ守備範囲外が何歳になるのかを聞いてみたいくらいだ。
遠くで体育教師から声がかかった。何人かの女子生徒が手伝おうと此方に駆けて来る。二人では苦しいと思われたのだろう。彼女たちが来る間、桃美はマットを眺めていた。高齢女性が一人で運ぶには重量がありすぎる。老いた女性がそれを引きずっている絵は、何とも切ないものだった。
*****
体育を終え、午後の最後の授業になった。古典の授業である。体育後の授業は大半が体力を使い切って机に突っ伏している。桃美も何度か危ないところがあったが、授業の最後の方は起きていた。遅れていた板書に追い付こうと慌てて手を動かしている時、ふとあることが頭を過った。パッと上を見上げる。眩しい光が目に注がれた。
(今日の授業、一回も点滅してないや)
自分が座っている位置のちょうど真上の蛍光灯が切れかかっていたが、いつの間にか新しいものに交換されている。今日一日授業を受けていて、あのガラスを爪で叩いたような音は一度も聞こえなかったのだ。明るさも倍になった気がする。自分のノートの上に浮かんでいる影がいつも以上に濃いのだ。
「鹿島さん、どうしました? 虫でもいた?」
「えっ?」
頸を正面に戻すと、不思議そうな顔をしている教師と目が合った。
「あ、いえ……蛍光灯が……」
「蛍光灯?」
「……何でもありません」
新しくなったなど、教師は知ったこっちゃない。
桃美は椅子に座り直して、軽く周りを見回した。まだほとんどが夢の中だ。真面目な生徒だけは怪訝な顔を自分に向けていた。桃美はノートにペンを走らせながら、体育の時間に小空から聞いた話を思い出していた。廊下や校庭で作業をしているという、女性の用務員。自分の上にあるこの蛍光灯も、その人物が交換したのだろうか?
(白倉さんとか言ってたなあ)
桃美はノートの空きスペースに「しらくら」と書いた。小空は、彼女のことをどこまで知っているのだろう。
ノートから顔を上げて、小空の方を見てみる。当たり前のように彼女もノートの上に突っ伏していた。いや、ノートすら開いていない。彼女のことを叱る教師の声が何度か教室に響いたが、彼女はほとんど起きる気配が無かった。
小空が座るのは窓際の席である。目は自然と彼女の向こうの窓ガラスを向く。黒々したぶ厚い雲が、空を覆いつくしている。
*****
その土日は二日とも、狂ったように風と雨が襲い掛かって来る酷い天気だった。今年一番と言われていた大きな台風が来ていたのである。土日の部活は無しになった。
部活の無い久々の週末を満喫した桃美は、月曜日、校庭のコンディションに不安を覚えながら登校した。当然、校庭がダメならば部活は難しい。長距離走の選手たちは学外でランニングができるが、高跳びはそう言うわけにもいかない。
週末の休みは嬉しかったが、普段の部活が無くなるのは困る。三日も飛んでいないと体が鈍ってしまう気がして仕方がない。雨の後のグラウンドが、この世で最も憎い。
すっかり朝から気分が落ち込んでしまった。学校最寄りの駅から出て、通学路を歩く。道路には台風によって飛ばされただろう落ち葉や、いつもは見ない大きさの木の枝が放置されていた。車がそれを避けて走っていく。歩道にも木の枝が大量に落ちていた。
「おはよー、桃美ちゃん」
学校の前まで来たところで、後ろから声がかかった。振り返ると、小空が居る。隣にはいつも一緒に昼食を食べている四組の男子が居た。噂では同棲しているという話だが、本当にそうなのだろうか。桃美は小空よりも隣の男子に目を向けながら「おはよ」と返す。
「すごい台風だったね。土日、部活あったの?」
「さすがに休みだったよ。今日も、下手したら部活無いかもなあ」
「え、大会近いんじゃなかったっけ」
小空は横に並んで歩き出した。そうなるともう一人の男子が心配になるが、後ろから黙ってついてきている気配がある。小空も特に心配する様子はないので、桃美も気にしないようにした。
「うん。来週の土曜日」
「そうなんだあ。私、応援行って良いのかな?」
「無理。関係者しか会場に入れないんだから」
「関係者じゃん!」
「どこがよ」
桃美は笑って、角を曲がる。校庭が見えた。ハッと息を呑む。
湖のような大きな水たまりを覚悟していた。しかし、何処にもそんなもの見当たらない。あるのは少し湿ったグラウンド。そして、その真ん中で四つん這いになって作業をしている一人の女性だった。
「あっ、白倉さんだ!」
隣で明るくそんな声がした。桃美は驚いて隣を見る。
「前に言ってた人? あの人が?」
「そうだよ! 挨拶しに行こっか!」
小空がそう言って、小走りでグラウンドに降りていく。桃美も慌てて後に続いた。
グラウンドの砂は少し湿っている程度だった。部活は問題なくできるだろう。落葉は見えるが、通学路で見た大きな枝などは何処にも無い。昨日、一昨日の暴風雨が嘘だったかのようなコンディションだ。
女性は二人の生徒の足音に顔を上げた。物柔らかな顔、銀縁の眼鏡はビーズのチェーンで落ちないようになっていた。鼻からずり落ちそうな眼鏡を肘の内側で元の位置に戻して、彼女はレンズの奥の目を細めた。
「小空ちゃん。おはよう」
小空の名前は知っているようだ。桃美は二人の会話に耳を傾けた。
「おはようございます! 土日は大雨でしたね」
「そうなのよお」
白倉は微笑む。人当たりの良さそうな、優しい声だった。
彼女の姿を、桃美はやはり何度か見たことがあった。用務員と言われれば、彼女の姿を思い浮かべることができる。それなのに、声も顔も、今初めて知った。名前だって小空に教えてもらうまで知らなかった。
若葉色のエプロンと、ピンクのゴム手袋。ゴム手袋には黄色いスポンジが握られている。そのスポンジを、桃美は何処かで見たことがあった。黒ずんでいて、市販で売っているような直方体のスポンジではなかった。大きな塊から力任せに引きちぎったような手作りスポンジである。彼女は、小空と会話しながらそれを地面に押し当てているのだ。そして、隣に置いてある青いプラスチックのバケツの中に、吸った泥水を絞り落としている。
「其方は?」
気づくと、話題の中心が自分になっていた。二人の目が自分に向いていることに気づいて、桃美は慌てて会釈した。
「一年五組の、鹿島 桃美です」
一年五組は余計だっただろうか、と言ってから気が付く。すぐに白倉が立ち上がった。背が小空よりも小さい。150センチも無いのではないか。腰が丸まっているのでそう見えてしまうようだ。それでも、桃美よりは背が低い。腕も足も、細くて頼りない。あの台風の強風で立ってなどいられないだろう。
彼女は桃美に小さく頭を下げた。小さな背がさらに小さくなって、このまま縮んで消えてしまうのではないかと心配になるほどにまでなってしまった。
「白倉 八重子です。小空ちゃんと同じクラスなのね」
小空を見ると、彼女も此方を向いていた。何か言わなければならないようだが、何を言えば良いのか分からない。そこで、桃美は「その」と白倉の手の中にあるスポンジを指さした。白倉は「これ?」とスポンジを軽く上げて見せた。
「今、何をされているんですか?」
すると、白倉は再び地面にしゃがみ込んだ。湿った地面に、手の中のスポンジが押し付けられた。十分に泥水が染み入ると、今度はバケツの中に持ってきて絞っている。バケツには、底の方に泥水が溜まっていた。
「こうして、校庭にできた水たまりをなくしているの」
「そのスポンジ……」
「これは、高跳び用のマットから拝借したのよ。ボロボロになっていたマットがあったでしょう。あれね、中のスポンジが有能なのよ」
同じ言葉を最近聞いた。桃美の頭の中で、言葉のピースがピタリとはまった。小空を見ると、彼女の顔には悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
「いつ廃棄になるか楽しみにしていたのよね。彼には第二の人生があるんだから」
桃美は、再び地面に押し付けられている黒ずんだ黄色を見た。第二の人生で、まさか校庭の泥水集めに使われるとはマットも思っていなかっただろうに。「彼」などと呼ばれているようでは、本当に生きてるかのようだ。
「ね? 面白い人でしょ」
小空が囁いてくる。桃美は頷いて、校庭を見回した。マットが新調される前は、雨が降るたびに巨大な水たまりがグラウンドのあちこちで出来ていた。今回の大雨ならば、いつもの比にならない大きさの水たまりができていても不思議でないのに。
桃美は白倉に目を戻した。
一体、何時から学校に来てこの作業をしているのか。
「そろそろ行こうか」
小空がスマホを見た。ホームルーム開始十分前である。歩いていこうとする小空に半分体を向けながら、桃美は「あの」と白倉に声をかけた。眼鏡のチェーンがちゃりちゃりと小気味良い音を奏でている。
「いつもありがとうございます」
流れ出るように、自然とそんな言葉が出てきたことに自分で驚いた。白倉は再び肘の内側で眼鏡を押し上げる。下ばかり向いているので落ちてきやすいのだろう。彼女の優しい顔が、さらに優しくなったように見えた。笑うと、また可愛らしいのだった。
「どういたしまして」
久々に、そんな言葉のやり取りをした。小空の背中を追いかけながら、教科書のような言葉のやり取りだったな、と桃美は思った。実際に口にするとなると、気恥ずかしい言葉なのに____自然とそれが口から出て来るのは、何だか不思議だった。
*****
それから二週間後。その日の朝、桃美は早起きして学校に行った。予定していた時間にしっかり起きて、驚く家族の顔を見ながら朝食を食べ、いつもより三十分も早く家を出た。一本早い電車に乗って、まだ生徒が少ない学校に着く。
幸運なことに、前日は雨だった。その日も、彼女の姿は校庭にあるはずだった。角を曲がって、きちんとそれを確認した。
「居た」
彼女は坂を降り始める。誰も見てないのを良いことに、大きく手を振った。
「白倉さん!」
今日も彼女はスポンジで水を吸い上げていた。バケツの中には、きっと泥水が溜まっている。あれから毎日、彼女を見かけるたびに声をかけ続けていた。時間があるときには手伝いもした。今では誰よりも近しい存在なのである。
「優勝しましたー!!」
そして、雨上がりのグラウンドが今は大好きになった。




